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原始キリスト・縄文教は同じですか(じょぉもん八百万

或る動画で語られていた宗教観ですが、それによりますと、縄文時代の八百万の神と、原始キリスト教の頃の万物への愛は同じものだったようです あなたはどう思われますか、そういうことはありうると御感じになられますか? (文中で使用の用語には便宜的・暫定的なものが複数含まれます) ……………… 基本第一原則 存在を科学的か、非科学的かで分類すると、例えば物質と霊魂は分かたれ、エネルギーは基本的には物理現象として「物質寄り」と捉えられるでしょう 基本第二原則 存在を視えるか、視えないかで分類すると、例えば物質と霊魂は分かたれ、エネルギーは基本的には視え難いとして「霊魂寄り」と捉えられるでしょう ……………… 意識第一原則 これまで知られている範囲で、意識があるものと、ないもの、ということで分類するとすると、エネルギーは、意識がないものと、意識があるものに分かれるでしょう 意識第二原則 全てに意識があるとかんがえると、物質と、エネルギーと、霊魂は同じものになるでしょう ……………… 結合第一原則 例えば人間は、科学的にも、非科学的にも意識がある物質と考えられるでしょう(結) 結合第二原則 例えば人間は、物質と霊魂という少なくとも二種類によって出来ているでしょう(合) 結合第三原則 それら(物質・霊魂)は、包括的に「広義のエネルギー」と呼べるでしょう (狭義のエネルギーは物質・霊魂の中間でしょう)(合合) (※全ての乱文・誤字・誤記等をご容赦くださいませ ご参考まで…相関表を添付するつもりです) 即ち縄文時代では全てに意識があるとされ(八百万の神)、キリスト教の初期教えも同じで全てが愛すべき意識体だったようです ただ証明が確立された話ではないようで、あなたならどう考えますか? (下記は要約のようなものだったりしますが無視して頂いて大丈夫です)  【ユダヤ教(前提)キリスト(第一)宗教改革(後年改竄聖書回帰運動)、初代仏教(祖師)創設】  【聖書(両(/同時))改竄、仏典溷濁 (縄文系)総改竄】  【唯一神化、唯我独尊化】  【第一改悪‐神仏同一宗教(縄文系)対立‥‥第二改悪‐神格全層階級化】  【第三改悪‐「均一非唯物、意識体」概念‐検閲、(通常)精神操作、記憶削除‥‥第四改悪‐(可視)固形(部分)域、唯物化】

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  • eroero4649
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回答No.1

縄文時代の宗教観が八百万の神々であったとする証拠は何もないので、縄文時代の人々がどのような宗教観を持っていたのかは全く分かっていません。 ただ、子供が亡くなったときは家の入口に埋める習慣があったらしいので、何か独特の宗教観を持っていたのだろうといわれています。遮光器土偶はほぼ必ずといっていいほど足などの一部がわざと壊されて埋められていました。何か宗教的儀式に基づいていたのだろうといわれています。 一方のキリスト教は一神教であるユダヤ教から生まれたので、宗教観が根底から違います。 ただ「違う」という決定的な証拠もない(そもそも縄文人の宗教観が分からない)ので、勝手に想像して「これは同じだと思う。なんとなくそんな気がするね」といわれても否定する根拠もありません。 それぞれの宗教観の出処から考えると、違うと考えるのが一般的かなと思います。そもそも日本古来の宗教(神道)には「愛」という概念はないですからね。あるのは「和魂」「荒魂」という概念だけです。

jiijiijiji
質問者

お礼

ありがとうございます >縄文時代の宗教観が八百万の神々であったとする証拠は何もないので、縄文時代の人々がどのような宗教観を持っていたのかは全く分かっていません (こちらが)お久しぶりで(す)懲りずに(別キャラで)お相手くださったようで(ありがとうございます) また添付画像を付けるかにアナウンスしておきながらというようなことについては、申し訳ございませんでした(一応、書いたことと思いますし、お読みの(他の)みな様にも、お詫び申し上げたく思います) さて現代が文明末であれば、(文明と心中する意味で)現代の学問(科学、学術)は崩壊期に入ったかと思っております ご存じかと思いますが、論文の9割ぐらいが(学術誌に掲載されても)使いものにならないような話があるでしょうけれども(数値に誤差が出る意味で再現性が無いことを含む)、学者は、それを大っぴらにしたくない(学問の方法が根本から見直しを迫られている)かと思います 考古学にも(他に有力な見解が無ければ「恐らくこうだろう」的な)推測の域を出ない「定説」が含まれていると思います 私が知る情報では(あなたは“証言”を御認めにならないと思いますが)縄文については結構わかっていることがあろうかと思います(これは何方を信じるかの「信仰上の」的な水掛け論になりうるでしょうけど) 縄文時代盛期には万物が等しく意識をもち、神のような力、若しくは自由な個別環境造形力のようなものを持つという考えかたが広くシェアされていたでしょう(八百万信仰との表現は、或いは正確さを欠くかもしれませんけれども) 後半5000年ぐらいは半島弥生人の所有の概念が入り、砦は無いが柵が有ったというような状況も、殆どの(?)男性が入れ墨をした(または女系体制にさせられていた)というのもこの時期かと思います >ただ、子供が亡くなったときは家の入口に埋める習慣があったらしいので、何か独特の宗教観を持っていたのだろうといわれています 恥ずかしながら(?)それらは知りませんでしたが縄文人は死に対して寧ろ恬淡とし、だから近場に埋めて肥料というと何ですが単に大地に御還ししていたのでないですか(独特な宗教は半弥生かもしれませんね) ともかく盛期縄文人は、多くが子供を区別せず、一人の人間と見做していたようです >遮光器土偶はほぼ必ずといっていいほど足などの一部がわざと壊されて埋められていました。何か宗教的儀式に基づいていたのだろうといわれています これらが支配者を象っているのでなかったなら、このような別存在を(崇拝対象というか親近者として)認めさせないようにしたことはありうるかもしれないものの土器を除く、縄文の遺物が少ないことと併せ、壊すのは、大地に借りて作った造形物を最後は自然に還す世界観(死生観)からということかもしれません >一方のキリスト教は一神教であるユダヤ教から生まれたので、宗教観が根底から違います 一神教は、実は支配者の後付けであって、聖書の改竄が繰り返されたということのようです イエス‐キリストがユダヤ教徒であろうとも彼は独自ソースというか、別の情報経路のようなものをもっており、完成版ユダヤ(旧)教とは思想の根本が違っていたかと思います イエス‐キリストが当初、説いていたのも全ての存在に意識があり、神のような力、若しくは自由な個別環境造形力のようなものを持つという考えかただったようです >ただ「違う」という決定的な証拠もない(そもそも縄文人の宗教観が分からない)ので、勝手に想像して「これは同じだと思う。なんとなくそんな気がするね」といわれても否定する根拠もありません 「根拠」というのは何でしょうか 例えば、ストーンサークルはスキタイ人の墓というような「学説」があるなら、それは(部分的には有ったのかもしれないが)出鱈目でしょう 証言が残っていて、想像ではないということでしょうけれども、あなたには理解できないかもしれません >それぞれの宗教観の出処から考えると、違うと考えるのが一般的かなと思います 確かに地域は違っているでしょうが、縄文と原始キリストのソースは同じだったということでしょう >そもそも日本古来の宗教(神道)には「愛」という概念はないですからね そうなのかもしれないけど(日本独自の)シントウは、縄文よりも後でしょう >あるのは「和魂」「荒魂」という概念だけです 縄文の「正確な(捻じ曲げられたような後世の世界観や空想でなくて実相に即した)世界像」における魂の違いとしては、これらは明確に区別されるようなものでない「個性のグラデーション」的なものでしょう  ( ※ 全ての乱文・誤字・誤記等をご容赦くださいませ) あなたに判る説明ができていないようなことには御認め可能でしょう ただ、あなたには、偶々事実を知る機会が無かったということかもと (毎度?)有り難うございました

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