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八百万の神様について

カテゴリーが分からないのでアンケートカテにて質問します。 日本では古くから、すべてのものに神様が宿るといわれていますが、 質問1、例えばですが、にんじん一つ一つに違う神様が宿るのでしょうか? またはすべてのにんじんに、にんじんの神様が宿るのでしょうか? 質問2、例えばカレーを作った場合、カレーは「にんじんの神様、ジャガイモの神様、たまねぎの神様、豚肉の神様、スパイスの神様たちの集まり」になるのですか? それとも全員が混ざって「カレーの神様」になるのですか? 分からない場合は、あなたの意見を教えてください。 注意:カレーの王子様の話ではありません

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  • kurisogeno
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回答No.1

八百万の神と言うのは、全てに神が宿っているという訳ではなく、 神のように丁寧かつ丁重にモノを扱えば、神が宿るという事を示す 言葉で、漫然と神が宿ると言う事は無いのです。 妖怪で「モノ付き」や「化け道具」等も八百万の神と同種と考えても 間違いでは無いと思います。 質問1の回答は 人参と言う神が居ると考える方が正しいのかも知れません、 ですが、単に人参の神と言えども、複数居ても構わないと思います。 質問2の回答 カレーの神は八百万で無くとも、他宗教で存在していますので、 此方はカレー神としたほうが良いのかもしれません。 ですが、日本的に言えば集合神と捉えてもおかしくは無いと思います。 モノを大切に扱い、時の輪廻を超えれば神になり、 時の輪廻に逆らって捨ててしまえば、化け物になり、 と、祖父が教えてくれました。

noname#164192
質問者

お礼

とても分かりやすく説明していただき、ありがとうございます! カレーの神様がいることにおどろきました。 最後の文も、ステキな言葉です。

その他の回答 (5)

  • d_g
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回答No.6

分からないのでただの意見で。 質問1、 付喪神のようなイメージで、人参1つ1つにそれぞれの人参神が宿ると捉えています。 質問2、 そこは考えた事がありませんでしたね。 混在? カレーをアパートに例えるなら、カレー神という大家がいて、人参神やジャガイモ神が入居してますという感じで。 …だとするとタンパク質神とか炭素神とかも内在することに…さらには中性子神とか…押しくらまんじゅうなイメージになってしまいました。

noname#164192
質問者

お礼

ありがとうございます! カレーのアパート、面白い考え方だなと思いました。カレーなどの料理だと、神様がごちゃ混ぜになってちょっと嫌ですよね。

  • mdh57
  • ベストアンサー率25% (7/27)
回答No.5

八百万の神様の話は迷信なので、全く気にする必要ないので安心してください。 私事で恐縮ですが・・・ 仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」としてふわふわ存在するのではなく、死後は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。 簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。 過去世の行いにより、現世の境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、決定している宿業でも「宿業(宿命)転換」が可能です。 仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。 釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして釈迦自身が否定し、「法華経28品」を説きます。 しかし、その「法華経」も、釈迦の死後2000年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。そして、釈迦が「文底秘沈」した(明らかにしなかった)「法華経文底独一本門」(唯一の無神論の信仰)が末法で信仰すべき仏法だと教えています。 「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、来世は戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。 それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。 簡単に例えると、テロリストの子として生まれ、出生時から洗脳され、自分もテロリストになって、人殺しをしてしまう、等々が、これにあたります。 私はその「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。 これは、10年間かけて勉強と経験を積み重ねて出した結論です。 私は前半は、外道(キリスト教や神道などの神論)や、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門(無神論)にたどりつきました。そして、邪宗や占い師など、(もちろんカルトも)信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。 10年かけてしっかり宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。 ここで詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかる事なので、ここでは省略します。申し訳ございません。

noname#164192
質問者

お礼

回答ありがとございます。 ちょっとわたしには難しかったみたいです。

回答No.4

> 質問1 私の身の回り(家、町/村)では、農作物全体の神様としています。 人参の神様とか、人参一本一本にそれぞれの神様が付くというのはあまり聞きません。 > 質問2 集まりになります。 あと、水の神様、火の神様や、料理の神様も手伝ってくれることがあります。 農作物の神様がその分身や化身を1本1本全部に宿していくのは大変なので、 代表の1本だけに宿して(結果、人の形になるとか、他とは違う実のなり方になる感じ)、 ここにいるよと目印を付けたりします。 頑張って育てたり、料理すれば、 神様もそれに応えて頑張って豊作にしてくれたり、いつもよりおいしくしてくれます。

noname#164192
質問者

お礼

的確なお答え、ありがとうございます。 やはり神様の集合ととらえるのが日本的なんですね。 >農作物の神様がその分身や化身を1本1本全部に宿していくのは大変なので代表の1本だけに宿して わたしは逆に、人間が1本1本祭るのが大変なので、代表の1本にしたのかと思いました。

  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1846/10420)
回答No.3

「神様」を「かみさま」としか読めない、受け止められないならそのような疑問が出ることは理解できます。 私はそれらを「感謝の対象」と受け止めています。 植物にも生があり、その生を食べなければ生きてはいけない人間の業を認めた上でニンジンにも感謝します。 カレーになった場合、植物の生に加えて作ってくれた誰かに対して感謝の気持ちを持ちます。 人は人単体では生命を維持することもできない弱い生物だから、「感謝の対象」は「神」に近い存在だと考えるのではないでしょうか。 お米を食べる時はお米と生産者、流通業者、販売者、自らの収入の中から出費して買ってくれた方、そして炊いてくれた方と多くの「神」が存在することとなりますね。 「八百万」ではとても足りません。

noname#164192
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまり野菜などは神様が宿っているわけではなく、感謝の対象ということですか? 感謝の対象にはない無生物には、神は宿らないのでしょうか? >「八百万」ではとても足りません。 すごく多いことを、八百万というので、きっちり800万、ってことではないと思いますよ

回答No.2

私の意見 人間にできて、コンピュータにできない能力のひとつに 「パターン認識能力」というものがあります。 たとえばニンジンなら、 コンピュータは橙色、有機物、70g、100cm^3といった認識しかできません。 人間はニンジンをニンジンとして(たとえそれがイビツな形でも)直感で認識できます。 八百万の神々は人間の思考の中においでになるので、 人間が「ある物体」をカレーだ、ニンジンだと認識した時、 カレーの神様、ニンジンの神様がお宿りになります。 Aさんがカレーだと認識すれば、それにカレーの神様がお宿りになり、 Bさんがジャ○カレーだと認識すれば、それにジ○ワカレーの神様がお宿りになる。 見る人によって1つの物体に幾多の神々が宿られる。 だからこそ八百万の神々。 私はそう認識しています。 コンピュータ・ロボットには神々は見えない。このへんも神話チックでしょ?

noname#164192
質問者

お礼

すごく面白い考え方、ありがとうございます! 神様は思想的なもので、みんな違うということですね。 ちょっと掘り下げると宗教チックになってしまいそうです。