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戦前政治について

戦前の政治についてですが、 国家総動員法は議会の力をかなりそぐようなものだと思うんですが、なぜ成立したんでしょう。何対何の結果かわかるとうれしいです。 この直前に民政党と政友会本部が占領されたという記事を発見しましたが、それ以外みつかりませんでした、本当にあった事件ならこれが影響してるのか教えてほしいです。

みんなの回答

  • been
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回答No.4

国家総動員法は全会一致で成立しているのですから、戦争の遂行という当時最大の政治目的を達成するための手段として多くの政治家がその必要性を認めた、と考えるのが自然です。また、そう考えるのが当時の価値観に沿うものだと思います。 軍部の圧力を指摘する論者もいますが、多くの場合具体的な論拠(軍部の誰が、いつ、どの政党・議員に対してどのような圧力を加えたのか)が示されていないので、とうてい信用に値しません。終戦直後、多くの軍国主義者が一夜にして民主主義者に変貌しました。上記のような意見は、軍部批判の大合唱を利用して、自らの判断の誤りの責任を軍部に押し付けるずる賢い似非民主主義者のいい訳である可能性も十分にあるので注意を要します。 ところで、質問の本筋からは外れますが・・・ 国家総動員法をはるかに上回る古今東西前代未聞の究極の授権法があります。これに比べれば国家総動員法など可愛いものです。成立したものの終戦により未施行となった「戦時緊急措置法」がそれです。当時の政治家は、このような法律を可決させるほどに、戦争の遂行を重視していたのです。

参考URL:
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs20-38.htm
  • amleth
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回答No.3

國家總動員法の成立に關しては樣々な見方が有るでせうが 最近見附けた下記のサイトに 注目すべき成立の經緯が解説されてをりました.ゾルゲ事件などとの關聯なども採上げられてゐるといつた大變詳細かつ廣範な研究で 私も未だ讀み通してはをりませんが 窮めて説得的な内容です.サイトの名前から 所謂「右翼」の主張と勘違ひされるやも知れませんが 作者のものの見方は 常識の範圍のものであると思ひます.是非一覧を. 「戦争の天才と謀略の天才の戦い」 国民のための大東亜戦争正統抄史1928?56 第一章 支那事変抄史 【南京陥落】9、国家総動員法 に 解説があります. また書籍としましては「超整理法」などの著者 野口悠紀雄氏の「1940年體制(畧字で体制となつてゐますが)」東洋經濟新報社が參考と成るでせう. 今日の日本を未だに「呪縛」する國家總動員法と當時の日本を知る事は 所謂「小泉改革」の方向を知る爲にも 必須の知識と成る筈です.この觀點を缺く爲の頓珍漢な「小泉批判」は 後を絶ちません. それから やや細かな成立過程を述べたものとしては NHK出版の「日本株式會社の成立(慥[たし]か此の書名だと思ひます)」に 當時の擔當官を中心とした物語として 紹介されてをります. 以上 取り急ぎ 御知らせ迄.

参考URL:
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/index.htm
noname#13438
noname#13438
回答No.2

#1ですが、一つ訂正です。 日中戦争が始まったのは、1937年(昭和12年)でした。

noname#13438
noname#13438
回答No.1

政府が上程した法案の審議過程では、政友会と民政党は違憲を主張して強く反対意見を述べたようですが、結局は軍部の圧力等で、無修正・全会一致で可決したそうです。 当時の時代背景としては、この前年(1932年)に日中戦争が始まったため、戦時国家体制を強化する必要があり、社会全体の思潮がその方向に進みつつあったので、政党もその流れに抗することができなかったものと思われます。 政党本部占拠事件は、「防共護国団」という政治団体が、両党の解消→挙国一致による新党樹立を要求したものですが、事件自体は警視庁によって10時間後に全員検挙され解決したようなので、これが決定的な要因ではないですが、政党に対する心理的な威圧の一つにはなったと思います。 ただ、この事件の背景は大きかったようで、当時の近衛首相が事前に承知していたとか、合法無産政党の社会大衆党の幹部も関わっていたという話もあるようです。政友・民政両党が時流に沈黙したのに比べて、社会民主主義を標榜していた社会大衆党が、社会主義的計画経済に擬して、戦時統制体制に積極的に賛成していたこと等も、当時の複雑な時代背景の証左になるかと思います。 (毎日新聞社「昭和史辞典」、講談社「昭和史辞典」、中公新書「近衛新体制」を拾い読み)