常識的な答えになりますが、昔も今も頭が良い人もいればそうでない人もいるので、一概にどちらが優れているとは言えないと考えます。
それに同じく「頭が良い」といっても、時代が異なるものを比較するのは困難です。世界的な競争の中、独自のアルゴリズムを開発してスーパーコンピューターで円周率を億の桁まで計算した現代の研究者と、ほとんど外国(特に西洋)との交流がない中で、オリジナルの公式や誤差計算法を独力で発見して、手計算で円周率を40桁まで計算した江戸時代の和算家を比較して、どちらが「頭が良い」かなど、にわかには決められないのではないでしょうか。
少なくとも言えることは、現代の私達が何事においても昔の人より効率的に学習・習得できるのは、先人たちが営々として築き上げてきた成果を利用できるおかげである(西洋の学者の表現を借用すれば「巨人の肩の上に乗れる」)からであって、必ずしも能力そのものが向上したからではないということです。
今から200年以上昔の江戸時代にこんな話があります。天文方を務める二人の学者が外出先の江戸橋付近で、明るい木星が月に隠されようとしている珍しい現象(木星食)に遭遇しましたが、当時のことゆえ時計は持っていませんでした。
そこで持ち合わせていた懐中紙を裂いてこよりを作り、穴の開いた銅銭に結び付けて振り子を作りました。そして星が月に隠された潜入の瞬間から一人がその振り子を振り続け、もう一人がその振れた数を数え続けながら、浅草にあった天文台(司天台)へ歩いて帰ったというのです。
天文台には正確な時計があったので、帰り着いて時計を見るまでの振り子の振れた回数から星食が起きた時刻を推定し、また望遠鏡を使って出現の時刻は精密に測定できたということです。寛政七年七月十三日(グレゴリオ暦1795年8月27日)の宵の話です。
江戸時代の学者が振り子の等時性を知っていただけでなく、とっさに手持ちの紙と銅銭から即席の振り子を作って時間を計るという発想はすばらしいと思います。様々な便利な機器があふれている現代人は思いつかないのではないでしょうか。この意味では「昔の人は頭が良かった」と言ってよかろうと考えます。
明治になって、近代的な学校教育が発達したのは良かったけれど、一定の鋳型にはめ込むような教育が続き、江戸時代の和算のような、学問の自由な楽しさや考える喜びを奪ってしまった一面もあるのではないかという懸念があります。最近問題視されている日本の生徒の「読解力不足」も、単なる国語力やコンピューターの活用力の問題ではなく、「正解は一つ」「(複数でも)問題には必ず正解がある」という、学校教育が陥りがちな無意識の前提がその背景にあるのではないかと考えます。