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質問者が選んだベストアンサー
魂って言うと難しいですが、大抵の生物には本能とでもいうのでしょうか?がありますね、動物等もほぼ無意識に呼吸をしたり食物を食べたり、細菌とか遺伝子レベルだと自然に動いたり(運動したり)するのはまぁざっくり言うと宇宙・自然界の決まり事かな?自然現象というやつでまとめられていますでしょうか。
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現在の医学、及び生物学では "魂(soul)" とは何かが定義されていませんので。そもそも定義されていない最初からモノは存在しません。それが精子だろうが胎児だろうが、成人した一般男性であろうが、全て等しく未定義です。 P.S. 一般にキリスト教では、男性の精子と女性の卵子が受精した瞬間から、人間としての生命が始まると考えています。そしてキリスト教では「人間だけが神に愛された魂を持つ存在」だと考えていますので、精子にしろ卵子にしろ、受精前の生殖細胞の時点では「まだ人間では無い」と考えますので、従って魂を宿してはいないと考えます。このため教義的には「受精した瞬間の受精卵の時点で人である」と解釈するのが多数派となるため、内心的には「中絶行為=殺人」と考える人が多くなります。そして実際、カソリックでは基本的には中絶行為は禁忌であり、ましてや医者による人工中絶手術など以ての外と考えています。 イスラム教ではその辺が明確に定義されてはおらず、宗派によっても違いますし、同じ宗派でもその時々の状況によってかなり柔軟に解釈を変化させて対応します。一般には聖典の1つとされる預言者ムハンマドの言行録である『ハディース (Al Hadith)』の中に「人は母親の胎内で120日かけて人間となる」と記述されている事を根拠に、受胎から120日以内であれば "それ" はまだ人では無いという解釈をし、そのためその期間内であれば人工中絶を行っても良いと考える宗派が多いです。またこの事から当然、受精前の精子や卵子には人としての魂は宿っていないと考えます。 では仏教ではどの様に考えているのかと言うと…これは仏教の宗派が世界中の国と地域で様々にローカライズされており、その教義や禁忌なども実に多種多様に変化しています。このため一概に「仏教では~」という風には話を一括にする事が出来ません。これは他の宗教の様に信者達がお手本とすべき "聖典" が仏教には存在していない事も大きな理由の1つです。つまり各宗派の開祖や最高位のお坊さんが、自分らの独自解釈を信徒に説法する形でしか教義を広められないため、自ずとその人個人の生立ちや人生観によって大きく左右されるからです。 まあそれでも、仏教には "不殺生" という考え方があり。これは「人は誰でも知らぬ間に殺生を犯しているものであるから、人生において自らの意志で殊更に殺生を行うべきでは無い」という戒めです。つまり紫の袈裟を着た阿闍梨とて、道を歩けばアリを踏み潰して殺しているかもしれぬし、寝ている間に蚊に刺されれば無意識に手の平で叩き潰しているかもしれぬので、人は誰しも生きている限りそういった無意識の殺生からは逃れられないので、故に意識がある間くらいは意識して無益な殺生を避ける様に心掛けましょうという教えです。 この不殺生の考えを発展させて行くと、自ずと中絶行為も殺生に当たると考えるのは自明なので。国全体が熱心な仏教徒で占められており、国教自体の仏教に制定されているタイでは、中絶行為は仏法に反する行為であり犯罪であると法律でも制定されています。一応、犯罪被害者や母体に生命の危険がある場合などのやむを得ない事情がある場合は、妊娠12週目までなら医者によってのみ合法とされています。同じく仏教国のカンボジアでも同じ様な法律になっていますが、同国では中絶は違法行為とされて来た期間がかなり長かったため、2023年の現在でも特に田舎の方では中絶を違法だと勘違いした女性が、正規の医療機関では無く闇医者などに大金を渡して非合法に中絶を行い、その結果出血多量などで死亡してしまう悲劇が後を絶ちません。 自分は仏教徒ですが浄土真宗なので、前述のタイやカンボジアの上座部仏教(小乗仏教)とは異なり、より世俗的にアレンジされた大乗仏教です。その死生観や中絶に関する態度もかなり緩いというか、まあ割と許容派といった感じでしょうか。ただしこの辺の考え方は前述の通り、それぞれのお寺の住職によって微妙に解釈が異なりますので、同じ浄土真宗でも考え方が違う可能性は大いにあります。一応、浄土真宗では、胎児はまだ人として完全にこの世に生を受けてはいない中途半端な存在だと考えており、故に昔は流産などした場合にも戒名は授けずに無名のままで単なる水子として供養していました。 この話だけ聞くと非人情でヒドイと思うかもしれませんが…実はコレにはカラクリ?があって、仏教では人は皆誰しもが輪廻転生を繰り返して生まれ変わると考えており、現在の人生は次の人生への生まれ変わりのための修業の場と考えます。そして仏式の葬儀で故人に戒名を授けるのは、この「現世でどれくらい修行を果たしたか」を表す称号みたいなモノであり、この称号を持ってあの世へ行く事によって来世の生まれ変わり先が決まると考えています(実際には全く違うんですが、話を単純にするため敢えてこういう例えにしています)。 で、生まれて来る前に亡くなってしまった赤ん坊は、この "修行" を果たす前に何もせずに死んでしまった事になるため、例えるなら「選手登録だけして試合に出場する前に棄権してしまい公式記録無し!」みたいな状態であると言えます。すると現世での修行の成果で来世での生まれ変わりを期待する宗教観の仏教としては、公式記録無しで水子の霊を冥界へ送り出す事の方が随分と酷い仕打ちではないと考える訳です。ですので現世に生まれて来る前に亡くなってしまった赤ん坊に対しては、敢えて戒名を付けずにただの水子霊として葬儀を行う事によって、あの世で魂の判定をしてくれる仏様に「この子は不幸にもスタートラインにすら立てなかった水子ですので、その辺の事情を考慮して速やかに再出発出来る様に、宜しくお取り計らいください」と伝えて送り出す作法になったのです。 …とまあ、国それぞれ、人それぞれに色んな考え方や違いがあります。今の所、どれが正解という事では無いかと思いますので。質問者も自分なりの考えをまとめるための参考の一助にでもして貰えれば幸いです。
ファイナルファンタジー的な考え方をすればあると思います。 すべての生命は地球から生まれてきます。そして地球へ戻って行きます。 地球が生きていると考えたら、地球に魂があるのかもしれません。そこから全生命体のみならず、岩や石などの鉱物にいたるまですべてが生きていると考えればすべてに魂はあると思います。 単細胞生物だって生きているわけですから、単細胞生物にも魂があると考えれば精子にも魂はあると思います。 すべては地球のエネルギーです。
- samkim1
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ない