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どちらが

車を運転中に赤信号で車を止め、ふと外に目をやるとファミリーレストランで楽しくおしゃべりしながら食事をしている人々が目に入る その時に孤独を感じる 一方で、スッタニパータには、犀の角のようにただ独り歩め。と書いてある まことにどちらが恵まれているのか ご意見有りましたらお聞かせください

みんなの回答

回答No.11

検索で「無の悟り」という聞きなれない単語を入力すると私の独壇場なんだよ。 これもその中からだ。 ーーーーーーーーーーーー 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。

noname#257017
質問者

お礼

>誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 まさにそれかもしれないです

回答No.10

例えば、この机の引き出しから持ち出したテキストなども、「ごちゃごちゃ言うのは、多くを語りながらも、何も話していないのと同じだ」という説明だよ。 ーーーーーーーーーーーー 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語 り継ぐ側の古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻に関するシャカの言質が必要だった。 そこで創作を交えて伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の伝承である。

noname#257017
質問者

お礼

見識、ありがとうございます

回答No.9

過去にどんな論説をして、この暇人のたまり場で好評だったのか論説は忘れたけれども、、、 「自らの信仰の大道を歩め」と激励したら好評だった。 何かというと、他人がごちゃごちゃ言うことに惑わされないで、ひたむきに自分自身の内心からこみ上げる信仰心に忠実でありたまえ、。 とでもいうようなことを言った覚えがある。 あなたがファミレスで感じたのは「寂しさ」だろう。 いやさあ、重要なことを他人に隠して、ごちゃごちゃ言われるのが自分でも迷惑なように、他人にもごちゃごちゃ言わないで、そのうえで世間と付き合うのはいいんでないかい?

noname#257017
質問者

お礼

程よい距離感で、ということでしょうか

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20342)
回答No.8

聞くほうにまわるというのは悪くないです。聞き役という立場は歓迎されます。 いつも聞き役になっていると あちらからいろいろと聞いてくるようになります。

noname#257017
質問者

お礼

ありがとうございます しかし最近あらためて想うのは、どんなに言葉を交わしても、人間というのは真に分かりあえないのではないか?ということなんです

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20342)
回答No.7

自宅と会社の間を通勤するだけの生活をしていると 非常に狭い中で暮らしているわけですから その中で出会いがなければ外に求めるしかないでしょう。 ネットでも 同好の士が集まるサイトなどもあります。 ジモティーというサイトは不用品のやりとりだけでなく 同好会メバー募集という項目もあります。リアルで出会うことができるのです。 いわゆる出会い系サイトとはちがうものです。 ジモティーは地元をもじった言葉で そのとおり地元で会合を開いたりするところです。

noname#257017
質問者

お礼

自分は人と会うと(特に複数人ですと)聞く方に回ってばかりです。 人が3人以上集まった場で喋るのが苦手です。 ありがとうございました

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.6

Ano.4の者です。誤植したので、訂正させて下さい。(最近、誤植や「抜け」も多くてorz) >むやみに「他者」と認めないこと →「むやみに、他者と較べないこと」 以上です。 早速のお礼、ありがとうございます。

noname#257017
質問者

お礼

例えば洞窟に1人で住んで(自分とは何か?という)自我に目覚めるでしょうか? 自分に気づくには他者の存在が必要な気もしています。 なにか思うところ有りましたらお聞かせください。

回答No.5

a) 孤独は、神々との交流とも言える。 それができる人は、人間関係を超えるものを、神々から得る。 従って、孤独は人間関係に勝るとも言える。

noname#257017
質問者

お礼

孤独の時ほど思い巡らすことが多いような気がしますね ありがとうございました

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.4

Nietzscheisdead様、こんにちは。 小生は、学校などで、偏差値などや通知表、背の高さ、脚の長さ、顔のヨシアシ、といったことで、割と厳しめに?「評価」されてきたこともあり、「評価」については、「絶対評価」にしても「相対評価」にしても、むやみに「他者」と認めないことがオススメなのではないかと考え、「過去の本人とだけ、比較する」ということを、思い付きました。 宜しければ、過去スレをご覧ください。小生も、ご質問の時点では考えがアヤフヤだったことが判り、ちょっと恥ずかしいですが。 (所謂)「絶対評価」 https://okwave.jp/qa/q10120606.html

noname#257017
質問者

お礼

大変参考になりました

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20342)
回答No.3

頭のいい人ほど孤独を好む傾向にあるようです。

noname#257017
質問者

お礼

朋友が欲しいと想うときがありますが、成人後のリアル社会で意気投合した人はいないです。

  • agehage
  • ベストアンサー率22% (2753/12076)
回答No.2

孤独ではないならこんな相談もお友達とできるのです 楽しく食事をできるほうが幸せかと思います

noname#257017
質問者

お礼

確かに込み入った人生相談を出来る人はなかなかいないですね。

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