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熊野古道と供養の気持ち
先週、熊野古道を旅してきました。 地蔵や社がたくさんある道でした。 ある民宿のご主人から旅で死んだ人の供養を込めて合掌して欲しいと言われました。 神社では願い事しか手を合わせたことがないので、よくわからないまま「自然と人の神様、安らかにお眠りください。」って感じで手を合わせたのですが、そんな感じで良いでしょうか。 熊野信仰がわかるかた教えてください。
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日本人にとっての「神」とは「先祖」といっても過言ではないでしょう。「熊野」に限らず日本では「山」や海の彼方にある「島」は、祖霊の集う「他界」と考えられてきました。 「本宮」は山中他界、「那智」や「新宮」は海上他界の信仰を基盤とした、本来は別々の信仰でしたが、修験道の影響を受け「熊野三所権現」というひとつの霊場へと拡大したものと考えられます。 また「本宮」の熊野権現は阿弥陀如来、「新宮」の速玉権現は薬師如来、「那智」の那智権現は千手観音と同体と考えられました。古来の海上他界信仰のある那智では、観音の浄土(補陀落世界)が海の彼方にあるとの信仰の影響も受け、死者を鎮魂する霊場でもありました。 また本宮は阿弥陀の極楽浄土とされ念仏系の修行者(いわゆる法然・親鸞の専修念仏とは別系統の、密教系・修験系・法華<天台>系の念仏行者)が集い、特に「時宗(じしゅう)」の一遍上人が熊野権現より“「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」に「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配ればよい”との託宣を受けたことに由来し、 (http://www.mikumano.net/setsuwa/ippen.html) 時宗(または時衆)系の聖(ひじり)が熊野信仰を広めました。古来の山中他界と念仏信仰が融合した山でもあるのです。 説教節のひとつ「小栗判官」は「よみがえり」の物語ですが、このように「死者の世界」に入ることは即ち「死」を意味し、そこで修行をして今までの罪を滅ぼし、再び「生」の世界に戻る、これを「擬死再生」といいますが、日本人が山(富士・高野・大峯・彦山等)や島(四国遍路・宮島・竹生島等)に入るのもそこからです。熊野の道は海上他界に基づく「海の道」と、山中他界に基づく「山の道」によって構成されています(このような道を「辺路<へじ>」といい、熊野以外にも四国が有名です。「遍路<へんろ>」の語源もこの辺路からきています)。このように熊野古道に祀られる「王子」と呼ばれる祠は、海や山の彼方にある他界を拝む場所でもありました。熊野の道は単なる街道ではなく「死者の道」であり、再び生き返る「生の道」でもあります。 このように熊野の信仰は民俗信仰を基盤に神道・仏教(密教、法華、念仏等)、修験などが重層的なって築かれています。
お礼
ありがとうございました。 墓参りが先祖供養なら、神社参拝は民族祖先の供養のようなものなのですね。 森林浴と露天風呂と開運の感覚で意味もわからず楽しんでいました。 さすがに小判地蔵やおぎん地蔵にきたときは、このあたりで人が死んだと思うと怖かったです。 その人たちの供養をふくめて神社参拝しましたが、また歩くときは祖先供養を念頭にいれて歩きたいです。