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日本書紀に載っている関東の神社

うろ覚えなんですが、日本書紀に関東に現在でもある神社(神宮?)があったと思うのですが、ご存知でしたら教えてください。また、当時は関東は辺境エリアだったと思うのですが、そのような地域にも関わらず中央の歴史書に名前まで載っているというのは、余程の勢力があったんでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.4

https://www.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/yukaritimap/ 日本書紀ではないですが、古事記に所縁がある神社の情報などがここにありますから参考になると思います。 ただ、古代史を理解するのに日本書紀に頼るのはもう30年くらい前までのことで、現在はそのやり方は流行らなくなっていますね。 もしプーチン大統領がロシア史を編纂したら、ウクライナに関する記述はかなり恣意的なものになるじゃないですか。正史というのはそういうものです。 古代史の大和政権の分布については、前方後円墳とその出土品に基づくのが一番理にかなっていると思います。前方後円墳が大和政権の権威を象徴するものであることは明らかですからね。 ちなみに現在発見されている中で最北の前方後円墳が岩手県奥州市にある角塚古墳ですから、大和政権の権威を受け入れて古墳が作れるくらいに力がある権力者が岩手県にもいたということになりますね。 また関東ではなんといってもさきたま古墳群から出土した「稲荷山古墳出土鉄剣」です。 これが出土したことにより、埼玉にワカタケル大王の親衛隊を勤めたことを誇らしく思う権力者が存在したことが証明されました。この鉄剣が作られたのが辛亥七(471)年とあり、ワカタケル大王は雄略天皇のことだといわれています。ちなみに日本書紀が成立したのが養老四(720)年です。 この鉄剣が出土したことにより、逆に雄略天皇が実在したことの証拠となりました。雄略天皇は現在その実在がほぼ確実視されている最古の天皇(大王)になります。 つまり歴史証拠的にほぼ証明ができる最古の天皇(大和政権)のレベルでその支配権が関東に及んでいた(関東全部ではなかったにせよ)ことは確実であったといえると思います。 畿内から関東に至る最古の街道は東山道です。中山道といったほうが分かりやすいですね。岐阜県から諏訪市に行って、そこから軽井沢を経て碓氷峠を越えて群馬に下り、そのまま宇都宮のほうに行って東北に向かいます。 関東へは高崎あたりから南下する後の鎌倉街道がメインルートだったと思います。当時はまだ関東平野の多くは湿地帯(霞ヶ浦は印旛沼も含めた大きな汽水湖でした)だったので鎌倉街道ルートじゃないと陸ではなかったのです。 諏訪湖(諏訪神社)一帯は大和政権とは明らかに違う系統の神様の地域なのですが、東山道沿いは大和政権の支配(影響)下であったと思われます。特に群馬県一帯は朝鮮半島から渡ってきた騎馬系の人々だったと思われる(古代の群馬県では馬の育成が盛んだった)ので、彼らは大和政権と所縁が深かったと考えるのが自然です(群馬県も前方後円墳が多く存在します)。 古代は長野県に入ると信濃川沿いに北陸に出て、そこから日本海沿いに畿内と接点を持っていた可能性もありますね。 これは私の個人的な推測ですが、古代大和政権というのは、我々が思うような大王を頂点とした「帝国」ではなくて、ゆるやかな連合政権だったのではないかなという気がします。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど、なるほど。大変、勉強になりました。また、ずいぶん、北の方まで及んでいたんですね。岩手県奥州市にある角塚古墳には、ぜひ、訪ねてみたいと思います。現在のロシアが食糧の補給に困っているように、当時も食糧や武器などをどうやって運んだり補給したりしながら東征したんでしょうね。全て徒歩ですからね…それと、埼玉古墳群は行きましたが、あの稲荷山の鉄剣ですが、見ましたね(^_^)。当時は、中央から見れば辺境の地にある埼玉に、この鉄剣の文字を理解して打てるだけのインテリが居たんだな、くらいしか思わなかったですが、そのような背景があったんですね。いやはや、奥が深い情報をありがとうございました。勉強になりました。

その他の回答 (3)

  • pri_tama
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回答No.3

 ヤマトタケルの命の東征の物語も、日本書紀に載っていますので現在の茨城、栃木、千葉も出てきます。  関連を主張している神社だと以下の様な物が有ります。   吾妻社(神奈川県)   走水神社(神奈川県)   国府神社(千葉県)   足柄神社(神奈川県)   古峯神社(栃木県)  あと、伊佐須美神社(福島県)は東征した四道将軍の大毘古命・建沼河別命がこの地で邂逅(東海と北陸を進軍)した時に創建されたとされ、日本書紀に登場する地では一番北でないかと思います。

tahhzan
質問者

お礼

伊佐須美神社の名前は知らなかったですね。そうなんですか。それなら、一度は行ってみたいですね。貴重な情報、ありがとうございました。

回答No.2

鹿島神宮でしょう。 一説によると、ヤマトが東への勢力を広げる中で鹿島神宮は開拓の最前線で拠点とされていたようです。

tahhzan
質問者

お礼

ああ、なるほど。鹿島神宮ですか…それなら、日本書紀で見たような記憶がありますね。今でも名前が通っていますが、2000年近く前に中央まで鳴り響いていたのは、凄い事だと正直思いますね。ありがとうございました。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.1

>日本書紀に関東に現在でもある神社(神宮?)があったと思うのです 氷川神社かも? >当時は関東は辺境エリアだったと思うのです これは、天皇家を基本と考えるからです。 大和朝廷が誕生した頃「東に大国あり。打ち取れ」との神託があった! この大国は「日高見国」という国で、発掘調査の結果「金製の王冠・指輪・首飾りなど多数出土」しましたよ。 時代も、大和朝廷よりも古い可能性もあります。 大和地方を基準とするから、関東は辺鄙な地域になるのです。 反対に、関東から見れば大和は辺境にありますよ。^^; >余程の勢力があったんでしょうか? 余程の勢力が、あったのでしようね。 明治から昭和の時代は、天皇に関する調査は不自由でした。 が、平成頃から「天皇に関係が及ぶ研究も、自由に行える時代」がきました。 出雲の国譲り=アマテラス一族によるオオクニヌシ国の侵略。 ※アマテラスは天上界。スサノウは地上界を治めろ!との約束を一方的に破棄したのはアマテラス一族。 今では、当時の大和地方と同じかそれ以上の文化を持った国が存在している事も歴史学者の間では常識です。^^;

tahhzan
質問者

お礼

氷川神社ですかね…この名前を見た記憶は無いですね…その他の情報ともどもありがとうございました。

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