実は諱の「義高」は「吾妻鏡」のみの表記で、吾妻鏡成立以前に書かれた「平家物語」では「義重」「義隆」「義守」「義基」など同一人物なのに複数名前が出てきます(版にもよるそうですが)。
後の時代にまとめられた「尊卑分脈」では「義基」とされております。
また、「玉葉」など当時の貴族の日記や資料には無いそうなので、「静御前」と同じく、頼朝の残忍さを演出するために創作された人物の可能性があります。
吾妻鏡は鎌倉創立期からかなり経ってから作られたので、結構北条ヨイショに話を作っている部分があります。
1.不明です。
「清水」と言えば現在の静岡市清水区を連想しますが、義仲のお膝元にも清水が湧く場所がいくつかあったそうなので、複数候補地があるものの、文献が全く無いので不明です。
2.頼朝の妻・政子が逃亡の手配をしたとされています。
討たれた入間は逃亡先へ向かう途中の場所なので、義賢・義仲には関係無いかと。
3.先に述べた通り、「平家物語」以前には出てこないようです。
義経が京へ赴くのは義仲の牽制だけではなく、頼朝の長女大姫を嫁がせる(入内)交渉のためと読んだことがあるので、(義高存命中なのに?その頃から離縁を考えていた?)とデマと思ったのですが、義高死後の8月に大姫を摂政・近衛基通に嫁がせるという後白河院側からの意向があったと当時の貴族の日記玉葉にありましたので、幼いからとはいえ、寡婦(未亡人)を嫁に欲しがったり、後鳥羽天皇に入内させようとはちょっと…と思いましたので、もしかしたら、義高は架空の人物かと、想像しました。