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木曾義高について

木曽義高について下記事項について教えてください。 1.別名清水冠者と称されるのは どういういわれからですか  2.鎌倉から逃亡する先の入間は、その時点でも祖父義賢や父義仲との関係があったのでしょうか? 3.吾妻鑑の他に、同時代の記録として木曽義高に関する文書にどんなもものがありますか?

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  • D-Gabacho
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回答No.1

1. 出身地の地名が清水というところだからだと思われます。それがどこなのかは不明で、古代東山道の宿駅のひとつとして名が残る小諸市の「清水」、数多くの義仲関係史跡がある上田市の「正海清水」など諸説あります。 2. 入間が義仲と関係あったのではなく、鎌倉から信濃をめざす途上に入間があり、そこで討たれたということだと思います。入間の旧鎌倉道には信濃街道とか信濃坂と呼ばれるところがあるそうです。 http://tamamichi.life.coocan.jp/iruma/iruma.htm 3. 義仲の嫡子義高が11歳で鎌倉に人質として差し出された経緯に関しては、吾妻鏡に寿永二年の記事が欠落しており、主に『平家物語』に拠っています。

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回答No.2

実は諱の「義高」は「吾妻鏡」のみの表記で、吾妻鏡成立以前に書かれた「平家物語」では「義重」「義隆」「義守」「義基」など同一人物なのに複数名前が出てきます(版にもよるそうですが)。 後の時代にまとめられた「尊卑分脈」では「義基」とされております。 また、「玉葉」など当時の貴族の日記や資料には無いそうなので、「静御前」と同じく、頼朝の残忍さを演出するために創作された人物の可能性があります。 吾妻鏡は鎌倉創立期からかなり経ってから作られたので、結構北条ヨイショに話を作っている部分があります。 1.不明です。 「清水」と言えば現在の静岡市清水区を連想しますが、義仲のお膝元にも清水が湧く場所がいくつかあったそうなので、複数候補地があるものの、文献が全く無いので不明です。 2.頼朝の妻・政子が逃亡の手配をしたとされています。 討たれた入間は逃亡先へ向かう途中の場所なので、義賢・義仲には関係無いかと。 3.先に述べた通り、「平家物語」以前には出てこないようです。 義経が京へ赴くのは義仲の牽制だけではなく、頼朝の長女大姫を嫁がせる(入内)交渉のためと読んだことがあるので、(義高存命中なのに?その頃から離縁を考えていた?)とデマと思ったのですが、義高死後の8月に大姫を摂政・近衛基通に嫁がせるという後白河院側からの意向があったと当時の貴族の日記玉葉にありましたので、幼いからとはいえ、寡婦(未亡人)を嫁に欲しがったり、後鳥羽天皇に入内させようとはちょっと…と思いましたので、もしかしたら、義高は架空の人物かと、想像しました。

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