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プラハの春について
1993年、チェコスロバキア社会主義共和国がチェコとスロバキアに分離されました。 (1) 1968年 プラハの春 (2) 1989年 ビロード革命 (1)(2)の関係がよくわかりません。どちらも民主化の運動ではないでしょうか? (1)で失敗、(2)で民主化成功ということなのでしょうか 御教授下さいますよう、御願い申し上げます。
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公式的にはプラハの春で介入してきたのはワルシャワ条約機構軍ですが、実際のところはほとんどソ連軍です。他の国は「親分に付き合わされた」というようなものです。 ソ連が最も恐れたのは、チェコスロバキアの民主化運動が東欧諸国全体に及ぶことでした。そうなるとソ連にとって大変な脅威です。だから芽は早いうちに摘まないといけなかったのです。 更にいうと、プラハの春を弾圧することによって東欧諸国にニラミをきかせ、民主化運動が波及しないようにしたのです。当時のソ連には、それができる実力があったということですね。 ビロード革命が成功したのは、その直前にあの「ベルリンの壁崩壊」があったからです。もうソ連に東欧諸国を締め付ける力は失われていましたし、それによってベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国も次々と民主化革命が起きましたね。 プラハの春のときにソ連軍の侵攻を非難したルーマニアのチャウシェスクが、ビロード革命の後に起きたルーマニア革命で殺されたのは非常に皮肉的ですね。
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- g27anato
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(1)で始まり、 (2)で成功、 1993年で終了…かな。
お礼
御回答ありがとうございます。
- oska2
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>どちらも民主化の運動ではないでしょうか? その通りですね。 当時のチェコスロバキヤは、経済低迷で国民の不満が爆発していたのです。 そこで、チェコスロバキア共産党は「改革派を書記長(トップ)にすえ、民主化を目指す」のです。 言論・報道の自由などを認めたのです。 チェコスロバキア共産党としては「民主的な社会主義国家建設」を進めたのです。 そこで、国民も「西欧ファッションを身に着け、自由を謳歌」したのです。 この状態を、「プラハの春」と呼びます。 ※マルクスが唱えた「本当の共産国家樹立」を目指したのですね。 が、「何てこったい!」と激怒したのが旧ソビエト社会主義共和国の書記長ブレジネス。 ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア連合軍が、武力侵攻。 チェコスロバキア共産党幹部を逮捕・処刑。国民を、弾圧・処刑しました。 ※中国の天安門事件と同様。 ※中国の正しい歴史では、天安門事件は存在しません。^^; そして、プラハの春は失敗。 ところが、1989年のビロード革命は成功します。 既に、ソ連だけでなく東ドイツでも民主化の嵐が吹き荒れていました。 それぞれの国々が、他国に干渉する余裕はなかったのですね。 先に書いた通り、チェコスロバキア共産党は「民主化に寛容」でした。 ※大相撲優勝力士への表彰も、チェコスロバキア国賞が存在しました。 国民の自発的なゼネストで、経済は崩壊。同時に、共産党支配も終わります。 まぁ、たった一人の労働者が行った「スト」が全国に広まったのです。 じゃ、何が違うのか? プラハの春は、上からの改革。ビロード革命は、下からの改革です。 余談ですが・・・。 明治維新は、上からの改革。大正デモクラシーは、下からの改革です。^^;
お礼
丁寧な御回答ありがとうございます。大変勉強になりました。
補足
早速の御回答ありがとうございます。 ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア連合軍が、武力侵攻。→ワルシャワ条約機構による軍事侵攻のことでしょうか、そうであれば一つ疑問があります。チェコスロバキア社会主義共和国はワルシャワ条約機構の加盟国(一員)なのに、何故侵攻されたのでしょうか?ワルシャワ条約機構は集団的自衛権を行使して加盟国を守る組織ではないのでしょうか、御教授下さいますよう、御願い申し上げます。
お礼
丁寧な御回答ありがとうございます。大変勉強になりました。