- 締切済み
自己中日本人が増えた要因
人の迷惑なんて微塵も考えない人が最近多すぎませんかね? 歩きスマホもこれだけ止めろ止めろと言われてもする人は後を絶たないし、 仕事しててもお客様からのクレームも自己中丸出しで、今後の改善点にもならないような案件ばっかりだし。 自宅マンションもゴミ出しルールを守らない人、駐輪場に自転車を止めない人、後を絶たない迷惑駐車…。 少し冷静になって考えれば邪魔・迷惑とわかるような事でも、それを堂々とやってしまう自己中さ。 注意されて素直に引き下がるならまだしも、自分が悪いのに逆ギレしてくる人まで多数現れる始末。 こんなに自己中日本人が増えたのはなぜなのでしょうか。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
みんなの回答
- suzukikun512
- ベストアンサー率0% (0/0)
まずは、増えたといっているデータ見せてください。
- happyhappyjjjj
- ベストアンサー率15% (62/395)
昔もいましたけどね。 みんな世知辛くなってきたんでしょう。 少しくらいいいかー、という程度の人もいれば、悪質なケースもあります。 そんな他人のことを気にするなんてやめましょう。貴方がイラつくだけですよ。 知り合いのおじさんで、歩きスマホをしている女性にわざとぶつかり、落として液晶割ってやったぜ~、なんて世直し自慢してる人がいますが、やった方も、やられた方も、そのうち痛い目に合えばやめるでしょう。自分事として経験しないと変われないものです。 貴方は自己中な行動に対して文句があるようですが、私は身だしなみや匂いが不快な方、耳垢やフケを撒き散らしながら平気で外に出歩く人に殺意を覚えます。その人たちからすると他人に迷惑をかけていない、ということかもしれませんが、私は本当に気持ち悪い。 周りを気にかけても仕方ありません。貴方が目を瞑るしかありませんよ。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
「他人がどう思うかよりも、自分がどうか考えて生きましょう」とか、「自分を大切に」とか教えた「ゆとり教育」の成果だと思っています。 「大切なのは、自分にとってどうなのか、であって、他人がどう思うかではないのだ」と教えられたら、自分がスマホを見ながら運転したいのだから、他人がどう思うかは関係ナイことになります。「勝手になんでも言っとけ、俺には関係ナイ」という話になります。 社会の風潮がそうなれば、それに影響されて、これまで他人の目を気にして我慢してきた老人の行動も怪しくなります。 例えば「三度目の正直(成功)」を教えたら「二度あること(失敗)は三度ある」という言葉も教えないと、三度やれば成功するんだと思い込む。 他人がどう思うかはどうでもいいと教えたら、他人のことを考えることも教えないとろくな人間に育たない。 ろくに対策も考えもせず、現場任せの「ゆとり教育」を強制した文部科学省お役人様の「大功績」が「自己中の大増殖」だったと言うべきです。
- dragon-man
- ベストアンサー率19% (2711/13692)
人権と権利ばっかりで、義務を書かない日本国憲法。誰だって自己中心になる。
- alterd
- ベストアンサー率23% (137/595)
バブル崩壊後、年功序列と終身雇用も崩壊して 非正規雇用が4割に達し負け組が増えた今、「モラルなんか知ったことか」という人が増えたのでは。 「衣食足りて礼節を知る」のパターンでしょうね。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
昔は横断歩道の前で立っていても、停まってくれるクルマなんてほとんどありませんでした。無理に渡ろうとしようものなら罵声を浴びせられることなど日常茶飯事で、実際交通事故も今よりはるかに多かったです。飲み屋に車を運転して行く人なんてごく普通で要するに今ほど厳しく取り締まられることは無かったのです。悲惨な事故が相次いで厳罰化されたのはごく最近になってからです。
僕には難しいご質問なんですけど 一人でも足りる社会になったから とか、思いました。 結婚してなくても、さみしさ感じないし 人から あの人独身だ なんて馬鹿にされることもない。 ゲームもネットでつながるから 実際の友達いなくても、足りる。 むしろ 面倒な人間関係しなくても、ブロックで足りるから 都合いい。 人権 とか 個人情報保護 など 個人を大切にしてくれる社会になった。 なにか、そのようなことが関係してる と、思いました。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1498/3648)
「自己中」が増えたかどうかはわかりませんが、世の中の変化で「迷惑」や「危険」と考えることがらが変わってきているとは感じます。例えば昔は小学校に薪を背負って歩きながら書物を読んでいる二宮金次郎の銅像がありました。寸暇を惜しんで勉学に励む勤勉さや向学心の象徴の意味があったのでしょう。回答者が小学生のころ(昭和30年代)には交通量も少なく、学校の図書館から借りだした本を読みながら下校したこともありました。 しかし現在はそのような「歩きながら読書」の銅像はほとんど姿を消し、「薪を置いて読書」の銅像として何とか復活しています。もちろんこれは「歩きながら読書するのは人や車にぶつかる危険性がある」からで、「歩きスマホ」の危険性と同じです。昔は勤勉さや向学心のシンボルとして銅像にまでなった行為が、現在では「危険さ」や「はた迷惑」の象徴のようになってしまっているのです。それだけ世の中が変わったことは認めざるを得ません。 また逆に、昔は「迷惑」「自己中」と思われていたことが、現在は「当然」と思われていることもあります。例えば職場の禁煙などもその一つで、回答者が社会人になった当時(昭和50年代前半)は、多くの事務職場ではタバコは自由に吸えただけでなく、喫煙は当然の権利だと思われていて、禁煙を求める側が「迷惑」「自己中」とされていたのです。もちろん今では「職場で自由に喫煙させろ」と主張すれば「自己中」と言われてしまうでしょう。これも世の中の変化です。 もちろん、自転車の放置や信号無視など「昔も今も迷惑なこと」も存在します。 たださまざまな対策が功を奏して駅前の放置自転車の台数などは減少していますので、「自己中日本人」が増えたかどうか一概には言えないと思います。
- NOMED
- ベストアンサー率30% (522/1725)
原因というか・・考えられるのは想像力の欠如です 書かれているように「少し冷静になって考えれば」という想像力を働かせなくなっています その想像力とは「自分がされたら」とか「自分の立場だったら」というモノです これの言い方を変えると、同調力になります 人の立場に同調して、自分だったらと想像するのですが、その想像する材料として圧倒的に足りないのは経験です 人は他人に同調するときに、自分の経験則を働かせますが、経験がなければ無理といえます 感覚や感情の経験も足りていませんから、自分に置き換えての想像・発想ができないのです ・・・ではなぜ増えたのか?ですが、簡単で、注意されずに育ったからです また、誰かが歩きスマホをしている姿を見た人も、それを見て不快に思っているだけで、その場で注意する人も皆無です 教育現場では随分前から、教師が体罰を禁止されてから、モンスターペアレントも相まって、子どもに本気で注意できない時代です また、バカには関わりたくないという風潮もありますから、わざわざ他人様をその場で注意する人もいません おそらく質問者様もそうでしょう 近所のカミナリオヤジやネチネチババァも死に、もしもいたら、逆通報されるでしょうね・・・
これでも世界的に見れば、日本人は周りに気を使い過ぎる国民です。
- 1
- 2
お礼
1週間働いただけでも十分実感するレベルですがねw あっ、家から出ず他人との交流もないクソニートにはデータで出さなきゃわかんないかww でも、私はそんな正確性のあるデータは持ってないのwごめんねーww