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男は短髪って風潮はいつできた?
女は髪が長くて、男は短髪って風潮はいつできたんですか? 昔は男もちょんまげほどいたら髪長かったですよね
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>男は短髪 歴史的には古代ローマ帝国時代にまで逆上り、その由来は「兵士として模範的な髪型」です。しかしながら兵士以外の場合は逆にみっともない髪型であると考えるのが普通で、当時の富裕層は男女共に肩まで届く長髪ロン毛が自らの財力と権力を示す立派な髪型という認識でした。ただしそれでもヒゲは生やさないのが古代ローマ人の習慣で、髭面や短髪の男性は当時の常識では「野蛮人の異民族、罪人、奴隷」という認識でした(この奴隷階級の髪型やヒゲに関しては時代や地域によって様々に変化します)。 これが時代を経るに連れて軍人出身のローマ皇帝が度々現れる様になり、この影響で短髪の男性が社会的にもセレブとして認知される様になり、軍人以外でも短髪にする習慣が広まっていきました。しかしこれも現代人がやる様な「刈り上げ」はせず、いわゆるパンチパーマが当時の最先端のオサレ男子の髪型でした(美術室に飾ってある石膏像みたいなヘアースタイルです)。当時の哲学者や詩人が残した書簡や手記に「最近は男が皆パンチパーマで嘆かわしい」みたいな事が記されています。 - 参考画像 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Caracalla_Naples1.jpg こんな感じで西欧社会では「軍人は短髪、それ以外は長髪」というのが社会常識となり、ローマ帝国が無くなった後もずっとこの風俗は受け継がれて行くのですが…やがて近代社会の萌芽である市民革命の時代へと突入するとまた大きく変化する事となります。発端となったのは17世紀の清教徒革命で、彼らは当時の支配階級に対抗する姿勢を表すため「長ズボンと短髪」をトレードマークとしました。 当時の中世西欧社会での支配階級では男女共に「長髪のかつら」を被る習慣があり、また男性の服装も半ズボンが正装でした。コレに対して主に農民であった庶民階級は農作業などの重労働に一日中費やすため、作業服としての長ズボンと無造作に断ち切った髪型が特徴でした。この様子を言い表して「サン.キュロット(キュロット=半ズボンを履かない人)」と言う言葉も生まれました。 こうした市民革命の流れは最終的に18世紀末(1799年)のフランス革命まで続き、近現代時代の幕開けと共に政治の担い手たる市民そして国民という概念が生まれる中で「模範的な市民の服装と髪型」として全欧州地域とその植民地(アメリカ等)にも広まって行き、その流れの中で「長髪の男は憎むべき肥え太った貴族のブタ」という考え方が浸透して行きました。 そうして市民革命の嵐が吹き荒れる時代の中で、辛うじて生き残った王侯貴族達は自分たちが決して市民の敵では無く良き理解者である事をアピールする必要があったので。今まで頭を全剃りしてお蝶夫人みたいなクルクルパーマのかつらを被っていたのを投げ捨てて、労働者風の短髪に口ひげを蓄えたスタイルに変えて生き残りを図りました。特にフランス革命は後に "恐怖政治" と揶揄されるくらいの恐ろしい密告監視社会だったので、貴族たちも一挙手一投足に細心の注意を払い「反革命罪」に問われてギロチン断頭台で処刑されない様にしたのです。 やがて18世紀に入り革命の嵐は一段落して再び王侯貴族らが力を取り戻して来ますが、この時代になるともう既にすっかり風俗が新しく上書きされた後なので、一部の懐古主義の人達を除けば長髪にする男性はほとんど居ませんでした。さらに時を同じくして産業革命が起き軍隊の様式も一変し、騎士達が長槍を携えて馬で戦場を駆け回る古式ゆかしい戦いから、国民皆兵の名の下に志願兵で構成された平民出身の兵士達が "国から支給された銃火器と軍服" を装備して戦う近代戦争の時代へと移り変わって行きました。 中世時代では戦争で使う武具類は、その使い手である騎士や武士が自分のお金で買うなりオーダーメイドして自己負担で用意するのが近代以前の戦争でした。それが市民革命以降、市民こそが国の担い手であり主権者であるという考え方が生まれ、それに呼応する形で「国民の義務=兵士として国のために戦う」という思想が生まれました(因みに「血税」という言葉は「血肉で支払う税金=徴兵制度」が本来の意味です)。当然ながら市民は貧乏ですので武具を自費購入して用意する事など出来ません。このため大量生産された小銃などを画一的に与えて兵士として訓練する必要がありました。 この時にほぼ現代と同じ様なヘルメットや軍服を装備するのに便利で、かつ大量生産された同じ規格の装備に人間の方を合わせる軍律が生まれ、再びローマ帝国時代以来の伝統である「男の髪型は短髪を良しとする」考え方が急速に西欧社会に広まって行きました。前述の様に主権者は市民自身であり、国民皆兵を義務とする考え方が生まれたため、例え軍隊へ入隊しなくとも義務を果たした証としての男性の短髪を好む社会風俗が出来上がっていったのです。 >日本男子の短髪 日本の場合はご存知の様に男女共に長髪を結い上げてまとめる「髷(まげ)スタイル」がずっと明治時代まで続いており、特段に「短髪は男らしさの象徴」みたいな考え方や風習は全くありませんでした。それが明治維新で一気に崩壊し万事は西欧風にするのが格好良くて先進国的なのだと全てを模倣する国策が明治政府によって強力に推し進められ、その結果が今だにアップデートされずに "日本の伝統(笑)" として残り続けているだけです。 日本で軍人たる武家が全剃りにしなかったのは、恐らくは最初期の飛鳥時代には既に日本に仏教が伝来しており、その僧侶の髪型(風習)としての全剃りが支配階級である貴族や武家の間に周知されていたため、それらと明確に一線を画すためでは無かろうかと思われます。仏教の影響を受けていない古代文明の多くが貴族男子、或いは軍人の髪型として全剃り(スキンヘッド)を取り入れていますので、その折衷案として頭頂部の真ん中だけを剃り上げて「月代(さかやき)」を作る日本風ちょん髷スタイルになったのだと思われます。 以上のような歴史的経緯から「男の短髪は古代から続く軍人の髪型が由来」が回答となります。
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- staratras
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明治に初めに流行した歌(都都逸)がヒントになりそうです。 半髪頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする。 総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。 散切頭をたたいてみれば、文明開化の音がする 半髪とは髷を結うため月代(さかやき)を剃った昔の髪型で、総髪は髷を切った長髪、散切りは西洋風の短髪のことです。 半髪頭は因循姑息の古臭い髪型、総髪頭はこれよりは進歩しているが王政復古の時代にとどまり、西洋風の短髪である散切り頭こそが文明開化の現代的ヘアスタイルだという意味です。 東京などの都市部では丁髷姿→髷を切った長髪→西洋風の短髪の順序で進歩していると考えられていたということになります。ただしこれは男の髪型に限り、女については明治5年に「女子断髪禁止令」が出されたことからもわかるように、短髪は良くないものとされていました。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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幕末より洋式軍が導入され、一部の男子は短髪にするようになりましたが、当時は「短髪」と言えば穢多非人の髪型で忌み嫌われており、一般はもちろん身分が高い人達にも浸透しませんでした。 が、欧米からは髷などの髪型は「豚のしっぽ」「頭にピストル乗せた野蛮な髪型」と馬鹿にされていたのでした。 街が西洋化しつつあり、欧米人が跋扈するようになったのに関わらず未だに欧米人から馬鹿にされるちょんまげを続けるのは良くないと感じた政府は明治4年に「散髪脱刀令」いわゆる「断髪令」を出します。 ですが、緩い法令であったためまだ浸透しなかったのですが、岩倉具視がシカゴで散髪して以降、公家などの身分が高い人達が続々と断髪。 ついに明治天皇も断髪し、それがきっかけで男性の短髪が一般的になっていきました。 よく間違えがちなのですが、 「ざんばら頭を叩いてみれば文明開化の音がする」 ではなくて 「散切り頭を──」 なんですよね。 ざんばらはちょんまげを解いただけ、散切りは西洋風に短くした頭髪のことです。
- Sakura2568
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散切頭(ザンギリあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする。 といわれているように 単発はそれ以前も無くはなかったでしょうし、聖職者は頭剃ってたりしてますので例はあったと思いますがみんなして短くしたのは文明開化の頃、 明治時代と思っていいのではないでしょうか。
- nagata2017
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軍隊と 徴兵制度が始まってから。 その前に 明治のちょんまげ廃止令があるけど 散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい、明治4年8月9日太政官第399) 翌年には「女子断髪禁止令」を出しています。
- tzd78886
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諸説あるようですが、徴兵制を実施されると、長期間洗髪できないことも多く、長髪では衛生面で問題があるので短髪が奨励されたと聞いたことがあります。