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躾と虐待の境界とは?
- 躾と虐待の境界について、生徒の問題行動や体罰について考える必要があります。
- 相撲部屋や職人の世界などでの威圧的な指導と、その順応や非道を嫌う風潮についても注目する必要があります。
- 躾においては根性を重視する傾向があるが、その順応ができない人間は根性がないと見られているという問題も存在します。
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No1の続き 成績の良い生徒は体罰を受けない。 という典型がNo1で書いた国会議員の例です。 このOkwaveに来ている人でも、分かるでしょうけど成績優秀な人物ほど 体罰、躾と称する暴力は受けません。 それは、頭が良ければ世の中が分かるし、道を外すことはしない。 というある意味、観念的な思考が教師側にあるからです。 しかし、成績優秀なら良い大学に行って官僚になるか、国会議員になるか それともなけりゃ大会社の社長になるか。 そして、不祥事は揉み消せば済む。 そういう人間にこそ躾は必要なのですが。 有名工科大学を出て、人殺しの兵器を作る会社の製作部門を担っている 人が名士として評価される。ことに何の疑問も持たないことに怒りさえ 覚えます。 あまり、兵器産業に入り込むとその内、原子爆弾を作りたい。とか水素爆弾 の構造を改良したいとか思うようになるのです。 それは、この世の崩壊を望むような屈折した思考からくるものなのでしょう。 てすから、成績優秀だから躾は要らないとは言い切れません。 また、暴力を肯定する者は幼少期から躾と称する暴力(体罰)を受けてきたから それが正しいと思ってしまっている。ところに難しさがあるのです。 教師は生徒に対して平等に扱っている。と言いながら、成績で体罰の有無を 判断しているから真面目な生徒であっても体罰を受けることになります。 自殺をする生徒の多くは真面目な生徒で、成績は中程度の子が多いのです。 ですから、以前は教師が文部省から戒告を受けることも無かったのです。 しかし、今の世論はそれを許しません。 目立たない生徒であっても人権はあります。
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躾とは、社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが、成長するにつれて家庭、学校、社会などの場における行動の仕方へと、しつけの内容が拡大していく。 しつけの目標は、社会生活の秩序を守り、みずから生活を向上させていくことのできる社会人に育て上げることである。 学校にも謹慎処分、退学処分の罰則はあります。 相撲部屋や職人の世界 ブラック企業と云われている処は「口よりも先に手が出る」、深川通り魔事件 これは殺人罪、傷害罪、暴行罪、パワハラ等の犯罪。これは物事を判断できる社会人が犯した罪で躾とは関係がない。
お礼
ご回答有難うございました。 》躾とは、社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが、成長するにつれて家庭、学校、社会などの場における行動の仕方へと、しつけの内容が拡大していく。 しつけの目標は、社会生活の秩序を守り、みずから生活を向上させていくことのできる社会人に育て上げることである。 学校にも謹慎処分、退学処分の罰則はあります。 これは云い得ていると思います、体罰だけでなくこの様な罰則も必要だと思います。 》相撲部屋や職人の世界 ブラック企業と云われている処は「口よりも先に手が出る」、深川通り魔事件 これは殺人罪、傷害罪、暴行罪、パワハラ等の犯罪。これは物事を判断できる社会人が犯した罪で躾とは関係がない。 やはり、いくら相手の為を思ってやっていると云っても 社会に受け入れられないと傷害罪に成ると思います。
- okvaio
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>躾と虐待の境界とは? 躾と虐待の境はありません。 なぜなら、躾の延長上に虐待は存在しません。 虐待と体罰でしたら類似するものがあるかもしれません。 「弁護士ドットコム」では、ある弁護士は、 ”児童虐待というのは、保護者がその監護する児童に対して、外相が生じる恐れのある暴行を加えること、わいせつ行為をすることなどで、児童虐待防止法2条に定義規定があり、その防止策がとられています。 体罰は、保護者や教師が、指導の一環として行うものですが、学校教育法11条で、教員が行うことは禁止されているものです。 ” 別の弁護士は、 ”児童虐待については、法律で定義規定があるわけですが、 体罰については、法律で定義規定があるわけではないので、その違いは、明確ではありません。ただ、体罰というのは、あくまでも教育・指導の一環として行われるものですので、単なる虐待とは、異なります。 ただ、体罰として違法とされるものの中には、児童虐待防止法にいう児童虐待と評価できるものも、あると思われます。 ” こちらも、境目が難しいですね。 躾とは、 「コトバンク」では、 ”社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。 基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校, 社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。” とあります。 躾を教え込むための手段として、体罰があると思います。 ここでは、境界は暴力をふるうか否かです。 更に、体罰が常態化すると、躾の意味もなく暴力をふるうのが虐待 だと思います。 ある意味、「いじめ」も関連しているように思えます。
お礼
ご回答有難うございました。 》虐待と体罰でしたら類似するものがあるかもしれません。 「弁護士ドットコム」では、ある弁護士は、 ”児童虐待というのは、保護者がその監護する児童に対して、外相が生じる恐れのある暴行を加えること、わいせつ行為をすることなどで、児童虐待防止法2条に定義規定があり、その防止策がとられています。 体罰は、保護者や教師が、指導の一環として行うものですが、学校教育法11条で、教員が行うことは禁止されているものです。 ” 別の弁護士は、 ”児童虐待については、法律で定義規定があるわけですが、 体罰については、法律で定義規定があるわけではないので、その違いは、明確ではありません。ただ、体罰というのは、あくまでも教育・指導の一環として行われるものですので、単なる虐待とは、異なります。 ただ、体罰として違法とされるものの中には、児童虐待防止法にいう児童虐待と評価できるものも、あると思われます。 ” こちらも、境目が難しいですね。 唯、育ち方受け取り方で変わってくると思います。 唯虐待を「躾 鍛えてやっている」と云う人も居りますので。 》躾とは、 「コトバンク」では、 ”社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。 基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校, 社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。” とあります。 躾を教え込むための手段として、体罰があると思います。 ここでは、境界は暴力をふるうか否かです。 そこで、相手の為を思う事が「口より先に手が出る」 運動部 相撲部屋 職人の世界などではこれが順送りされてきた歴史があった様です。 》更に、体罰が常態化すると、躾の意味もなく暴力をふるうのが虐待 だと思います。 ある意味、「いじめ」も関連しているように思えます。 云い得て居られます、唯これが日常で育つと次世代へと連鎖するのでしょう。
- marissa-r
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躾と虐待の境界は“叱る”が“怒る”になった瞬間。 主旨が異なりますから。 事件が発生すると、よく「親は躾だと言って…」と言いますが。 “叱る”と“怒る”明らかに言動が異なるので無関係な第三者でも分かります。
お礼
ご回答有難うございました。 》躾と虐待の境界は“叱る”が“怒る”になった瞬間。 主旨が異なりますから。 事件が発生すると、よく「親は躾だと言って…」と言いますが。 “叱る”と“怒る”明らかに言動が異なるので無関係な第三者でも分かります。 叱るは相手を思う事 怒るは個人的な感情で。 しかし、苛めや指導を超えた暴力まがいの事も 「相手を鍛えてやっている」という風に捉えているので 質が悪く成ると思います。「意味も無く挨拶代わりに殴る」事もそれが当たり前で育つと、相手に行使し、 「鍛えてやっているのに耐えれないのが悪い」と成り、 これが連鎖すると思います。
- tzd78886
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>「教室から隔離する」等の 罰則はあっても良いと思います。 これは体罰とは呼ばないでしょう。「退去命令」です。議会でも何でもそうですが、進行を妨害する人は排除されてもやむを得ません。
お礼
ご回答有難うございました。 》「退去命令」です。議会でも何でもそうですが、進行を妨害する人は排除されてもやむを得ません。 授業妨害する罰則としてこれ位はあっても良いと思います、 そうすれば体罰も減るし、教師への危害も少なく成ると思います。
- meido2010
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正常な人間の意識としては「人に優しく、人として正しく生きる」という 人間が社会で求められる。と言われます。 しかし、学校とはそういう処とは、かけ離れた場所になってしまっています。 いわゆるワルという。警察に捕まらないよう周囲に口止めしたリ、暴力で 脅して悪行をする奴が表向きでは「良い奴」というレッテルを貼って、 通っている。そういう奴を教師は上手く使って、クラスを纏めれば、それで 良い。と思っているから話はこんがらがる。 国会議員にまでなっても、そういう悪行を重ねている奴がいるから、世の中 信用、信頼は肩書では判断できないのです。 この議員、当選した時は地元で名士として通っていたのでしょう。しかも 祝勝会で涙まで見せて「皆さんの代表として国会で頑張ってきます」と言って いたのでしょう。 しかし、昔から彼を知っている人は「なにをバカなことを言っている」とか 思っていたのでしょうね。 こういう怪物を生み出したのも親、教師、友人の事なかれ主義が導いてしまった ということなのでしょうね。 クラスを纏めるためだけの目的で怪物を利用しようとした教師はもちろんの こと、親も友人も許せませんね。 国会議員にまでなっても何も残せない人間を生み出して、何が国民の幸福に 繋がるのか。それまで考えていないから目先のことばかりに目が行くのです。 猛省してほしいですね。
お礼
ご回答有難うございました。 》正常な人間の意識としては「人に優しく、人として正しく生きる」という 人間が社会で求められる。と言われます。 これは、そうだと思いますし、異論はありません。 学校でも建前はそういう風に教えていると思います。 》しかし、学校とはそういう処とは、かけ離れた場所になってしまっています。 いわゆるワルという。警察に捕まらないよう周囲に口止めしたリ、暴力で 脅して悪行をする奴が表向きでは「良い奴」というレッテルを貼って、 通っている。そういう奴を教師は上手く使って、クラスを纏めれば、それで 良い。と思っているから話はこんがらがる。 確かに、悪い子を手名づける方法として、 暴力的な運動部等で悪行をもみ消してきたという様な処も有ると思います。 》国会議員にまでなっても、そういう悪行を重ねている奴がいるから、世の中 信用、信頼は肩書では判断できないのです。 この議員、当選した時は地元で名士として通っていたのでしょう。しかも 祝勝会で涙まで見せて「皆さんの代表として国会で頑張ってきます」と言って いたのでしょう。 しかし、昔から彼を知っている人は「なにをバカなことを言っている」とか 思っていたのでしょうね。 こういう怪物を生み出したのも親、教師、友人の事なかれ主義が導いてしまった ということなのでしょうね。 クラスを纏めるためだけの目的で怪物を利用しようとした教師はもちろんの こと、親も友人も許せませんね。 国会議員にまでなっても何も残せない人間を生み出して、何が国民の幸福に 繋がるのか。それまで考えていないから目先のことばかりに目が行くのです。 猛省してほしいですね。 確かに手名づけ、纏まる。悪行をもみ消す、表面上そこは上手く行くが、個人の私利私欲でしかないという事だと 思います。
お礼
ご回答有難うございました。 返信遅くなり申し訳ありません。 》No1の続き 成績の良い生徒は体罰を受けない。 という典型がNo1で書いた国会議員の例です。 このOkwaveに来ている人でも、分かるでしょうけど成績優秀な人物ほど 体罰、躾と称する暴力は受けません。 それは、頭が良ければ世の中が分かるし、道を外すことはしない。 というある意味、観念的な思考が教師側にあるからです。 しかし、成績優秀なら良い大学に行って官僚になるか、国会議員になるか それともなけりゃ大会社の社長になるか。 そして、不祥事は揉み消せば済む。 そういう人間にこそ躾は必要なのですが。 確かにこの様な立場に成るともみ消しを行う事も可能なので罪の意識が薄らいで行くという事もあると思います。 褒められた話では無いが、「金を稼ぐ為にどんな人の弁護でも金に成ると云うと行い、負け知らずだった」と語る 橋下徹氏はその様な事を象徴しているのかもしれません。 》有名工科大学を出て、人殺しの兵器を作る会社の製作部門を担っている 人が名士として評価される。ことに何の疑問も持たないことに怒りさえ 覚えます。 あまり、兵器産業に入り込むとその内、原子爆弾を作りたい。とか水素爆弾 の構造を改良したいとか思うようになるのです。 それは、この世の崩壊を望むような屈折した思考からくるものなのでしょう。 てすから、成績優秀だから躾は要らないとは言い切れません。 確かに、社会的地位が高ければ罪ももみ消し、正義に反する事も麻痺してしまう様な処があると思います。 》また、暴力を肯定する者は幼少期から躾と称する暴力(体罰)を受けてきたから それが正しいと思ってしまっている。ところに難しさがあるのです。 これが難しい処かと思います。 当たり前で育つと、それにも罪の意識が薄らいで行くと思います。 》教師は生徒に対して平等に扱っている。と言いながら、成績で体罰の有無を 判断しているから真面目な生徒であっても体罰を受けることになります。 自殺をする生徒の多くは真面目な生徒で、成績は中程度の子が多いのです。 ですから、以前は教師が文部省から戒告を受けることも無かったのです。 しかし、今の世論はそれを許しません。 目立たない生徒であっても人権はあります。 やはり、この様な視点に立ち見つめ直す事と、私自身も自己を顧みていく必要があると思います。