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昭和時代の暴力は必要悪だった?
- 昭和時代の暴力の意義とは?必要悪なのか
- 人間の本能としての暴力とはどういうものか
- 暴力による鍛錬が人間の成長にどのような影響を与えるのか
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>人にもよるのですが、元来人間は暴れてみたいものであり あなたの大筋は、権力(暴力等も含む)による統制は必要不可欠なこともある。時には、其々の立場や従事が心地良い環境に有ったことも認めたい。ということですよね。 現代ではタブーかもしれませんが、まー支持することろでもあります。 「暴力」というと野蛮なイメージがありますが、「叱る」延長線での「殴る」「殴られる」では、悪い印象はありません。 私が高校生の時は、先生に殴られる為に学校に行っていたようなもので、、、分かっているのに悪いことをして殴られていたような。(苦笑) 誰の為に!って全て私の為になんですよね。 殴られた痛さで涙を流すことはありませんでしたが、行為後の「諭し方」が神対応の先生がいました。 先生が涙を浮かべるともらい泣きするんですね。 負けた!というか?嬉しいというか? 親よりも凄い!と思った先生でした。 私はラクビー部に所属していました。 校内でもツワモノが集まる部です。 新入生で入部したては、緊張しまくり。 でしたが、当時、セブンスターが250~60円ぐらい。 お金を預かって、停学覚悟でタバコを買って来れば、テマと見張り役のカタに1本恵んで貰ったものです。 数か月経つと気持ちもデカくなって、、、ある日、私が3年生の駐輪場に自転車を止めたとしましょう。 案の定、生意気な奴がいるということで待ち伏せされて、ボコボコに・・・。 その話が先輩の耳に入って「ウチの若い者がえらい世話になってぇ」と謝りに・・・。 学食で目付きが悪いと食卓のテーブルをヒックリ返された時には、「ラクビー部に何か要か?」と体を張ってくれたことは今でも覚えています。 いろんな先輩が親代わりというか、青春のお手本でした。今では何処までその伝統を引き継いでいるのか分かりませんが、、、その後の大卒、社会人、親になっても仁義や恩情は忘れていません。 イザという時の「暴力」は、人の為にあるもの。と心しています。
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- nagata2017
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必要悪ではなく 価値観の違いです。 価値観はつねに変動しています。 永久不滅の真理などはないのです。 今も暴力は世界にあふれています。 平和な日本では 暴力は悪いことだという倫理観がありますが 近くの国では 外国のテレビドラマを見ただけで殺されています。 その隣の大きな国では 覚醒剤に関わると無条件で死刑 上告なども許されず その日のうちに処刑されます。 顔にビンタどころか 命まで簡単に奪われていきます。
お礼
ご回答有難うございました 今も暴力は世界にあふれています。 平和な日本では 暴力は悪いことだという倫理観がありますが 近くの国では 外国のテレビドラマを見ただけで殺されています 日本は未だ平和で法律で守られているが、中近東 中国 等はそうだと思います。 日本人で良かったと思う反面、他国ではそうしないと自分の身も守れない処もあると云う事だと思います。
- KoalaGold
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中世は暴力が当たり前でした。 いきなり600年も飛んじゃいますが、昔の人間は今と同じ感情体系を持っていなかった、と思えるのです。ドラマや映画は現代人が演じるものですから相手の悪知恵を読み取ったり勘ぐったりしますが、本当かな?と思うのです。 賢い人は一握りで、その他大勢は指導者に言われた通りに動く、言われないと判断できない寄せ集めの農民一揆のような軍事的知識も経験も秩序もない野良百姓だったのでは。 それは都の知識人は持って回った言い方をしたり、画策をする能力があるけれど一般市民はやれと言われてやるだけ。やっていてもうまくできない、すぐサボる。 国を治め、システムを作り上げ、外国の組織を学んだ上で人を動かすのはそういう時代では力だったと思います。人は力のある人を信望します。正すのも力です。列に並ばせるのも力です。 急激に日本は発展を遂げ、教育もあり人の能力が突然進化しました。脳細胞が増えたんじゃないかってくらいに、先読みをしたり、行間を読んだり、察する能力まで出来ました。後進国はそこまで行っていないのでまだ暴力を使います。 思うに暴力は進化の一過程にあるもの、です。平成も終わろうという日本では暴力は消えていき正義として扱われることはなくなって行くでしょう。言い訳の聞かない幼児にも手を上げられない、ちょっと困ったことになりました。 アフリカや南米、イスラムやインド、暴力が日常化している地域は発展途上と思えますし、同じ机上論は通じません。
お礼
ご回答ありがとうございます 一般市民はやれと言われてやるだけ。やっていてもうまくできない、すぐサボる。 国を治め、システムを作り上げ、外国の組織を学んだ上で人を動かすのはそういう時代では力だったと思います。人は力のある人を信望します。正すのも力です。列に並ばせるのも力です。 民度の低い処はその様な感覚で成立していた事も否めないと思います。 言い訳の聞かない幼児にも手を上げられない、ちょっと困ったことになりました。 確かに、赤ん坊がストーブに近づくと、「これは熱い、危険」と叩く事は危険を知らせる事で必要かと思い、それまでも虐待と云うのはどうかとおもいますが、 幼稚園時に乱暴に振る舞っていた同級生の親は「俺が怖い従え」と暴力三昧で子を躾け、近所でも相手が諦めるまで恫喝する様な人間でしたが、 民度が低い時代や環境ではそうしないと生き残れないという事だったのでしょうか?
- HutsuunoHito
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必要ではないでしょうね 一時的な効果はあったのかもしれませんが、長い目で見れば失敗でしょう 今の日本経済や自殺率の高さ、高齢者の問題にしろ昭和世代が残した負の遺産がそれを証明しています
お礼
ご回答ありがとうございます 徹底した弱肉強食で相手を諦めさせる、伸び調子の時は良いが、それが崩れると駄目になる、鍛える、自立は良い事ですが、なんでも強気に出て相手を諦めさせるのは困りものです
- eroero4649
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必要悪だったってより、割と日常に溢れていたってことだけですよ。日常だったので、一発二発殴られたくらいは殴ったほうも殴られたほうも気にしていなかったのです。 例えば今はネットで他人の人格を否定するようなことをいうのは「いわれるほうが悪い」みたいな風潮がありますよね。未来の人がやってきて「ネットで口汚く罵るなんて、平成の頃の人たちって頭がおかしい」っていわれても僕らは「そういうもんだ」というしかないじゃないですか。別にこれが必要悪だと思っているわけでもなくね。それと同じことです。 機動戦士ガンダムの有名なシーンでブライトさんがアムロを殴りつけて「ああ殴ったさ。それの何が悪い。殴られもせずに一人前になったやつがどこにいるものか!」というシーンがありますけれど、あの頃(70年代末)は「殴られもしないで一人前になったやつなんていなかった」のです。私の子供の頃は取っ組み合いのケンカなんて珍しくもなかったですしね。 だから取っ組み合いのケンカが始まると「やめろやめろ!」といって止めに入る友達がいたし「お前ら、お互いに仲直りしろ」と仲裁に入る友達もいたし、「さっきはごめんな」「僕のほうこそごめんな」といって仲直りもできたのです。今の若い子たちのようにケンカが始まっても誰も仲裁しなければ仲直りもできなくてお互いに相手をブロックしあう、なんてほうが私らの世代にはよっぽど殺風景に見えますよ。 あとガンダムでは第二話で負傷者をエレベーターに乗り込ませようとするのを見て「乗るのかい?」と嫌がったカイに対してセイラさんが「それでも男ですか、軟弱者!」といわれて平手打ちを喰らわせるんですよね。 あれ、あの当時の価値観では「軟弱者のカイが100%悪い」です。まあ「男を平手打ちにするとは、気の強い女だね」ってのもありますけどね。 他の場面でアムロが「悔しいけれど、僕は男なんだな」といって戦いに向かうシーンもあります。あの頃は、「男は強くなければならない。戦う勇気がなければいけない」ってのが常識だったのです。 ドラえもんでも、有名な「幻の最終回」というのがありますね。未来に帰るドラえもんにのび太がジャイアンに食らいついて「僕は一人でも立ち向かえるから安心して未来に帰って」とのび太が根性を見せます。 アムロものび太も、当時としては「あり得ないほど軟弱で弱虫な男」って設定だったのですよ。それでも時として「男として根性見せる」みたいな場面があったのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 アムロが「悔しいけれど、僕は男なんだな」といって戦いに向かうシーンもあります。あの頃は、「男は強くなければならない。戦う勇気がなければいけない」ってのが常識だったのです。 ドラえもんでも、有名な「幻の最終回」というのがありますね。未来に帰るドラえもんにのび太がジャイアンに食らいついて「僕は一人でも立ち向かえるから安心して未来に帰って」とのび太が根性を見せます その様な事は頷けることも有ります、成長するにつれ自立を促すと云う事は しかし、やたら「暴力三昧」で相手を制し、相手が諦めた形で居る事を「偉く成った」と勘違いしている人がいるのは困りものだと思うのです。
お礼
ご回答ありがとうございます 時には、其々の立場や従事が心地良い環境に有ったことも認めたい。ということですよね。 現代ではタブーかもしれませんが、まー支持することろでもあります。 現在 理不尽な体罰はいけない風潮があり、真面目な人間には合わないが、 その人に依ればそこが身にあっている 所謂 その様な流れの部活 企業 究極的な処は〇〇組という事だったと 云う事だと思います。 行為後の「諭し方」が神対応の先生がいました。 先生が涙を浮かべるともらい泣きするんですね。 唯怖いだけではなく そこに見捨てないと云う事や自分の事を思っていてくれる事もあると思います。 昔不良だった島田紳助氏がどちらかというと細身で気弱な先生がこんこんと諭す姿に感銘を受けた事もあったと云われました。やはり、決して自分を見放さないという事もあったのだと思います。