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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:生きるか死ぬか?だった経験を教えてくださいな。)

生きるか死ぬか?苦い体験を教えてくださいな。

このQ&Aのポイント
  • 人は誰でも人生の中で、「もしかしたらあの時死んでいたかもしれない。」という経験が二つや三つはあると思います。
  • 高校生の頃、友人と「青梅」を食べて本当に死ぬかどうかを検証しました。
  • しかし、そのすっぱさに負けてギブアップしました。皆さんはどんな「死んでいたかもしれない。」という経験をお持ちでしょうか?お礼は遅くなりますがよろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

ありますよ。 昭和最後の年 中央高速道で事故を起こし(前の車に追突) シ-トベルトでつりさげられながら まいあがり落ちてしまいました。 車破損の状態でしたが 私のいた助手席のみ空間がありまして 私は無傷ですみました。(あとで確認) 運転者は全治3か月の重傷 まさに九死に一生を得たとはこのことですね。 そして今から18年前私は胃がんになり 其の後子宮がんにもなり手術をしています。 でも今は体力は無くなりましたが 生きております。    

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。 生きるか死ぬかの境目は本当に紙一重だと思います。回答者さんは九死に一生という言葉を使うようですが全くその通りです。私も人並みに九死に一生を何回も経験しておりますが、思い出すと思わずゾツとする背筋が凍るようなものも含まれています。 我ながら「よく今まで生きてこられたもんだ。」と思いにふけることもあります。結局、九死に一生の手前でとどまることができた人と、九死に一生を超えてしまった人の違いなのかもしれません。たったの紙一重とは言え、この差は限りなく大きいと言えるはずだと私は考えております。 不特定多数の皆さんや回答者さんにも当てはまることだと思いますが、今後も「九死に一生」と言えるような体験をするかもしれません。回答者さんには、これが後になって笑い話になって「終わり良ければ全て良し。」となる人生を送って頂きたく存じます。 ご回答に感謝します。

その他の回答 (8)

  • 2012tth
  • ベストアンサー率19% (1893/9468)
回答No.9

> ことは大きく報道されたはずだと思います。 NHKローカルのニュースに成ったので当時のニュース映像が 何処かに有ると思いますが? Youtubeには、当時も今も有りませんね何故か知りませんが?

asacusa110
質問者

お礼

再度の投稿ありがとうございます。 やっぱりそれらしい動画は見当たりませんね。いつごろの災難だったのでしょうか?。 昭和〇〇年とか平成〇〇とかです。 国内線だということで、動画が無ければ記事でも良いので是非読んで読んでみたいと思います。

  • fs64vvz
  • ベストアンサー率31% (353/1129)
回答No.8

おはようございます。 あれはまだ、運送業界の氷河期・・・20年ほど前の話です。 今のように「休憩を取らないと罰則」「デジタルタコグラフで運行状態を記録」なんてなかった時代の上に景気暴落と運送会社乱立で運賃の値下げ競争になり運転手には大変厳しい時代でした。 関東で積み込みを1日かかって5~6カ所でやり、翌朝7時には東北5件下ろし終わっていなければならないというスケジュールのうえ、最後に山形で下ろしたら当日仙台で積み、その夜中に関東に3箇所配達というすさまじいものでした。 寝てる時間なんかありません。 さすがにこの時は居眠り運転をしました。 高速で、タバコに火をつけているのに手に持ったままフィルターまで焼け落ち、それでも脳が先に眠ってしまっているので車を走らせていると目を開けたまま夢を見るのです。 睡眠不足が続くと幻覚を見るというのは本当の話。 「あ、目指すインターが見えた!」と思って左に車線変更しスピードを落としたら、そこは何もない路肩でした。 乗用車が右をすごい勢いでかわして行きました。 事故にならなかったのが不思議なくらいです。 それほど昔の運送会社はブラックが多かったのです。 運行が終わっても家にたどり着けず自分の乗用車で帰宅中に力尽きて路駐して寝てしまったこともあります。 今は、国がコンプライアンスを厳しく言いだしたので運転手にとっては当時に比べたらずいぶん働きやすい環境になってはいますがまだまだ問題もあります。 早く物流従事者が安心して働ける労働環境になってほしいものです。

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。 第二次世界大戦で日本陸軍が何処かの目的地に向かって、一列になって行進していました。目的地に早く到着するためこの行進は昼夜を問わず止まることはなかったそうです。そうして丸2日か3日くらい行進を続けていたら眠りながら行進をしていた兵が随分いたとのことでした。 いただいた投稿を拝見していて以上のことを思い出しました。正に値下げ競争という戦争に巻き込まれていた回答者さんそのもののようですね。私は俗に言うバブル期というものを知りません。いつバブルがはじけたのかさえ知りません。そんな私の想像ですが、20年前の不況はバブルがはじけた負の遺産だったのではないでしょうか?。 現在は改善の余地があるものの、当時に比べて働きやすくなったとのこと。ですが大変なお仕事でしたね。よく乗り切ったものだと感服いたしました。 さて、ブラックと聞けば耳が痛くなるのですが、私の祖先は北海道の炭鉱で仕事をしていました。炭鉱の仕事と言っても石炭を採掘するのではなく、内地(本州)にいる朝鮮人を捕まえて、無理矢理石炭を掘らせるため、こき使っていたそうです。 そして給金を与えるのですが、またもや無理矢理博打をさせて朝鮮人が持っている有り金を全部巻き上げて裕福な生活を送っていたらしいです。 また、一方では炭鉱から逃げ出す朝鮮人を捕まえて半殺しにしたり、見せしめに酷いこともしていたとのことです。これはもはやブラックを超えた領域に入っています。 一番年上の叔父からそんな話を聞かされて、「えー うっそ~。」と私が答えると、叔父が証拠にこれを見せてやると言って昔のお金を持って来て私の眼の前に広げたのです。 それのほとんどは金貨や銀貨で、もしかしたら数は100枚以上あったかもしれません。小判ではありませんが長方形の金貨もありました。 この時代にいくらコンプライアンスを掲げてもそれはただの「絵に書いた餅」のような気がします。労働環境を改善するには労働組合が強くなければならないのですが、現在の労働組合の力は弱すぎると思います。というか、労働組合はどこも会社の手先になり果ててしまったようです。 だったらどうすれば良いのかということになりますが、私にはどうしていいのかよくは分かりません。しかし、どんな会社にもどんな職場でも不平不満は付き物です。どこかの時点で妥協するのも一つの方法かもしれません。 或いは(労働環境についてのみ)外国からの干渉を受け入れるのもありかな?と思います。第二次世界大戦で日本が敗戦したわけですが、戦争は勿論のこと、それまでの日本の職場は人命を軽視する劣悪な労働環境だったと言われています。そして実際に多くの人々が命を落としました。それでも「弁当と怪我は手前持ち。」という風習は続くかのようでした。 それは日本人の持つ特攻精神の延長だったのかもしれません。が、しかし、この悪の風習を一転させたのが、敗戦した日本を支配していたGHQのマッカサー司令官でした。そのおかげで現在の日本は「安全大国日本」として世界に君臨しています。 以上、あまり知られていないことばかりですが、無理をして居眠り運転、危険運転だけはしないでください。下手をしたら交通刑務所へ送られて職を失うことになりますので・・・・・・・・ ご回答に感謝します。

  • 2012tth
  • ベストアンサー率19% (1893/9468)
回答No.6

50代♂ 回答 以前、別の質問にも書いた。 国内線の飛行機にて、コース上の火山が噴火…噴石が飛行機に直撃 窓ガラスにヒビが…エンジン停止 (最終的に全エンジン喪失) して? 機長のアナウンスにて、飛び立った空港は直後に閉鎖、コース上の 総ての空港が次々に閉鎖…開いているのが目的地のみで機長判断で 強行します。 無事に?到着…初めて空気で膨らますあのすべり台で降りた。 因みに外から見た飛行機は?エンジンカバーが吹き飛び内部が見え ていました。 機体の到る所に亀裂が走り無残な状態…よくまぁ飛べたなぁと思い ました。

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。 火山の噴火で噴石が飛行機を直撃。 全エンジン喪失。 それでも飛んで空港へ着陸。 その他。 文面を拝見しているといくつもの奇跡が起こったかのように伺えます。このことは大きく報道されたはずだと思います。だったらYouTubeにもアップされているかもしれないと考えて検索してみたのですが、それらしい動画は見つけることができませんでした。 実は回答者さんほどのことではありませんが、私も奇跡的に助かったことがあります。それは私が小学1年生のときでした。自転車で道路を走っていると、前方に大型のダンプカーが走っているのが見えたのです。 てっきりというか常識的にこのダンプカーは前進しているはずでした。ところが実際はかなりの速度でバックしていたのです。このことに気が付く前に私はこのダンプカーにひかれてしまいました。 ダンプカーにひかれたあと、私はしばらく気絶していたようです。気がついて眼を開けると私の周りに20人くらいの人が集まっていました。その中に5人くらいの警官がいて、警官の私の父親の姿もありました。 そしてすぐに現場検証が始まったのです。今、不思議に思うことは、ダンプカーにひかれた私は何故すぐに救急車で病院へ搬送されなかったのということです。もちろん現場検証が終わっても病院には連れて行ってもらえませんでした。 当時の我が家には風呂がなく、もっぱら銭湯を利用していました。私がダンプカーにひかれたその日に銭湯へ行って服を脱いでいると知り合いのおじさんが、「おまえ 首にタイヤの跡が付いているぞ。」と教えてくれました。 急いで鏡を見て見ると、本当に私の首にタイヤの跡がついていました。ここで私をひいたダンプカーはどうなったのかと言うと、私をひいた後逃げてどこかに行ってしまったようです。 私の場合はただ単に注意不足で、注意を怠っていなければこのひき逃げを回避することができたはずです。しかし、回答者さんの場合はどうしようもない状態のように思われます。このときの機内はパニックになってはいませでしたか?。 「人間、何事も経験だ。」とたまに聞くことがありますが、回答者さんはいらぬ経験をしてしまいましたね。 ご回答に感謝します。

  • keaget09
  • ベストアンサー率19% (583/2929)
回答No.5

asacusa110さまこんにちははじめましてです。雨音サーバルです(*´∀`*) 以後お見知りおき お願いいたします。 『死んでいたかもしれない』ですよね。 中学3年生のころ、選択英語の授業で 映画 『Stand by me』を見ました。 線路の上を男の子達が歩くシーンがありますよね? その頃の私は何を血迷ったのか、突然『あれをやってみよう♪スタンドバイミーごっこ』と思い立ち、どうせやるならスリルがあった方がいいよね、と、京急の線路の上でやったわけです。 すると、しばらく電車は来ないと思っていたのに、突然、背後で『ぷわぁ~ん』というおっきな音がしまして。 快特電車が私の方に近づいてきました。 背後に近づいてくるのは、あの京急です。あの速度です。 気づくのが少しでも遅れていたら 完全にいってましたね。

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。雨音サーバルさんを頭の中にインプットしました。 いや~ 恐ろしい話ですね、ご無事で何よりです。文面を拝見させて頂いてふと思ったのですが、電車にはねられて電車を止めてしまうと数千万円から数億円もの賠償金を支払わなければならないということです。 本当にそのような金額を支払うことができるのでしょうか?。このような疑問にぶつかると私自ら人体実験をしたくなるのですが、さすがにこればかりは手が出ません。 実は私は飛び込む瞬間は見てはいませんが、JR線の踏切で特急列車に女性が飛び込んだ現場を観てしまったことがあります。新聞によると、この女性は旦那さんが長期出張のためノイローゼ気味だったようです。 私が見たのは飛び込みがあった直後でした。踏切の真ん中には肝臓が丸ごと転がっていますし、大量の血液まで確認することができました。踏切と線路には細かくなった肉片と髪の毛が散らばって、あたり一面にう〇この臭いも漂っていました。 私はこのような場面に出くわしたのは初めてで、いたたまれずその場を去ったのです。そしてその後、1週間は肉を食べることができなくなりました。 ここでまたふと思ったのは、スリルがお好きな回答者さんが中学3年生のときに観たのが「Stand by me」ではなくて戦争映画だったらどうしたかということです。 もしかしたらもしかしたらですよ、空から降下するパラシュート部隊のマネをして、傘を広げてビルの屋上から飛び降りるのではないでしょうか?。これって本当にやってしまったら完全にいってましたね。 ご回答に感謝します。 と、ここでまたまたふと思ったのですが、回答者さんのハンドルネームと雨音サーバルが違うのはなぜなんでしょう?。

回答No.4

Q、生きるか死ぬか?だった。 A、いわゆる旧社会党の学生組織が大学封鎖した時に何度か? 1、突然に赤や青にヘルメットに鉄パイプの学生が乱入。  彼らは、私らがいる校舎をバリケード封鎖して無差別に学生を襲い始めた。隣にいた学生は喉をパイプでやられて大流血。私は、彼を抱えて上階に移動。が、発見されて鉄パイプで直撃された。その傷は今も残っている。 >彼らは、殺しかねない。 >俺について来い。逃がしてやる。  流血の酷さにビックリした赤ヘルの一人が逃がしてくれて助かった。私らのいた校舎は、1階から4階まで石油を撒いて放火したので完全に焼け落ちました。 2、部活動で夜更かしして寝ていると突然に手製爆弾が至近距離で爆発。  壁には穴。ソファーには釘がグサリ、グサリ。購買部の横が部室。しかも、昼時で学生がウヨウヨ。まあ、どこでもいいから、「爆弾を投げ込め!」だったんでしょう。椅子の背もたれがなかったら、上半身に釘がグサリだったのは間違いありません。 >今、赤ヘルグループが大学構内に突入しようと構えている。 >大学側は、それをバリケードで防いでいる。 >機動隊A班は、赤ヘルグループの学内突入を側面援護せよ。 >突入を邪魔する学生は逮捕せよ。  まあ、学生課長の依頼で機動隊の無線を傍受して彼らの再三再四の校内封鎖阻止に協力していたので狙われたんだと思います。  70年学生闘争なんて人は言う。でも、ありゃー、単なる旧社会党左派組織のトチ狂った暴挙。でなきゃー、一斉に幾つかの大学が狙われる訳がない。全共闘なんかには、全国統一行動を展開する力はなかった。裏で動いていたのは社会党の左派組織だった。事実、大学は次の襲撃予定表は社会党左派組織から入手していた。学生課長が見せてくれたので、これは間違いないこと。万一の場合に備えて、学生課に託していた私の遺書は日の目を見ることはなかった。が、一歩間違えば命を奪われるとこでした。

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。まだ私が産まれていないころの話ですね。 テレビで当時の映像を数回観たことがあります。確かというか、うろ覚えですが、学生側の武器は火炎瓶、機動隊の武器は催涙弾?だったような記憶があります。 激しい闘争だったのは容易に想像することができますが、まさか爆弾まで使われているとは意外でした。それに遺言まで書いたということは尋常なことではありませんね。 私が社会人になってからのことです。社員同士約20名ほどでよく酒を飲みに行ったものです。その中に1人の40代後半か50代の上司がいて、私を含めた数人の若手社員を集めては学生運動の話を熱く語るのです。 最初の2~3回までは「へ~すごかったんですね~。」などと相槌を打ちながら学生運動の話を聞いていたのですが、毎回同じことを話すので、飲み会ではその上司には近寄らないようにしていました。 それでも運が悪ければ捕まり、また同じ学生運動の話を聞かされるのですが、回答者さんが投稿して下さったようなことは何も聞かされてはいません。きっとこの上司は危険地帯から逃げ回って、知っている限りの他人の手柄や行いを自分の武勇伝にしたかったのかもしれません。 ちなみに、この上司はタレントの田原俊彦の叔父です。 しかしながら回答者さんはよく死なずに済んだものです。よほどの強運の持ち主なのかもしれませんよ。 文面の赤ヘルという言葉がキーワードになり、ヘルメットの話に移らせて頂きます。 これは私事なのですが、750ccのバイクにノーヘルで乗って時速何キロまで耐えられるか?と、友人と私が自らモルモットになり挑戦したことがあります。当然友人も私も無免許の高校生です。 当時住んでいた我が家の近くに広くて見晴らしの良い4Kmくらいの直線道路がありました。正確には能面道路です。ここが実験場となります。 友人が先輩から750ccのバイクを借りてきた時点で準備完了。後は時速何キロまでノーヘルで耐えられるかです。 時速120Kmあたりから耳がパタパタと旗のようにはためき始めました。時速150Kmにもなると耳のパタパタが早くなり、頬の肉が波打つようになりました。 時速180Kmで耳のパタパタはビーンという振動のようになり、耳がちぎれそうになったので実験は終了となりました。こんなバカなことは、もうしませんが若い人(特に学生)はとんでもないことをやらかしますね。 ご回答に感謝します。

noname#242299
noname#242299
回答No.3

青梅には アミグダリン 青酸配糖体 という毒の成分が含まれています。酸っぱさに助けられて本当に良かったですね。 命に関わる事ではないのですが小学生の時に 広場の高い所で遊んでいたところ ある男の子が後ろから故意に押したため 地面に落ちてしまいました。その時 下に生えていた雑草が目に刺さり あまりの痛さに声を出して泣いてしまいました。 母に連れられて眼科へ行ったところ 刺さった場所が あと0.5ミリ ズレていたら失明していたとの事でした。 あの時の事を思い出すたび 目が見えるって幸せだと思うようになりましたね。

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。 0.5mmというのはシビアですね。私も失明していたかもしれないという経験があります。それはシンナー遊びばかりして頭がおかしくなった後輩と草取りをしていたときのことです。 私が下を向いて茎のような枯草を抜こうとしていたとき、突然、このシンナー小僧が私の顔の真下にある枯草を地面から抜いたのです。茎状の枯草なのでその枯草は私の眼に刺さりました。 この瞬間だけは自分が何をしたのかを自覚したらしく、「すみません。」と私に謝ったのですが、急に開き直って、「俺の仕事の邪魔をするな!。」などと訳の分からない言葉を連発した後、どこかに行ってしまいました。 1時間後くらいに、このシンナー小僧は戻ってきたので、「私の眼のことは気にするな、で、どこに行っていたんだ?。」と尋ねると「シンナーを吸っていた。」とのことでした。どこでも誰に対してもこんな態度をしているため、皆から疎外されいつの間にかこのシンナー小僧はいなくなりました。 あと、他の回答者さんへのお礼で書いたことなのですが、私はいくつものトラウマを背負っています。どれも思い出したくないのですがその中の一つだけということで・・・・・・・ 私は死にそうになった経験がありますが、反対に人を殺してしまうような行為をしたことがあります。私は鶴のマークでおなじみの〇〇空港で荷物運びの仕事をしていました。 飛行機というのは下半分が貨物室になっています。その貨物室の中に乗客の荷物を運び入れるのですが、最後は貨物室の扉を閉めなければなりません。この扉はカギやキーという物がなく、扉についているレバーを回したり、引っ張ったり、押すなどをして閉めます。 私は新入社員なので、一度も飛行機の貨物室の扉をしめたことがないのに、先輩から「おまえ 閉めておけ。」と命令されてしまったのです。私にとっては一番やりたくない仕事でした。しかし、命令されたからにはやらねばなりません。 こうかな?、レバーを回してみるか?、押しながら回してみるか?、といろいろしてみたところ、偶然にレバーが機体に収まったのです。 数十分後、この飛行機は乗客を乗せてどこかへ飛んで行きました。この飛行機が墜落したとの報道はされなかったので、多分、目的地に到着したのだろうと私は安堵した次第です。 現在の飛行機は扉がキチンと締まっていなければ操縦席で分かるようになっているそうです。しかし、私が担当したこの飛行機はそのような機能がついていたのかは知りません。 あ~ 嫌なことを思い出してしまった・・・・・・ ご回答に感謝します。

asacusa110
質問者

補足

人間の三重苦とは、「耳が聞こえない。」「目が見えない。」「言葉を話せない。」らしいのです。その中で、目が見えないということが一番の「苦」だとされとされています。恐らく回答者さんの場合、失明するか失明しないのかは紙一重だったのだろうと考えています。お礼は後ほどさせて頂きます。

回答No.2

阪神大震災です 我が家は半壊で済みましたが、家賃をケチって格安アパートに下宿していたら、どうなっていたか分かりません

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。阪神大震災ですか。確か早朝に起こった地震でしたね。 私は千葉県在住の者です。千葉県に住んでいると、東北地方や遥か遠くの北海道で大地震の揺れを感じ取ることができるのですが、関西地方や九州で起こった大地震の揺れは全く感じ取ることができません。これはフォッサマグナの影響があるという説があります。 【フォッサマグナ】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A 阪神大震災が起きた当日の朝は、地震の揺れを全然感じない普通の朝を迎えていました。出社してみると会社中が大騒ぎになっていました。 何も知らない私は、「何をこんなに騒いでいるんだ?。」と不思議に思いました。しかし、同僚の話から、どうやら関西方面で巨大地震が発生したことを知ったのです。 我が家に帰ってテレビを観ると、高速道路?が崩壊して、街の全部が東京空襲にでもあったような悲惨な光景が映し出されていました。アナウンサーが、「日本で第2位の都市が壊滅した。」とも言っていました。 >家賃をケチって格安アパートに下宿していたら、どうなっていたか分かりません 回答者さんが倒壊した安アパートの下敷きになって、或いは焼死んでしまうなんて想像もしたくないです。 ご回答に感謝します。

noname#244657
noname#244657
回答No.1

こんにちは^^ あらまあ、青梅はだめでしょ? 酸っぱくて食べられたものではないということでしょうか? でも、なんだか毒があると聞いたような。。 ご無事でなによりです^^ 私の”生きるか死ぬか?だった経験”はお酒です。 今はお酒をお断りすることが出来る風潮になっていますが、私の若いころはそうではありませんでした。 会社の慰安旅行でしこたま飲まされましてね、急性アルコール中毒になるところでした。 「俺の注いだ酒が飲めないのか!」なんて。。今ですとパワハラですよね^^;

asacusa110
質問者

お礼

こんにちは。大変むごい体験をなされましたね。 今から思うと大抵の若い人って、ムチャなことを平気(何も考えない)でやるといった好奇心旺盛で、怖い物知らずだったような気がします。 お酒もそうですよね。回答者さんほどではありませんが、私もお酒をお腹一杯飲んで意識がなくなったことが数回あります。また、「俺の酒が飲めないのかよっ!。」と言われている人を実際に見たことがありますが、幸いなことに私は言われたことはないです。 よく昔のことは美化されるとか、10年20年も過ぎると辛い体験が笑い話になる傾向がありますが、回答者さんは、もうその段階に入っておられるのでしょうか?。 気になるのは回答文の最後の一行です。「パワハラ」と書かれておられますが、これは場合によってはトラウマになってしまいます。私を含め、人はいくつものトラウマを背負って生きています。このトラウマは、足枷手枷になって、生きていくのに邪魔なものです。 ま、最後に ^^;となっているので、トラウマはあまり関係ないのかもしれませんね。 ご回答に感謝します。

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