《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?
1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?
2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?
3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。
4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?
《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?
5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。
受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。
6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?
○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
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思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
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7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。
教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。
ご見解をどうぞ。