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長き友が行方不明。どうしているのだろう。
80歳男性。一貫校から隅田川を越えた文人やお江戸の大店の寮でゆかりの都立高に編入。 出会いのなかった小中校から、ともに編入してきた福島郡山の哲人に邂逅し、私淑景仰して今日に至る。 私自身は図書館学、社会事業学、労組法などを各別の大学で専攻して46年間大学図書館に勤務してきた。がしかし彼は民衆の哲学者として、信仰という事にも距離を持ち、定職に就かず放浪。金と時間が許さなくなり(なったのであろう)、付き合いを断ずるためならん。 行方を告げず不明となる。 彼の生活についてどうか、ご想像を描いていただけませんか。
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長い歳月が過ぎてもなお、こうして想いを馳せてくれる人がいらっしゃるとは、その方が羨ましい限りです。 年齢も考えると、現在どうされているか微妙な気もいたしますが、案外と若い頃青春を過ごした隅田川に時々来ては、川面を眺めて過ごしていらっしゃるかもしれませんね。 突き詰めると、昔の文豪の様に、どこかで裸電球にくゆらされながら、自分の人生に皮肉と愉快さを混ぜながら筆をしたためておられるのかもしれませんね。 そんな哀愁を背中に感じる、お会いした事もない方に妄想を膨らませております。 どうしてるか、何か情報があるといいですね。 福島のどなたかに当たりがつけばその後がわかるのでしょうかね。 お住まいを何とな聞き覚えがあるのであれば、ネットでお名前を入れてみると引きずりだせる可能性もあるかもしれないですね。 再会出来る事をお祈り申し上げます。
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- kurinal
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krya1998様、こんばんは。 「生活保護」は、ずっと有ったんでしょ。
お礼
私も生活保護か老人施設のお世話になっているかなぁと思わないこともありません。でも彼の性格、哲学としてはどうなんだろうか。
- kazamidori360
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安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争、傷害、放火、器物損壊などを伴う大規模暴動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動(あんぽそうどう)」[1]とも呼ばれる。 60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り内閣総辞職をせざるを得なくなった。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。 https://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ちょうど安保闘争の知識が必要になってきました。 というわけで挨拶程度に投稿です。 とはいえ今日はもう既に疲労でつらいです。
お礼
60年安保。 当時私は大学単組の書記長でしたが、彼はそういう運動や思想からも、ある種の宗教や信仰からも距離を置いていました。
- Mokuzo100nenn
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哲学に熱中するようになると、友人は無くても良くなるからねぇ。 哲学もそこそこにしないとイカンのではないかと自問自答しているところです。 ひょっとして、彼も哲学に没頭しちゃったのではないかなぁ。
お礼
木造さんありがとうございました。 学問や論理の哲学、ではなく。 人生を生きることの哲学者を、高1から唱えていました。 信仰や大衆活動にも距離を置いていました。 何時か会える日を望んでいます。
お礼
ありがとうございます。 正に私のイメージに重なるご回答です。 ネット検索や、尋ね人は何度も試みたのですよ。 どこかですれ違えるかなとも思ったりしています。 暮れ六つ、吉祥寺の二合半。太宰の入水の小川の畔をよく歩きました。