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嫌われることを恐れなくなった方へ

「嫌われる勇気」を持つようになったのはどのような機会や心境がきっかけでしたか? また嫌われることを恐れなくなったことによって、実際自分にとって変化がありましたらなんでもよいので教えてください。

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34537)
回答No.13

私も若い頃は人に嫌われることを気にして、時にどう振る舞えば嫌われずに済むだろうかとか、嫌っている人となんとか和解をしようとして余計に嫌われるとかそういうことをしてきました。 しかし30歳を過ぎた辺りでしょうか。段々周囲の目が気にならなくなったというか、気づいたことがありまして、それは「嫌う人はなにをどう頑張っても嫌ってくる」ってことでした。万人を敵に回すまいと平等に接すると「八方美人」といわれ、態度をはっきりすると「あいつは相手によって態度を変える」といわれるのです。どっちに転んだって文句をつけてくる人はいるんです。 テレビタレントもそうじゃないですか。知性を売りにすると「自分が頭がいいと思ってる態度がムカつく」といわれ、バカで親しみやすさを売りにすると「バカ」と笑われます。美人だと「お高くとまっている」といわれ、そうじゃないと「ブスのくせにテレビに出てる」といわれます。 それに気づいたときに、「自分を嫌う人のほうを向かないで、自分を好いてくれる人を向いて生きていこう」と思うようになったのです。そうなってから、自分の味方は増えたように思います。自分を好いてくれる人は、そりゃ大事にしますよ。 だから思うのですけれど、「嫌われる勇気」じゃなくて、「みんなから好かれようと欲張ろうとしないこと」なんじゃないかなと思いますよ。ただそれじゃ伝わりづらいから「嫌われる勇気」というフレーズにしたのだと思います。言葉って単純で誤解を生じるくらいシンプルなほうがウケるんです。「これ飲めば、痩せます」とか「楽々お金儲け」とかね。 質問者さんは、あるいは昔の私もそうだったのでしょうけれど、単独行動が好きな一方で、みんなに愛されたい願望が強いんですよ。みんなに愛されたいなんて、それは贅沢過ぎる願望だと受け入れることができれば、だいぶ気が楽になるかと思いますよ。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「どっちに転んだって文句をつけてくる人」というのはいわば「モラハラ加害者」です。 モラハラ加害者は 自分が認めたくないものや抑圧しているものを外部にあるとして投影し、異質なものとして排除するために攻撃する(しかしそれは相手への自分の同一視なのですから、自分を攻撃していることになる)。という心理構造をもつ者です。 テレビの視聴者はタレントに簡単に投影できるから難癖や八つ当たり、無理難題をつきつける。そういう人間に「嫌われる」ことはまったく恐れてないです。(ターゲットにはされやすいのが悩みです) 「自分を嫌う人」がそういう類の精神病質者の場合、まったく気になりません。軽蔑できるからです。 しかし軽蔑するにはある意味自我が成立していなければなりません。クズのような人間にも「好かれたい」というのは依存心からです。私はそれに気づき少し楽になりました。 >「嫌われる勇気」じゃなくて、「みんなから好かれようと欲張ろうとしないこと」 ということは全く同感です。ほんの少しの勇気がないほど、一億総「好かれなければならない症候群」に陥っていましたからこれは画期的な啓発本でした。 >単独行動が好きな一方で、みんなに愛されたい願望が強いんですよ。 前者はあたっていますが、後者は…そうですね…ないともあるともいえませんね。贅沢すぎるなんてとうの昔から思ってます。「愛される」などとんでもございません。これ以上理由もなく嫌われることについて苦しむ原因について知りたいだけです。

  • mindy73
  • ベストアンサー率10% (209/1970)
回答No.12

再び だって好かれたからって逆に何が役に立つのでしょう?人間は衣食住が必要です。誰も食べさせてくれません。仮にあなたを好きだからあなたには友達がいる、その友達とだっていつも一緒にいれるわけじゃありません。結局は常に一人です。

frau
質問者

お礼

人は衣食住が満たされればそれ以上の心理的な欲求を求めます。 食べることひとつとっても、自分の力だけではそれを得ることができません。人は常に一人といっても、それは心のことであり、物理的には一人ではないし一人では生きられません。だからこそ嫌われることへの恐れがでてきます。

  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (952/8906)
回答No.11

本の内容は知りませんが、一般的な嫌われるという解釈で。 嫌われると嫌がらせを含め面倒なことが増える、スムーズにいかない、常時険悪な雰囲気になる・・ ただそれを考えなければならない相手は基本的に好かれる人ではなくて嫌われるタイプの人なんですよね。 嫌われてる人に好かれても、その人が原因で普通の人とまで上手くいかなくなったりして総合的に運気が下がるだけだと思うので、邪気を持つ人には近寄らないのが一番かと。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >嫌われると嫌がらせを含め面倒なことが増える、スムーズにいかない、常時険悪な雰囲気になる・・ ただそれを考えなければならない相手は基本的に好かれる人ではなくて嫌われるタイプの人なんですよね。 ああまったくです。このテーマは常々考えてます。 嫌われることに恐れはないのだろうか、罪悪感はないのだろうかと不思議になります。そして同時に羨ましい。 誰もがみても嫌われる要因は自分でもわかっているはず(そういうのに限って「自分はヒール役(悪役)」だとかっこつけるわけですよ。 嫌われることを考えるとおだやかで、謙虚で優しくなるのに、そういう私のような(笑)人間ほど悩んでます。まったく不条理です。 嫌われる恐れから解放されることは幸福になる方法の一つだと思いますが、その心境になることを望んだり、もともとそうであったりするのは、自分へのいたわりだと思います。 しかしそのような人はまず自分を嫌っているでしょうね。 心底自分を嫌っているからこそ、嫌われるように仕向け、他者に自分を「嫌われさせる」のではないでしょうか。ですからある意味、自傷行為のひとつだと思います。

  • zabusakura
  • ベストアンサー率14% (2383/15962)
回答No.10

>「嫌われる勇気」を持つ 元々、嫌われたら、どうしようとか1度も思ったことが、ありません。 去る者は追わないです。それでも、関係を続けたいと思えば、誤解があれば 話し合いますが、話しすら出来ない(まともに話し合いにならないのなら) どこかで、必ず崩れる続かない関係だと思ってるので。 嫌われたらどうしようと思いながら人と付き合っていたら、本来の自分の 本音と反対の言動を取るような状況になったりしませんか? そうすると結局、自分が苦しくなるでしょ?自分で自分の首を絞めることと同じです。 どんなに自分が、その人を好きでも素の自分を受け入れて貰えないなら意味が無いので 勿論、そういうことがあれば、話し合いますが。 そうしていかないと、関係は長くは続かないし、お互い楽しくないと思います。 ずっと素ですが、好きな人に嫌われたことは、ないです。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >どんなに自分が、その人を好きでも素の自分を受け入れて貰えないなら意味が無いので 同じ考えです。ですがそれが難しい。 でも私も人と本音で付き合えないかぎり、その付き合いはまったくとはいいませんが(絶対何かしら得ることもありますので)、無駄だと考えてます。とくに長い付き合いでもケンカを一度もしたことがないという人たちは信じられません。そういう人たちはまず自分と向き合うのが怖いのだと思ってます。だから人と本音でぶつかり合うことも怖い。 >嫌われたらどうしようと思いながら人と付き合っていたら、本来の自分の 本音と反対の言動を取るような状況になったりしませんか? もちろんそうです。ほんとうの自己愛を持つ人は、自分に対しての矛盾を考えます。でも頭でそう考えることができていても、感情のうえでは嫌われるのが怖い。 >ずっと素ですが、好きな人に嫌われたことは、ないです。 他のひとも自分の経験から言ってるように、本当の自分をだしたほうが自分にとって逆説的に好かれるのでしょうね。

  • ryokagura
  • ベストアンサー率10% (30/295)
回答No.9

嫌われないようにしようとしても無駄だと感じたから。 何か知らないけどぼくは合わない人間を怒らせるらしい。 たぶん生意気だからかな。 でも、自分が正しいと思ってるから変える気ない。 本を読んでわかったことは、 人にはそれぞれ違うフィルタがあること。 そして、誰しも自分は正しいと考えていて、自分の正義に従わない他人を憎むこと。 誰もが自分だけの正義だという自覚があればいいけど、ないバカが多すぎて説教されることが多い。 ゆえに、ぼくも相手に歩み寄る気失せた。 ぼくはぼくの正義で生きますから、そっちはそっちでお好きに。 ただし、干渉するなってこと。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私もなんどか生意気と言われてきました。でも「生意気」って言われることに対して少し嬉しくもあります。 生意気とは「年齢・経歴・能力にふさわしくないようなことを得意げに言ったりしたりすること。また,そのさまや人。」(辞書より)です。 生意気と言われるのは言われる側が妥当なことを言っている場合もあるからです。「その言動がお前にはふさわしくない」と感じているのは相手の問題で、たとえば「自分より年下のくせに」「女のくせに」という間違った考えを通しているのであり、自分でもそれは間違っている主観であると(無意識的に)認めているからだ…と私は考えてます。 >誰しも自分は正しいと考えていて、自分の正義に従わない他人を憎むこと。 まったくです。もちろん私もその一人です。 で、ターゲットにされやすい。まあその心理はわかってます。自分の弱さに向き合う代わりに、他者に自分が抱えているものをみて(投影して)攻撃してくるから。

  • mindy73
  • ベストアンサー率10% (209/1970)
回答No.8

考えてください、人に好かれたからってあなたの人生変わりますか?変わりませんね。だから好かれても意味がないという事です。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なぜ変わらないと決めつけられるのですか? 少なくとも今よりは幸せになると思います。

  • wam2005
  • ベストアンサー率34% (102/295)
回答No.7

好かれたい、よく思われたいと思ってすることは、なんとなく押し付けがましい感じが透けて見えるのです。 嫌われてもいいのではなくて、目の前のことを自分の意志でする、それが結果悪く言われてもいいと思ってすることは清々しいです。 そういうことなのではないでしょうか?

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >押し付けがましい感じが透けて見えるのです。 純粋な承認欲求からと、何らかの打算のためにするのとでは違うかと。 しかし双方が露骨に感じられるとそう思われても仕方ないですね。 >嫌われてもいいのではなくて、目の前のことを自分の意志でする、それが結果悪く言われてもいいと思ってすることは清々しいです。 たとえばある目的があり、そこに意思があるのは当然です。また「結果」をだすことも目的なのですから、「結果」に対し、悪く言うことについてはかまいません(もちろん不快には違いないですが)。 その目的が他者の存在を必要とする場合、嫌われるとそれが遂行できない、その経過でこちらも士気が上がらなくなるなどのリスクが生じます。 日常的なものとちがい、一時的なものに対する達成の目的がある場合でも「嫌われることに対する恐れ」をどう克服するかということも私の課題です。

noname#225485
noname#225485
回答No.6

元からそんなに気にならなかったですね。 基本的に1人でなんでもやってきたので学生の時でも友達とかと群れることはなかったです。 だから周りがなんと言おうとそんなに気にならなかった…自称変人だと豪語してましたから。 歳食って更に気にならなくなったのは頭髪が薄くなってからかな(笑) ある種の諦めでもあるけど年食った自分を受け入れることで周りがなんと言おうが気にならなくなった…所詮はこのレベルの人間だと良い意味でも割り切りや自分を大きく見せようとか飾ろうという思い自体がなくなってしまいました。 ある意味で「枯れ」なのかも知れませんね…。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いやいや「枯れ」ではなく、「悟り」だと思いますよ。 私も幼児のときから群れるのが嫌でたまりませんでした。 孤独に対する耐性や、一人で遊べる能力はかなり高いと自負しておりますが、一方でなぜこんなに他者の評価を求め、嫌われることを恐れるのだろうかという自己矛盾があります。 それは過去に原因があるのはわかってますが…その恐れの感情を手放し、ふっきれることができたら私のようなものはもっと楽に生きられると思うのですが。

  • zakiyu
  • ベストアンサー率17% (375/2086)
回答No.5

私は、最初の方は、 嫌われたり、断られたり、 傷つくのを恐れたりはしました。 ただ、それを実際経験して、 今では、嫌われたり、断られたり、 傷つくのを前提に恋愛してます。 実際経験して、 慣れたと言うのもありますけど、 それがあっての恋愛だと思っています。 NGになりそうなのが、ほぼほぼで、 成功するのが、ほぼほぼないと、 いう、マイナス思考のイメージではありますが、 そのように想定しておくというのも、 大事かなと思って、そういう考えが出来ました、

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 恋と愛は違いますよね。 「恋」の欠点は、相手に対するイメージを勝手に作り上げ、実像が違うことで失望するリスクから回避し、同時にその相手から嫌われないようにする「自己愛」です。 一方で「愛」は自分が傷つくリスクを負えること。 自分を大切にしないと他者も大切にできませんが、嫌われることへの過剰な恐れも、ある意味自分を大切にしていないことかもしれません。 ですから、嫌われるリスクを覚悟しながらも相手を思えるというのは「愛」という次元なのだと思います。

  • aneq
  • ベストアンサー率16% (145/868)
回答No.4

会社勤めをしていた時は、人に嫌われると収入に影響が出るので、嫌われないように気を付けていましたが、そういう立場じゃなくなってからは、嫌いたい人には嫌ってもらって結構だと思うようになりました。 でももともと、人に嫌われることを恐れていたわけじゃありません。本当は嫌われたっていいけど、社会人として仕方なく、嫌われないように気を付けていたというだけ。 なんでそうなのかというと、自分のことが好きで、特別だと思っているし、私自身が本当に好きだと思う人がそんなにたくさんいないし、世の中の9割以上の人はどうでもいいと思っているので、どうでもいい人に嫌われても痛くもかゆくもないし、そういう人のご機嫌をとって、自分らしくないことをする必要性を感じない、ということでしょうか。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >社会人として仕方なく、嫌われないように気を付けていたというだけ。 たぶん多くの人の本音だと思います。 >私自身が本当に好きだと思う人がそんなにたくさんいないし、 私もそうです。付き合いが深まれば逆にその人のとんでもない正体にあう。見つけてしまう。口と言動の違いの矛盾を許せない等々… ご回答者様と同様、「嫌われてもいい」という基準がそこにあればいいのですが…たぶんまだ私はその基準が定まっていないのでしょうね。

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