- 締切済み
数年間悩んでいます。
長文です。20代学生です。このような状態になってから数年間たちます。 私は人の言動だけでなく、世の中の全てのものが信じられないでいます。それでいて細かい事も気になるとんでもないマイナス思考です。家族がかけてくれる言葉も、私が家族なばっかりに、仕方なく声を掛けてくれるんだ、気の毒だと思ってしまい、素直に受け入れることができません。 人の行動や言葉全てに、目的があると思ってしまい、遊びに誘ってくれる友人はいるのですが、こんな奴と仲良くなりたい訳がない、きっと何か他の目的があって関わっているんだと全てマイナスに考えてしまいます。 以前は人と会うのもお喋りをするのも大好きでしたが、新しく出会った人、前から知り合いだった人関係なく、人と会うたびにこの人は私を陥れようとしているのでは、とか、言っていることが嘘なのではと思ってしまいます。 ひとが嘘をつくのは当たり前だとは思います。私もついています。ですが、どの情報を信じていいのかわからず、何も信じられないでいます。 いっそ極端に嘘だと信じたり本当だと信じたりできれば楽なのかもしれませんが、それもできないでいます。人に関しては、はたから見たら良い人だと思っても、何か裏があるのではないかと思うし、性格の悪いと言われている人にも、何か目的があってこのような性格にしているのではと思ってしまいます。 純粋に裏もなく良い人やただ単に性格の悪い人がいるんだとしても、その見分け方がわかりません。 また、人から嫌われる事をすごく嫌い、お店の店員さんやすれ違っただけの人にも何も言われたくないと思ってしまいます。また、知り合いや友人も、私のいないところで何か私の事を言っているのではと思ってしまいます。自分の悪口を言っている人と仲良くしていると思うとゾッとします。 それを考えると誰に対してどんな言動をしていいかわからなくなり、自分のしていることがわからず、言っていることも毎回違うような気もします。 以前は知らない人に私の事をどうこう言われようがどうでもよかったですし、友達も仮にわたしの悪口を言っている子がいたとしてもこの友達のことを私が好きだからそれでいいと思えていました。(以前からマイナス思考な部分はありました。) 人が好きになれずこのような考え方になっているんだと思いますが、周りの人もそのような考え方の人がいるのではないか、でもその人がどの人かわからない、もしかしたら全員なのではと思ってしまいます。 また極端に人にはナメられることが嫌になり、人に対して何かしてあげたいと思う事もなくなってしまい、どこまでするのが「都合のいい人」と思われず「優しい人」で終わるのかわからず、いつも行動しています。(未だにわかっていません) 自分の好きなこと、思ったことをすればいい、自分に正直になればいい、素直な自分をみて避けて行く人は友達ではないとよく言いますが、 どこまで自分に素直になればいいのかもわかりません。 悪口などは基本言ってはいけないと思うのですが、その素な姿を見て好きでいてくれる人もいれば、嫌いになる人もいると思います。 ですが、自分の素をだしても好きでいてくれる人がもしいたとして、その人が誰がわかりません。一緒にいてくれても、影で悪口を言って仲良くしてるかもしれないし、職場や学校が一緒だから仕方なく一緒にいてくれているのかもしれません。 自分が何をしているのか、何をしたいのか、そしてさどこまで言えば自分の素なのかがわかりません。 毎日毎日、生きているのがつらいです。人に毎日迷惑をかけているとしか思えず、それでいて他の人も迷惑をかけているのでは、何で私だけこんなふうに考えなければいけないのだろうと思ってしまう部分もあります。 ですが死ぬ勇気もなく、今に至ります。 精神科も通いましたが、先生の言っていることが信じれず、行くのをやめてしまいました。(この人はこの程度で病院に来るのかと本当は思っているのでは、とか、先生は本気で患者を救いたいと思って医者になったのではなく、金儲けだろうか、などと思ってしまいました) 前のように普通に人のことが好きでいれて、自分の信じたことを信じれている自分に戻りたいです。どれだけプラス思考なことを考えても、本を読んでも、カウンセラーさんに話しても、頭の中にはいつもそれを否定し信じない自分がいます。どうしていいかわからずここに書いています。 本当は友達を友達と思いたいし、恋人を恋人と思いたいし、信じたいし、(欲を言えば私時自身もそう思われていたいです)遊びも前みたいに普通に楽しみたいし、自信を持ちたいし、矛盾していない言動をとりたいし、とにかく普通でいたいです。せめて自分だけは自分を信じてあげたいです。 ただ前のように戻りたいだけなのです。 テレビや普段の生活で会話している人達をみるとどのような気持ちなんだろうと思います。ふつうに話しているだけなのでしょうか、、。 乱文長文ではありますが、ここまで読んでいただいたこと、感謝しています。最期に、これだけは答えていただきたい質問があります。 (1)本来人とはどういう生き物なのでしょうか?「本当に良い人」などおらず、みんなどこかで悪い部分はあるけど隠しているだけなのでしょうか?でも中には、「本当に良い人」がいるという方もいます。それは、考え方の問題なのでしょうか?それとも口ではそう言っているだけですか? (2) 皆さんはどのようなことを基準にこの人は私の事を友達と思ってくれている、恋人に関しては愛してくれていると思うのでしょうか?また、皆さんは本当に好きな友人や恋人はいらっしゃいますか? (3) 皆さんの周りに私のような友人がいたらどうしますか。(是非正直にお答え頂ければと思います) また、私と同じような部分がある、だったり、それはおかしい、といった率直な意見をお待ちしています。わたしも今回は思うことを正直に書かせていただきました。 いただいたお返事や質問には、全て返信していきたいと思います。私が質問をする場合もあると思います。最後までメッセージのやり取りをお付き合い頂けたら嬉しいことこの上ないです。 ご回答お待ちしています。読んでいただきありがとうございました。
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- izumi044
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>自信を持ちたいし、矛盾していない言動をとりたいし、とにかく普通でいたいです。 いえいえ、人とは矛盾している生き物です。 >純粋に裏もなく良い人やただ単に性格の悪い人がいるんだとしても、その見分け方がわかりません。 オババですが、私にもそんなことはわかりません。 >どこまでするのが「都合のいい人」と思われず「優しい人」で終わるのかわからず、いつも行動しています。 こんなのは「相手の受け取り方次第」です。 相手の気分、状況、性格、その場その場で変わるものなので、むしろ、わからなくて当たり前でしょう。 質問者さんの本文を読むと、人というのは「常に同じ状態である」と考えているように思います。 しかし、本当はそんなことあり得ません。 バイオリズムなんて言葉があるように、人には好不調の波があるのが通常です。 常に同じ状態にないとわかっていれば、人の態度が前回会った時と違ったとしても「体調がよくないのかな」「嫌な事でもあったのかな」と、相手の状況に応じた判断をしようとします。 そういう判断をしないから「本当はこの人は、こんな人だったんだ」と悪く見える面を主と判断してしまうんでしょう。 こういう考えを持つ人たちって、マークシートで何点以上ならいい人みたいな判定基準を欲しがりますよね。 でも、人なんて永遠にわからないものですよ。 わかっているなら、なぜ喧嘩をするの? なぜ気持ちがすれ違うの? なぜ誤解が生じるの? 1、本来、人に善悪はないでしょうね。善悪って、自分が所属している文化に強く影響されているものですから。 所変わればで、日本ではいい人でも海外では嫌な人となることもあると思いますよ。 2、基準なんて考えません。○○してくれたら好き、○○してくれなかったら嫌いなんて、そんな行動で判断できるものじゃないでしょう? 相手の性格、相手の言動、そういうことをひっくるめてなので、基準なんて相手によって全部変わります。 質問者さんのいう「本当に好き」って、どんな状態ですか? 過去、主人に対して一緒にいるのも嫌になるくらい腹を立てたこともありますが、それでも一緒にいます。 一度も嫌いになったことがないということが「本当に好き」というのなら、私の主人に対する気持ちは「本当に好き」じゃないですよね? ですが、毎日主人には感謝しています。 3、どうもしないですね。だって、そういう気持ちをこちらに告白はしてくれないでしょうから。 素直に告白できるということならば、ある種の信頼はされていると受けとりますから、面倒くさい人だなあとは思いますが、やっぱりそれで付き合いが変わるってことはないかな。 ただ、面倒くさいと思う時には素直に口に出すと思いますよ。 (そうしないと、また1人で勝手に悩むだろうから) 質問者さんのやろうとしていることは、素っ裸で宇宙に飛び出すようなもの。 まず、出来ないことです。 それと認められないから辛いんでしょうけど、無理は無理だとある種割り切れないと、そこから抜け出すことは難しいと思いますよ。
なにか後ろめたい行為があるとそうなりますよね。私も嘘をついています、とかそうです。 また、悪口を面と向かって言う人がいれば、その人はストレートな性格で裏表のない人です。矛盾しているように聞こえるかもしれませんがね 1)完全に良いだけの人も完全に悪いだけの人もいないのでは?それは、他人への接し方と家族への接し方に違いがあるというだけの違いです。ネガティブな部分だけ見ても、もしそれだけしかなかったら他の人にも平等し接しているはず。素であるだけでネガティブではないことになります。その逆の場合は、裏と表があるので相手の裏(自分に都合の悪い面)ばかりを見ないことで済むかと思います。 2)誘いやお願いに付き合ってくれるかどうか。遠慮していないかどうか。自分に利益があるかどうか。 3)距離を置くか放置しておきます。
あなたは自分自身のことが嫌いなんですね。自分は駄目な人間だと思っている。 そしてそのことがとてもいやなんですね。 自分が駄目な人間であること自体がいやであると同時に、人からそう思われることもいやだ。 いやであるからこそ、人がどう思われているかが気になる。駄目な人だと気づかれたくないから表面だけいい人に見られるよう一生懸命になる。 自分が駄目な人間だと思っているから、人の好意が信じられない。 自分が駄目な人間だと思っているから、自分自身のことも信じられない。 でもそれはとてもつらい。自分も他人も信じたい。信じたいけれど信じられないからつらい。 現在のあなたの状況はこんなところでしょうか。 あなたのつらさの根源にあるのは自己評価の低さでしょうから、これを解消する必要があるのだと思いますが、私の個人的な感覚で申し上げれば「自分を信じたい」などとはあまり思わない方がいいような気がします。ハードルを高く設定しすぎているような気がします。 それよりも「いろいろ欠点があるけど、こういう自分でいいや」と思えることが大切でしょう。いわゆる自己肯定感というやつですが、この感覚が持てるようになるとすごく楽になります。 この自己肯定感というのはある種の「思い込み」です。 あなたが自分のことを駄目な人間だと思い、他人の言動にすべて裏があると思ってしまうのが思い込みであるのと同様に、自己肯定感もある種の思い込みです。 だから、現在のいやな思い込みを捨てて、新しい思い込みを自分に植え付けてしまう必要があります。 私の場合、あれこれ本を読んで勉強し、それを実践することでそう思い込むことができるようになりました。「私は私のままでいい。私はすべての人に好かれている。太陽は私のために輝いている。この世界は私のために存在してくれている」なんて日々唱えていたら(これも本で学んだ方法ですが)、ある日突然そう思えるようになったのです。 「今の自分でいいや」と思えるようになると、他人の言動や視線も気にならなくなります。 「自分は駄目な人間だ」と思い、「こんな駄目な人間でいてはいけない」と思うから、他の人の言動が気になるのです。そこから抜け出せると、自分を他者がどう思っているかについて細かく気にする必要がなくなります。自分で自分を「まあいいや」と思えているので、人に嫌われないように一生懸命になったり、嫌われているのではと気にしたりする必要がなくなるのです。 自分も他人もだいたい同じで、みなたいしたことはない、という感覚が持てるので、そういう他人の中に自分を嫌う人間がいても当然だと思えるようになります。 自分を認められるということは、自分の判断を認められるということでもあるので、例えばあなたが書いていらっしゃる「どこまで素直になればいいのか」ということについてもその都度自分で適当に決めることができます。 この場合の「適当に」というのは「ちょうどよく」という意味も含みますが、「行き当たりばったりに」「そのときの気分や感覚で」といった意味でもあります。 つまり、「ここまでは言おう」「これは出さないでおこう」といった判断を、その都度そのときの感覚で決めてかまわないと思えるようになる、ということです。 他人の言動に対しても同様です。はっきり意識しているわけではありませんが、その場その場で適当に「この話はひとまず信用しよう」「これはちょっと疑いながら聞こう」「この人はなんとなく信用できそうだ」「この人はなんとなく怪しい」と判断しているのだと思います。 それが間違っていても問題はありません。間違えていたと思ったら判断を変えればいいのですから。 あなたは「矛盾のない言動を取りたい」などと書いていらっしゃいますが、そんな馬鹿馬鹿しい(失礼)ことを考える必要もなくなります。前と違うことを言っていても、今はそう思っているならそれでかまわないわけです。「それ前に言ってたことと違うじゃん!」と言われたら「そうだっけ?」とか「いやあ、前は前でそれが正しいと思ってたんだけどね」などと返して平気でいられるようになります。「ほんと言うことがころころ変わるんだから」なんて言われても、それで笑いあって続いていく人間関係だってたくさんあるし、それで駄目になる人間関係ならそれはそれで仕方がないのです。 とはいえ、この「適当に」というのは、みんなから嫌われるようなことを敢えてするとか、わがままばかり言うとか、他人はどんなに不愉快になっても自分だけ得をすればいいとか、そういうことではありませんよ。 自分が心地よく過ごすためには相手も心地いい方がいい。相手が不愉快そうだと自分も楽しくない。人と接するときはたいていそうでしょうから、それなりの配慮はします。もちろんそれもその場その場の判断で「適当に」するわけですが。 以上が私の感想ですが、何かお役に立てたでしょうか。 それと、ご質問に対する答えですが、まず(1)は愚問としか思えません。「ほんとうに良い人」がいるかどうかなんて、考えるのも馬鹿馬鹿しい(再度失礼)ことです。小説の登場人物ならともかく、現実の人間に「ほんとうに良い人」「ほんとうに悪い人」なんているわけありません。だいたい「良い」「悪い」なんて判定しようとすること自体傲慢です。 もちろん「あの人はいい人だなあ」「あいつほんといやなやつだな」などと感じることはだれにでもあるでしょうし、当然私にもありますが、それは飽くまでその人の個人的で「適当な」感覚に基づいてそう思っているだけであって、そういう意味では利己的であり、そして利己的であってまったくかまわないわけです。 あなたが誰かを「いい人だなあ」と感じた場合、それは何らかの意味で必ず利己的なものになります。その人のことを考えるとうれしくなるとか、その人と一緒にいると楽しいとか、その人を目標に自分も頑張れるとか、いくつか例を上げましたがみんな利己的でしょう。それはそれでまったくかまいません。 そして、あなたの周りの多くの人もその人のことを「いい人だ」と言っていれば、あなたの世界の中ではその人は一般的に言う「いい人」だということになります。 しかしそれはあなたとあなたの周囲の人の見方であって、そう思わない人も当然いるでしょう。 また、その人についてのすべてをあなたは知っているわけではないので、その人が純粋に「いい人」かどうかの判断なんてできませんし、そんなことを考えること自体無意味です。 また、当然ですが当人自身も自分が「いい人」かどうかなんて判断できません。 誰も誰かを「ほんとうにいい人」「本当に悪い人」なんて判断できないし、ということは同時にそんな人はどこにもいないということなのです。 (2)のひとつめについては、一定の基準など存在せず、その時々の「適当な」判断に任せる、というのが答えになります。例えば「私といるときになんとなく楽しそうだ」「ときどきお酒に誘ってくれる」というようなことがあれば、自分をそれなりに気に入ってくれているのだろうなと思います。もちろんそれは私の勘違いかもしれないのですが、それは考えても仕方がないこと、わからないことなので、自分の判断に任せているわけです。私といるときは楽しそうにしていても、他の人といるときは私のことを「あの人のこういうところが困るんだよねえ」などと言っているかもしれませんが、それも考えても仕方がないことだし、そうだとしても、私といるときには楽しそうに見え、そして何より私自身が楽しければそれでいい、ということになります。 (2)のふたつめについては「本当に」の意味がわからないのでお答えできません。「ものすごく」とか「とっても」だったらわかるし、その場合の答えは「いました」になります。 (3)についてですが、まず「友人」という設定なので、何かしらあなたに好意を持っているということになりますよね。 たとえばあなたがここで書いたようなことに対して悩みを打ち明けてきたとしても、そういうあなたに何かしらの好意を持てているのであれば私はあなたの悩みを聞くでしょうし、質問されれば答えられる範囲で答えるでしょうし、誘われれば遊びにも行くでしょう。 ただ、あなたを好きな気持ちより、あなたを重荷に感じる気持ちの方が大きくなれば、そのことはあなたに伝えるでしょうし、それが理解してもらえないなら、距離を置くかもしれません。私はそういうことに対する耐性が低いのです。 最後にこれだけはお願いしたいのですが、くれぐれも自殺だけはなさらないで下さいね。今の悩みから抜け出す道はきっとあるはずなので、それを探る努力をしてみて下さい。 ご不明な点などありましたら補足をつけて下さいね。それでは。
- neruran
- ベストアンサー率16% (2/12)
貴方と言う人物を形成して来た貴方の人生は、貴方にしか分かりません。 その何所に問題があったのかも貴方にしか見付けられない事です。 ですので、リンク先の本を読んで何所に問題が有るのかご自分で探された方が宜しいかと存じますよ。
- HeyXey
- ベストアンサー率26% (134/498)
こんばんは。50代の男性です。いい歳のオトナです^^;。 読ませていただいて考えたのは、「この人は自分の中にあるエゴを受け入れられないのではないか?。だから他者の中のエゴ的な部分(表面的な言葉の裏に隠された多少の打算 や利己心)を許せないのではないか?。というものです。僕も正真正銘の“やさしさ”や慈善で生きてはいません。だって、正しいオトナのスタンスとは、「まず自分のことを大切にし、余裕があれば他人にもやさしくする」だからです。だから、あなたに優しい誘いの言葉をかけてくれる人は、たぶん余裕のある人なのです。 「私は人に好かれる人間である」 「私は正しい人間である」 「私は価値のある人間である」 きっと誰もがそう思いたいと願っています。…それが“自己重要感に対する欲求”です。人間が社会的動物である証拠です。しかし、この欲求を単なる“エゴ”と片づけてはいけません。なぜなら、言葉を変えれば、「自分の人生には意味があってほしいという願い、に通ずる欲求だからです。なんと健気な願いでしょう。 学校や職場での何気ない会話、お昼休みのひととき、私たちはお互いの存在を認め合い、お互いの自己重要感を知らない間に満たしているのです。それがない学校や職場であれば、残念ながら人は去っていくことでしょう。 自分の中にそのような欲求があり、それを当然のこととして受け入れている人は、他人の中にそのような欲求のカケラや影を見つけても、「当然のことである」と心の底から考えることでしょう。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
hdm11177111さん、こんばんは。 このサイトではなく、精神科の先生にもこの文章における内容を説明してはいかがでしょうか?もっと端的に専門的な回答を得ることができると思います。それからこの文章からあなたはずいぶんと自己分析能力にたけていると思います。
- sp550uz
- ベストアンサー率49% (544/1091)
かなり冷静に自己分析が出来ているように思います。変と言えば変ですが、誰も皆少なからず、そのような猜疑心(さぎしん)を抱いていると思いますよ。先述の回答にもあるように、確かに「若かりし頃のジレンマ」的なものもあるかもしれません。 読み進んでいくうちに、ふと、太宰治の「人間失格」を思い出しました。「太宰的な思考」と言えばいいのでしょうか。排他的というか刹那的というか、「自分で自分が分からなくなる」とか「自分自身がイヤになる」という感情に、太宰も度々悩んでいたようです。昔の文体ですので多少読みにくいかもしれませんが、機会があったら、是非ご一読下さい。他人が書いた文章ですから、(他人の目から見た自分自身を)客観的に見ることが出来るでしょう。 回答(1)自分が良い人だと思うのは「法的な犯罪を犯さない全ての人」ですね。なので、大概は皆良い人です。他人に対する同じような親切行為でも、人によっては良い意味で「世話好きな人」だったり、悪い意味では「おせっかい(余計なお世話)」だったりします。性根の悪い部分は、自分にもあります。でも、善悪の分別が自分なりにあるので、その部分を言動に出すことはありません。心の中で思うのは、犯罪じゃありませんからね。ご質問文頭の「本来人(人間)とは・・・」という回答は、本当に難しいです。ある意味、宗教的な論点になる恐れがあるので、明確には答えられません。すみません。 回答(2)愛おしい間柄である確証は「ダメなものはダメ」と、一貫して言える関係の事かな。友達同士でも、悪行を叱ってくれる人の方が、真意で「友人」だと思います。子を叱るのは、親の愛です。たとえ嫌われようとも、「ならぬものはならぬ!」と言わなければいけない部分が多々あります。でも、たまに、私の考え方が間違っている場合もあるようで、その時は、妻や子が言ってくれます。意を決していってくれた言葉ですので、それには反論せず「そうか。そういう考え方もあるのか。」と納得します。 回答(3)ただ単に「そういう人もいるよね。」と思うくらいかな。自分自身、人見知りで心配性の気があるので、分からなくもないです。客観的に「ちょっと重症かなー」とは思います。簡単に言えば「考えすぎ」かな、と。他人って、自分が思っている以上に自分(貴方)を見てないものですよ。皆、自分のことで精一杯って感じでしょうかね。面白い(といっては失礼かもしれませんが)思考の持ち主なので、居酒屋でグダグダと論議を交わしたい相手ではあります。別に「考え方を更生させよう」というのではなく、思っていることや考えていることを、目一杯聞きたいですね。小説家の自叙伝を見ると、(ケータイやスマホが無い時代なので)同志が集まって六畳一間で酒を飲みながら延々と意見を交わしあった」という場面が多々出てきます。多分、私はキミを酒の席では「太宰君」と呼ぶでしょう。 長文陳謝。先にも書いたけど、君は客観的な自己分析が出来ているし、十分な文才もある。他人の目や思考が通常の人より気になるあたり、ある意味「人間観察に長けている」という特性があるように思う。ひょっとしたら、本質的に文筆家向きの才能があるのかもしれないね。
- aneq
- ベストアンサー率16% (145/868)
(1)本当に良い人とは、世の中のすべての人に対して親切な人のことではありませんよね。本当に良い人は、本当に良い人に対して親切にする人のことで、悪人や怠け者やずるい人間や愚かな人間に親切にするのはダメな人だし、悪い人に毅然と厳しい態度がとれてこその良い人ですよね。 世の中に本当に良い人はいるのかと考える以前に、良い人の目から見て、自分は誠実に関わろうと思ってもらえるだけの価値ある人間かどうかを考えなくちゃいけません。 (2)友達は、相手が私をどう思っているかとか、相手が私に何をしてくれるかということじゃなくて、私がその人のことが大好きで、その人のためにならできることは何でもしてあげたいと思っている人が友達です。 それと、友達のことは常に100%の好意と善意と思いやりをもって大切に付き合っているし、友達として魅力的な人間であろうと常に努力しているので、友達から好かれていないんじゃないかなんて疑う理由も必要性もありません。 (3)この質問文を読んだ限りで言えば、あなたが近くにいても、私はあなたと友達にはなりません。私とあなたの友達になったとして、あなたにメリットはあるでしょうが、私には何一つメリットはないと思うし、それに、いい人間関係を築くには、不要な人間関係は排除すべきだからです。 それから、人に嫌われることを恐れていたら、人にあわせてコロコロ自分を変える自分がない人になってしまうし、自分がないならいてもいなくても同じ、存在価値もない人になってしまいます。人にどう思われるかを気にして自分の言動を変えるんじゃなくて、人にどう思われようと自分が正しいと思う言動をする人間にならないと、本当の意味で人間関係を築くことはできませんよ。 この文章がすべてじゃないでしょうし、あなたにもきっと素晴らしいところがあるんだと思うけど、今のままでは、あなたが仲良くしたいと思うような素敵な人は、あなたと仲良くしたいとは思わないと思いますよ。 性格は簡単に変えられませんが、ものの考え方は、学べばその瞬間から変えられます。ポジティブ発想になるための本を何冊か真剣に読んでみて、その通りやってみたらどうですか?
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11077/34523)
それは自我の目覚めってやつですね。だいたいの人が多かれ少なかれどこかで通る道です。ただ一般的には10代半ば頃の多感な時期に反抗期と共にそうなる人が多いと思うので、少し人より遅れているのかなというのはあります。 端的にいやあ、「汚れた大人なんかになりたくない」ってやつなのよ。誰もがそう思う時期があるのです。今はすっかり世事に汚れたこのワタクシも、17歳くらいの頃は「汚れた大人になんてなりたくない!」と思っていたものでした。 そしてその質問に、答えはないのです。「誰に聞いても正解を教えてもらえない、答えのない問いにどうやって自分自身の中で折り合いをつけるか」が大人になるということでもあるのです。 子供の頃って、どこかに答えがありました。聞けば親なり先生なりが教えてくれたのです。でも大人になるってことは、誰も答えを教えてくれないってことでもあるのです。だってそうだよね、自分が大人になれば今度は子供から聞かれる立場になるのだから。
- pipipi911
- ベストアンサー率22% (1029/4602)
泣きをみたくないという感覚から過度、過剰な自己防衛心が 働いているのではないでしょうか。 猜疑心、被害妄想、関係妄想や隠れた期待心などもあるようですし、 統合失調症に近いような雰囲気を感じますね。 私は、来る人は拒まず、去る人は追わずのスタンスなのですが それで、幻滅させられたり信頼性を失わなければならかなった というような事は一切ありません。 別の病院で、診察を受けてみることを 御勧めしたいですのですが、ドクターが メイクマネーを目的としているというような邪推が 働いてしまうようでしたら、そちらの地域の 心の健康センターか、保健所か、保健センターを訪れて 相談してみませんか。無料ですし、親切に対応して くださいます。 小さな成功体験を積み重ねて、自信を深めながら、 少しずつで宜しいので、自己信頼を高めるように しませんか。 なお、お礼等は不要です。