• ベストアンサー

昔の人は、どうやって暇な時間をつぶしていたのですか

昔の人は、どうやって暇な時間をつぶしていたのですか?もしくは、現代のように生活に余裕がなくて、そもそも暇な時間はなかったですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224207
noname#224207
回答No.10

一日のうちで暇なときにどうしていたか、ということはどうやって遊んでいたかという問題に繋がります。 PCゲームで時間潰しをするのと同じようにゲームに相当するものは沢山ありました。 正倉院の御物などにも沢山遊具が残されていますので、それで遊んでいただろうと思われます。 囲碁や将棋は平安時代には既に知られていました。 蹴鞠は大化改新の切っ掛けとなったことでも有名なように古くからありました。 お雛様の道具に貝桶というのがありますがこれは貝合わせという遊びに使う貝殻を入れていたものです。 双六も古くからありましたが、現在のものとは違いどちらかというとバックギャモンのようなものでした。 白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたように古くから知られていました。 賽子がありましたので、当然博打はありました。 手鞠、お手玉、折り紙、凧揚げ、などは平安時代には既にありました。 庚申講と呼ばれるものが階級を問わずにありました。 元々は仏事ですが、そんなことにはお構いなく、60日毎に皆で集まって徹夜で飲み食いしていました。 TVを見て暇つぶしをするのと同じように歌舞音曲を楽しんでいました。 絵巻物というのは、単に絵が連なって描かれているのではなく、少しづつ巻き取りながらワンシーンづつ眺めて楽しんでいたものです。 いわばアニメの元祖です。 一年を通じてということになりますと、頻繁に行事がありました。 今でも沢山残っています。 お正月、七草、節分、ひな祭り、端午の節句、お彼岸、七夕、お盆、お花見、お月見など沢山あります。 現在も宮中ではこれに加えて沢山の行事があります。 1月1日 四方拝(しほうはい)、歳旦祭(さいたんさい) 1月3日 元始祭(げんしさい) 1月4日 奏事始(そうじはじめ) 1月7日 昭和天皇祭(しょうわてんのうさい) 1月30日 孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい) 2月17日 祈年祭(きねんさい) 春分の日 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、春季神殿祭(しゅんきしんでんさい) 4月3日 神武天皇祭(じんむてんのうさい)、皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら) 6月30日 節折(よおり) 、大祓(おおはらい) 7月30日 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい) 秋分の日 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)、秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい) 10月17日 神嘗祭(かんなめさい) 11月23日 新嘗祭(にいなめさい) 12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら) 12月23日 天長祭(てんちょうさい) 何時の時代でも上流階級とうのは行事に参加することが仕事のようなものですから毎月結構やることがあったということです。 江戸時代に入って世の中が平和になりますと、各神社やお寺がそれぞれに理由をつけて祭礼を行っていました。 江戸時代最も暇な階層は武士でした。 藩政に参画して忙しい人は極僅かな人達だけで、後は精々月に二三度登城するだけでした。 お城の宿直当番などは、当直者どうしがお弁当を持ち寄って楽しんでいました。これが立派な仕事です。 お酒も酔わなければお目こぼしでした。 参勤交代で江戸へ出れば忙しいのはお殿様だけで後の御家来は帰国までやることがありません。 仕事は江戸屋敷勤務の専任者がやっていました。 単身赴任ですから相当に暇です。 せっせと江戸見物に出かけていました。 どこそこの女郎は高いの安いのと申し送り書までありました。 何時の時代も国民の大多数を占めていた農民は、季節ごとの農作業におわれて上流階級ほどには暇な時間はありませんでした。 とは言え、民謡などが現代にも伝わっていますように、それぞれ歌舞音曲を楽しんでいました。 現在でも村芝居や神社の奉納御神楽、盆踊りなど伝統芸能として残っています。 完全にマスターするには稽古が欠かせません。 このお稽古も一つの暇潰しであり楽しみです。 更にこの農村を渡り歩く、芸人がいました。 この人達は全国を渡り歩いていますので、芸を披露するだけではなく、定住者である農民にとっては貴重な情報源でした。 芸や噂話を楽しんでいました。 とまぁ~何時の時代でもどの階級でも暇潰しにはいろいろ知恵を絞っています。 中にはロクデモナイことをやる輩がいますから「小人閑居して不善をなす」などという言葉が残っています。 不善はまずいのでエッセーなどを暇にまかせて書いてい人もいました。 有名なのが兼好法師の徒然草です。 「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、・・・」などと呑気なことを言っています。

noyyon900
質問者

お礼

昔の人が、なにかと考えていろいろなことをしていたのが分かると面白いですね。ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (9)

  • mimazoku_2
  • ベストアンサー率20% (1905/9113)
回答No.9

昔の人に暇な時間はありません。 あらゆるものがアナログだったので、全て自分で行わなければなりません。

noyyon900
質問者

お礼

なるほど。。ご回答ありがとうございました。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1499/3651)
回答No.8

江戸時代になると、多少暮らしに余裕が出てきた中流以上の人々は趣味を持つようになっていきます。 囲碁・将棋の類から音楽(歌舞音曲)、俳句・川柳・和歌などの文芸、和算、釣りなどさまざまです。 落語の「寝床」は素人浄瑠璃に熱中した店の主人が、店の仕事が終わった夜に奉公人に得意になって聞かせるので、奉公人が寝られなくて困る話ですが、実際にそういう趣味が流行していたからこそ成り立った落語であるとも考えられます。(式亭三馬の「浮世風呂」にも「義太夫のけいこ所の女房」が登場します。) そうした趣味がどれだけの広がりがあったか一例をあげれば、例えば川柳は広く一般から句を募集した中から選者が優れた作品を選んでいますが、寄せられた句の数は多いときには1回で1万句を超え、2万5000句にも達したと言われています。句を投稿したのは町人だけでなく武士(地方の武士で江戸屋敷詰めの者を含む)も大勢いました。 また和算では和算の問題と解答・解法を書いた算額と言われる絵馬を寺社に奉納する習慣がありました。現存している算額の数だけでも一千枚に近く、最も多く残っているのが福島県であるように、都市部だけでなく田舎にも和算の愛好者が多数いたことがうかがえます。これは、地方を巡回してその土地土地の和算好きにその能力に応じた問題を与えて解かせた上で、再び訪れて指導する旅回りの「和算の師匠」がいたので可能になったとも言われています。 俳句でも例えば「奥の細道」などの行程で芭蕉の一行は、各地で門人や俳句好きの富裕な人たちに歓待されたことがわかります。江戸・大坂・京の三都だけでなく、日本全国に様々な分野で文化を広めた地域の指導者が大勢存在したということになります。 18世紀初めの享保4年に朝鮮通信使として来日した申維翰は、「海游録」の中で大坂に何軒も書店があり、中国や朝鮮の書物も多数売られているのを見て驚いたと記していますが、こうした出版の発達にも支えられた江戸時代の文化的な蓄積には侮れないものがあります。 前述の「浮世風呂」にも「合巻とやら申す草双紙(絵入りの短篇小説)が出るたびに買う」子どもの愚痴を言う母親が出てきますが、「暇な時には何をしていたか」を考える上での一助にもなります。

noyyon900
質問者

お礼

江戸時代には、勤勉な人が多かったんですね。改めて歴史は面白いものだと思いました。ご回答ありがとうございました。

回答No.7

ヨーロッパのほうで4万年くらい前の文化で、石や骨を彫った彫刻やら小物やらが見つかっているようで、当時は氷期で寒かったので、夜は火を焚いて物語でも語りながら、そのようなものを彫っていたのではないか、などと想像されますね。 人類の歴史を振り返ると、一般的に、温暖な気候だとだらだら惰眠を貪るが、寒冷な気候だと暇をもてあましてか文化が花開く、という面があるようです。

noyyon900
質問者

お礼

そのような傾向があるんですね。ご回答ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.6

 これは、質問者さんの「昔」に入るかどうか知りませんが、暦の上の時代より政治経済の形態の違いに意味があるのではないかと思います。  一口に言って分業制が発達していないので各個人がすべてをやるので、時間がかかり、暇がない場合が多かったのではないかよ思います。  僕個人の経験では、1940年代、「天ぷらを食べたい」と祖母に言ったところ、以前何かの貸しが有った知人に樫の実をもらいに行きました。  それを蒸して、粗挽きにし、油をとり、鍋の底にしいて天ぷらを揚げてくれました。かかった時間が丸半日です。  蕎麦にしても、収穫した蕎麦を日に干し、石臼で挽き、篩にかけ、大きな板の上で練り、打ち、包丁で刻み、沸かした湯で湯がいて、蕎麦玉をつくる。  蕎麦だけでなく、醤油も、味噌も、梅干しも、鰯の味醂干しも自分の手で作り、僕はそのエネルギーと物作りの知識に圧倒されました。  今と比べると「暇な時間」はあまり無かったのではないかと思います。 

noyyon900
質問者

お礼

そもそもひとつの作業に対して、現代よりもかかる時間が多かったんですね。聞けて良かったです。ご回答ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.5

江戸時代など識字率が上がり、下女が暇なとき本を読んでたなどという話が外国で驚かれています。勤勉な人などは暇なときも草鞋や筵を編んでいたのでしょうね。 時代にもよりますが江戸時代などは仕事不足の人余りの時代ですから絵を描く、句を詠むなど人それぞれ貧しいなりにも余暇を楽しんでいたと思われますよ。 まあいつの時代も人それぞれですよ^^

noyyon900
質問者

お礼

なるほど。。ご回答ありがとうございました。

  • 4017B
  • ベストアンサー率73% (1336/1814)
回答No.4

漠然と平安~江戸時代の間と申しましても、794年から明治元年の1868年までの1070余年もの長き年月になります。1000年間ですよ?それこそ何も無く焚き火の周りに寄り集まって皆で歌を歌い手を繋いで踊るレベルから、休みの日に朝からおめかして繁華街へ出掛け木戸銭を払って妖艶な魅力を醸し出す美青年女形の歌舞伎を観劇するレベルまでピンきりですね(笑)。 P.S. よく「昔は食うだけで精一杯で遊ぶ暇など無かった」と言う人がいますが。それこそ毛皮に石斧でマンモス追い掛けてた原始時代から人間はとにかく遊ぶ事ばかり考えていて、洋の東西を問わず遺跡などからも生活に直には役に立たない娯楽道具がいっぱい見つかってます(サイコロや双六、上司の悪口を書いた落書きなど~実に様々な物が見つかってます)。今も昔も人間は遊んで暮らす事しか考えてません。

noyyon900
質問者

お礼

1000年は長すぎました・・・踊りから歌舞伎まで見ていると、人間は遊ぶことをずっと考えていたんですね。ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34534)
回答No.3

電気もガスも使わないキャンプ生活ってのをしたことがあります。それをやってみると分かりますよ。 朝起きたら竃に火を起こして朝食の用意です。朝食を食べて、後片付けをしたらもう昼食の用意に取り掛かるような感じです。スイッチひとつで火がつかない生活だと、腹が減ったから飯の支度をしても遅いのです。それで昼飯を食って後片付けをしたらもうぼちぼち夕食の用意だなって感じです。電気がないので、日が沈んだらもうほとんどやれることはありません。後はもうセックスして寝るくらいです・笑。 その飯の合間に掃除機を使わないでの掃除やら、洗濯機がない状態での洗濯やら、畑仕事やらなんてやったらもう暇な時間なんてほとんどないですよ。ただ、日が沈んだ後の時間は暇といえば暇ですが、灯りがないからほぼ何もできないし、日中は食事の用意ひとつも肉体労働だから結構クタクタです。他にやることがないから、昔は子だくさんだったんですよ。 ただ、王侯貴族の人たちはそういう世話はすべて下僕にやらせればいいので、暇です。だから貴族の人たちは和歌を詠んだり乱痴気パーティーをしたり、学問をしたり狩りに行ったりする文化活動をしたのです。

noyyon900
質問者

お礼

暇な時間は、豊かだからこそ存在できるものだと改めてわかりました。ご回答ありがとうございました。

回答No.2

スワヒリ語に「テンベア」という単語があります。 日本語にすると、「ぶらぶらする」という意味ですが、 決して悪い意味ではなく、町で無為にたむろしている 知人に出会って「何をしている?」と聞くと、悪びれる 様子もなく「テンベアしてる」と答えるので驚いた。 自給自足で自然環境と調和して暮している時に、過剰な 動きは自然のペースを乱す悪なのだ。

noyyon900
質問者

お礼

ゆったりすることそのものを楽しんでいるということでしょうか。ご回答ありがとうございました。

回答No.1

昔とはいつの時代の事ですか? どれくらいの年齢の人についてですか? 生活にそこそこ余裕のある人とか、生活レベルはどれくらいの人についてですか? なんか質問があいまいすぎて、答えられないです。

noyyon900
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noyyon900
質問者

補足

申し訳ありません。補足いたします。時代は平安時代から江戸時代まででお願いします。年齢は特には決めていませんが、若者から中年までとします。身分は、中流層ぐらいの人でお願い致します。

関連するQ&A