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食べれなかった時代があった方いますか
よくテレビや人の話で食べるものがなくて同じものを食べ続けたとか、おかずがなかったとか、野草を食べていたとか苦労話を聞きますが、精神的に相当辛かっただろうと思います。 私はまだそういう経験をしたことがなく、聞いただけで恐ろしくなってしまいます。 ダイエットで食事を少なくしたり抜いたりとかはありますが、それとはまた違うと思います。 どんな気持ちを持てばそういう辛い時期を耐えられるのでしょうか。 試しにパスタだけ生活や白米と漬物だけ生活をしてみたことがあるんですが、貧血になって白い光が見えたり、気分が悪くなって立てなくなったりしました。 貧しかった時代を笑って話してくれる人がいますが、常にそんな辛い思いしてたってことですか?そう考えると貧乏エピソードって全然笑えません。ぞっとしてしまいます。
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- qwezxcasd
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雑草を食べるくらい貧乏ではなかったのですが 小学生のころ母が入院して、お金もなくて 小屋でかっていた鶏の卵がごちそうでした。 小学生は給食ですので、あまり周りにはわからないのですが 中学生からのお弁当は、前日の残りもの一品ですので 隠れて食事をしていました。つらいのではありません。 今考えると恥ずかしかったのだと思います。 何かで勝つことで(私の場合は勉強で) それを乗り越えました。 高校へは行かせてもらえたので迷わず工業高校へ進みました。 大学へ進学した同級生より成績が良かったことが その後の自分の生きがいとなっていますし それなりの生活ができていると思います。
還暦過ぎのオジサンです。 私が中学3年の時に実家の自営業が倒産しました。詐欺にかかったのです。父は破産宣告まで受けた。 母が知り合いという知り合いからの借金して生きることだけは出来ていた状況です。でも年末には借金取りが押し寄せた。布団に包まって死んだふりして天井を眺めながら除夜の鐘を聞いたのもそんな年の年末です。勿論お正月の飾りなんて何もなし。あの時から『紅白』って見た事がありません。あれを見ると、どこかで布団に包まっている人がいることに思いが馳せます。 食べるのはご飯にお醤油やソースをかけただけ。お米だけは従弟の所から頂けました。当時お釜で焦げたご飯をアツアツの内にお醤油を掛けて握ってくれたあのおにぎりの味は今考えても最高に美味しかった。春には川の土手で土筆を取って来てお醤油で煮て食べたものです。今でもおこげのお醤油掛けには挑戦していますが、おこげが出来ないのが決定的。未だにおかずよりご飯が好きなのはあの時代の所為なんでしょうか。ご飯とお醤油かソースさえあれば美味しくいただけます。卵でもあればご馳走です。女房は良い顔をしませんでしたが。(笑) 母は私たち兄弟に「この貧乏から抜け出すには勉強するしかないんだ。」って耳にタコが出来るくらい言われました。お蔭で兄弟とも大学には行けた。でも、その学費も勿論借金。私が世話になっていた(借金もしていた)お医者さんから「この貧乏町を出て行ったら〇〇電車でなんか帰って来るなよ。ベンツで帰って来い。」と言われたのもそんな時です。大学を出て兄弟で仕事をはじめ、何とか借金は返しました。その時の母のホッとした顔は忘れられません。私がベンツに拘って乗っているのもそんな事情なんです。田舎の友人に「なんでお前にみたいな奴(堅実派ってことでしょう)がベンツなんだ?」って聞かれた時も、この話をすると納得してくれます。レグザスでもベントレーでもポルシェでもダメなんです。(笑) ですから、私の一番嫌いな言葉は『若い頃の苦労は買ってでもしろ』って苦労のなんたるかも知らない大バカが口にする言葉です。私の前でそういうバカがこの言葉を口にすると、「おお、いつでも買ってきてやるわ。売りたい奴はなんぼでもいるからお金を用意しておけ!」って言ってやります。何にも言えませんね。(笑) 未だにお風呂では中島みゆきの『時代』が口を突いて出てきます。あの歌は大好きです。 「女房・子供にはあんな苦労はさせたくない」の一心で今まで来ました。お陰様で娘は苦労知らず。それで良いと思ってます。今日も友達とエステに出掛けて行った。「元を考えれば無駄だろ!」とは口が裂けても言いません。(笑) 明日はその母の三十三回忌です。お金の心配もなく供養が出来ることを喜んでくれると思っています。もう弟も鬼籍ですから、義妹と娘を伴って法事の後にはステーキを予約しています。これも供養の内と思って。
お礼
回答ありがとうございます。 大変なご苦労をされたのですね。回答者さまほど社会で成功を修めたわけではないですけど、父のことが頭に浮かびました。年末に紅白を楽しい気持ちで見られる人ばかりではないんですね。 豊かになってもしゅうゆやソースをかけたごはんや卵かけごはんのおいしさを忘れないでおられるのが素晴らしいと思います。 たくさんの人をしあわせにしたんですね。
>精神的に相当辛かっただろうと思います。 辛いと感じるのは、 イ)今まで食べていたものが食べられなくなった時です。 ロ)他人が食べていて自分が食べられなかった時です。 イ)は昭和20年以降の日本の状態です。 昭和20年以降に生まれた、現在団塊の世代と呼ばれている人達は、食べるものが現在の目から見れば乏しいものですがそれが日常ですので、苦労とは思いませんでした。 前の時代を知りません。 バナナやパイナップルなど見たこともありませんから、食べたいもなにもありません。 野草を食べていたという話も、現在からみればとんでもないとなり、よくあんなものを喰っていたと笑い話になりますが、当時はそれが普通の食べ物ですから違和感はありませんでした。 辛かったのはそれよりも上の年代です。 今まで見向きもしなかった野草を喰わなければならないのどすからこれは相当に辛いです。 大人になっていれば、止むを得ないと納得できますが子供はそうはいきません。 その子供達に食べさせるために親は夜昼なく働き続けました。 上野の浮浪児という言葉をお聞きになられたことはありませんか。 空襲で親兄弟を無くした子供たちが上野駅の構内で寝泊まりしていました。 小学生であれなんであれ自分で食べられるものを手に入れる以外に方法がありません。 社会全体に余裕がなく、大人も自分や自分の子供に食べさせるだけでやっとです。 浮浪児も空襲前までは親がいて何不自由なく食べさせてもらえていました。 これは相当に辛いです。 目に入るものは何でも食べ物に見えて犬の糞を喰って死んだ子供もいます。 こうやって生き延びた人達は笑い話などにはしません。 「お腹が空いた」のと「ひもじい」とは全く別です。 ダイエットで食事を抜くのと、犬の糞に手がでるのとの違いです。 ロ)は昭和初期の農村部とくに貧農層で起きていました。 自分で作った米が自分の口には入りません。 同じ村内で裕福な農家は極普通に食べていました。 弟に食べさせるために姉が身売りしました。 弟も成人すれば、米の飯が三度三度食べられるというだけで軍隊へ志願しました。 これが「いもじい」という状態です。 こんな話も経験者は絶対に笑い話にはしません。 就職列車という言葉を聞かれたことはありませんか。 1955年~1960年代に、中学校を卒業しただけで都会(主として東京)へ働きにでる子供達を運ぶ団体列車です。 全く身寄りも知り合いもない都会で一人で働きました。 できることといえば文字通りの下働き使い走りです。 都会(東京)の同じ年の子供を横目に見ながら重い荷物を持って街中を走り回っていました。 お金を持っていませんから、雇い主が用意した食事しか食べられません。 この空腹も相当に辛いです。 この集団就職した人達が昭和の高度成長の文字通り土台となった人達です。 社会的地位を手にした幸運な高齢者以外は当時を笑い話にはしないでしょう。 戦後復興期には石炭が国内で手に入る唯一の燃料でした。 この石炭を炭坑で手作業で掘り続けていた人達もいました。 一度坑内へ降りれば迎えの炭車は時間まできません。 労基法など有名無実の時代でした。 などなど、「ひもじい」思いをした人達は身の回りにいくらでもいます。 別にお薦めはしません。 お好きなものをお好きな時間にお好きなだけ食べてください。 そうなることを目指して「ひもじい」思いに耐えてきました。 このような人達の汗と涙の努力を無駄にしないで下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 空腹とひもじいは違う… まさにその通りなのだと思います。 ダイエットの空腹が辛いとか言っていた自分が馬鹿らしいです… 今の自由と豊かさに感謝ですね。 今まで食べられていたものが食べられなくなるのはきついですね。 今野草しか食べるものがないという状況になったら、耐えられるのかと思ってしまいました…
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
こんにちは。 現代は飽食(豊食?)の時代・・・いいですねぇ。 私は、とっくに還暦を過ぎていますが、農家の生まれでした。 父親は早く死にました。 長男が後を継ぎました。長男と私は何と18歳も違いました。 家族構成は、 私の母、長兄、長兄の嫁、私の姉、私の次兄、長兄の子ども3人、下男1人、下女1人。計10人家族でした。 カレーでの思い出が一番心に残っています。 カレーと言っても、現代のようにカレールーはありません。 カレー粉を具と煮て、小麦粉でトロミをつけるものでした。 しかし、大家族だったため、カレーは、はっきり言ってカレー汁のようでした。 私は、 「友だちの家で食べたカレーと違う! カレー汁じゃないか」 と叫びました。 兄嫁が、 「ごめんね。家族が多いから、これでもカレーの缶一つを使ったのよ」 と、謝りました。 そして、大家族でしたので、たまに魚の煮つけなどもでましたが、魚屋で1箱幾ら、というようなザコの売れ残りの小さな魚が一切れ。 また、小学校、中学校ともに完全給食でしたが、 ちなみに、私の町は全国でもトップを切って完全給食を実施しました。コッペパンと脱脂粉乳のミルク、おかずが一品でしたが、毎日のように全国各地からの学校関係者が教室の後ろに並んで、給食を食べる姿を視察していました。昭和30年代初頭でした。 しかし、給食も休みの日もあり、その時は弁当持参でした。 町中に住んでいる子は、厚焼き卵にウインナー、空揚げなどなど。 私の弁当はご飯(一応白米)に野菜炒め。 野菜炒めの汁が弁当の中でこぼれて汁かけ飯のよう。 腕で隠しながら食べました。 でも、もっと貧しい家の子は、麦飯(黒い色をしていた)に梅干しやたくあん漬か味噌漬けだけ。 これはまだ良い方で、2~3人の子は、弁当の時間になると体育館の裏に隠れて、ポケットに入れてきた焼き芋1個でした。 そうそう、こんな思い出もありました。 冬になるとストーブが設置されるのですが、弁当を温めても良いということで、ストーブの周りには、弁当がズラリ。 ところが、たくあん漬を持ってきた子の弁当からは、教室中にたくあん漬の臭いがプンプン漂いました。 しかし、そんな貧しい生活の時代でしたので、誰も文句を言う子はいませんでした。 現代は、いい時代なのかも知れません。 息子にこのような話をしても、全く通じません。 現代は、スーパに行けば「無い物は無い」というぐらい何でも売っている。夜食がないと言えば24時間のコンビニでも買える。 「今日は肉だ」「明日は魚だ」・・・。 いい時代になったものですね。 でも、辛かったとは思いませんでした。これが農家の通常の食生活だったからです。 ただ弁当などは「はずかしい」という気持ちだけでした。
お礼
回答ありがとうございます。 昔の人や他国の人にとってのごちそうを毎日のように食べられていることが時々申し訳なくなります。 スーパーやコンビニの新製品もどんどん増えていってなんだか恐ろしいくらいです。 先人の苦労のおかげなんですね。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#4です。補足です。 >>話には聞いても今まで全然実感がわきませんでした。苦労やありがたみをわからず生きてきたことが恥ずかしいです。 いえ、なにも恥ずかしく思うことはありません。これは生まれた時がいつか、どこか、にかかっているので、別に質問者さんが悪い訳でも、僕がいい訳でもありません。 でも、ああ言う事は繰り返したくないな、とか、今はその心配が無いから幸せだな、と思うことはあります。
お礼
投稿ありがとうございます。 経験でしか得られないことがありますね。 大変な経験から学ぶことは大きいですね。
- henmiguei
- ベストアンサー率45% (1764/3876)
戦中戦後を生きてきたものです、 御質問の個々についてお答えいたします、 「私はまだそういう経験をしたことがなく」、 経験する必要は有りません、 するような事態にならない事を願います、 「聞いただけで恐ろしくなってしまいます」、 恐ろしいとか怖いとか思っている暇は有りません、 飢餓状態は思考すら奪ってしまいます、 「食べるものがなくて同じものを食べ続けたとか」、 食べる物や口の中に入れられるものがあるだけ幸せです、 同じ物でも口に入れられるだけ充分に幸せです、 「おかずがなかったとか」 おかずは勿論のこと主食(お米は見るのも不可能に近い、麦は贅沢品、芋は高級品・・・)すら御目にかかれなかった、 芋が有れば豪華な食事です、 一月の内に芋が口に入るのは10日ぐらい、 「野草を食べていたとか苦労話を聞きますが」 皆が飢餓状態だから取り尽くしてしまって野草すら手に入れるのは難しい、 木の鬼皮をむいて甘皮を削り取って食べた、 「どんな気持ちを持てばそういう辛い時期を耐えられるのでしょうか」 飢餓で思考すら奪われている状態ですから“耐える”等のレベルを遥かに凌駕しています、 兎に角、食べたい、腹減った、ひもじい、動くと腹減る、 次の瞬間に何か食べ物が手に入るかも・・・と言ったような心境、 「貧しかった時代を笑って話してくれる人が、貧乏エピソードって全然笑えません」 思い出すと“なんで耐えられたのか判らない”“とにかく必死だった”、 あほらしくて笑って話す位しか出来ません、と言うのが心裏じゃないでしょうか、 大阪で言う「笑うくらい金が無いわ」「笑うくらいあほらしい」との表現でお分かり頂けるでしょうか、 尋常一様でない飢餓状態は経験しないとわからないと思いますが、 今の北朝鮮がその様な状態に近いと思われます、 あんな状態を経験する世の中が再び来ない事を願う次第です。
お礼
回答ありがとうございます。 戦後70年の新聞記事や特番を見て、食糧難だけではなくすべてにぞっとしました。 正直経験しないで済むのなら経験したくないですし、目を背けたくなる、耳を塞ぎたくなるエピソードばかりです。 生きてる世界に地獄があるじゃないかと思ってしまいます。 戦争だめですね。 平和は宝なんですね。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
"どんな気持ちを持てばそういう辛い時期を耐えられるのでしょうか。" ↑ 今は昔ですが、ひどい貧乏をしていた時期があります。 喰うモノはパンの耳です。 当時はスーパーで、山盛りが数十円とか、店によっては 無料でくれました。 あれ、飽きるんですよね。 本当に喉を通らなくなります。 ムリヤリ水で流し込みました。 辛かったですよ。 まだ覚えていますが、スーパーで、小さい女の子が 「ねえ、お母さん。こんなの買う人いるの」 「動物の餌にするんだよ」 という会話を耳にしたときは、恥ずかしくてとうとう 購入できませんでした。 「冬の後には春が来る」 「明けない夜は無い」 と、呪文のように自分に言い聞かせていました。 つまり、希望があったから何とか耐えられたのです。 希望が無かったら終わりですね。 その時、何でもいいから、無理にでも希望は創る べきだ、と思いました。 ”貧しかった時代を笑って話してくれる人がいますが 常にそんな辛い思いしてたってことですか?” ↑ 一時的ですよ。 どんな悲惨なエピソードでも、過ぎてしまえば 笑い話になります。 ワタシも、人に会う毎に、貧乏自慢をしています。 ああいう貧乏を経験すると、根性に自信がつきます。 お金を大切にするようになります。 他人の苦しさが解るようになります。 反面、安易に生活保護なんかする若者を目にすると 憤慨します。
お礼
回答ありがとうございます。 その時栄養失調になって死ぬかもしれないとは思わなかったのですか? 希望を持ち続けるように努力して辛い時期を乗り越えたんですね… 大変勉強になりました。
- kia1and2
- ベストアンサー率20% (482/2321)
私が結婚して、日本に連れてこられ(わたしも日本の文化や習慣を知りたかった)、亭主の給料が月で4万円ちょっと、そこから何やかんやと差し引かれて3万8000円くらいの手取り。当時は1ドルが360円で月で105ドルほどの給料。わたしの日本に出発前まで働いていた給料が600ドルほど。 もう、どんなに節約しても給料の1週間前には二人の持ち金をかき集めても300円くらい。ハイ・ライトってタバコが70円の時代です。毎日、中華料理屋の店先で作って販売している肉マンを一つだけ(30円)を買って、二人で半分づつが食事。そのうちに、オーナの人が見かねて一つオマケで二つを。あの親切さには涙がでるくらい嬉しかったです。 でも、肉マン一つを半分づつ分けて食べることが辛いなどとは感じませんでした。そのうちに隣のおばサン(夫婦二人くらしでご主人は刑務所の看守さんで夜勤が多い)が、一人で食べるのは淋しいからと、食事にお呼ばれを何百回も。 でも、それが、私たちだけでなく、日本国中の新婚さんの生活でした。日本国中の人が、主義主張は違えども一生懸命に働いて、日本という国をとにかく良くしようと懸命でした。車なんて夢の夢の時代、電話だって家にはなかったです。 毎年、年末に年初を振り返ってみると、確実に生活が楽になっていくのが感じられ、今年も良かったね、って感謝の気持で一年の締め。 貧しかったけれど、夢があったから、辛いなどは感じたことはなし。それに今は夢が、実現できた喜び。お金がかなり余った月でも、毎月に一度は、肉マンを一つ買って、真夏でも、真冬でも、近くの公園のベンチで食べています。どんなことが起ろうが、感謝の気持があれば、二人なら生き抜けていける、って自信が湧いてきます。 今、70歳以上の人は、皆さん、同じような気持だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 美しいですね… 正直うらやましいです。 軽々しく言ってすみません。
- aneq
- ベストアンサー率16% (145/868)
私が思うに、幸せは、未来が今より良くなると確信が持てた時に感じるものなんだと思うんです。 今現在、何不自由なく豊かに便利に暮らせていても、この先の夢も目標もなく、ただ何となく生きているだけだと、年齢とともに人生はどんどん衰退していくし、明るい未来はないし、先のことを考えると不安とか恐怖で暗い気持ちになってしまいますよね。 でも逆に、今現在は貧しくても、素晴らしい夢や目標を持って全力で努力していれば、未来は確実に今より良くなっていくので、ちょっとくらいお腹が空いていたって全然不幸じゃないわけです。食事も忘れるぐらい打ち込めるものを持つ幸せっていうのもありますし。 で、一生懸命生きてきて、その思い描いていた素晴らしい未来を手にできた人は、貧しかった頃に頑張った自分を懐かしく思うし、誇らしく思うので、人に貧乏エピソードを語ったりしちゃうんですね。 ただまあ、貧しいのに、明るい未来を思い描くこともなく、努力もせず、今後更に悪くなっていくと思って生きていたら、ただただ辛い人生でしょうし、もともと豊かな人が、さらに素晴らしい未来のために努力しているなら、凡人の想像を超える幸せを手にできるのかもしれないけども。
お礼
回答ありがとうございます。 夢や希望があれば、苦しいときも乗り越えられるのかもしれませんね。 今がしあわせだからこそ貧乏エピソードを笑って話せるんですね… 険しい山に登って頂上にたどり着いて喜びを感じるようなものですかね。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
1。どんな気持ちを持てばそういう辛い時期を耐えられるのでしょうか。 みんなやってんだから、という気持ちでした。 2。貧しかった時代を笑って話してくれる人がいますが、常にそんな辛い思いしてたってことですか? はい。勤労動員でめまいがして倒れた同級生が居ます。体が必要とする食料が無く、体力以上の労働をすると、貧血したり倒れたりします。 でも、「貧乏エピソード」とは少し違いました。一億総貧乏っていうんでしょうかねえ。 3。「全然笑えません」。 同感です。
お礼
回答ありがとうございます。 話には聞いても今まで全然実感がわきませんでした。 苦労やありがたみをわからず生きてきたことが恥ずかしいです。
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お礼
回答ありがとうございました。 優秀でいらっしゃったんですね! 苦労を乗り越えた人はそれが人間的な魅力になっているのでしょうね…