有職故実のどこに、神に仕えるものは処女であるべしとあるのでしょうか。
あったら教えてください、と、もし巫女は処女であるべし論者に出会ったら質問してください。
そもそも神道はイスラム教と違って唯一無二の経典なんかないでしょう。
だから神道の原理主義というのがないのです。
こうしなければ理に背くというような絶対遵守絶対禁止なんてありません。
また、大神さまは同一とみなしながらも突発的に人の存在に霊体が通信をおこなってみこころ、を表すことがあるので天理教だとか大本教が出てくるのですね。
もちろん、誰でもわかることとして、心の中に邪念のとぐろが巻いているような人物は神官や巫女には適しません。
人を導くこともできませんし、神に何かを奏上するにも上の空になります。
ところが、誰でも経験していることとして、人生の中にそういう邪悪な時期がない人はまず居ません。
人生の後になって振り返ってみると、そんなに唾棄するほどのどす黒いことでもないことがだんだんにわかってきますが、まさにその只中にいる人は自分が穢れきっていると思い込んでいるものです。
そういう邪念の時期がどういう年代で現れるか。
冷静に考えるまでもなく、思春期直後からです。むらむら湧き起ってくるものの扱いに、誰しも苦労をします。
このときに自分を正当化するための用語が「処女」「童貞」です。他との接触によるけがれはないという思い込みをして自分を許すんです。
湧き上がるものに戦っているのだと思いこむこともできますし。
でもそのまっただ中にいる時期は、おそらく人生の上で一番自分が穢れていると思いやすい時期であるのは事実です。
さて、巫女が処女のほうがいいというのは、処女すなわちけがれをしらないから神とのつなぎ役に適しているというような判断にすぎないと思います。
確かに、実際に男がつきまとっていたりすれば明らかに障害です。
しかし独身未婚で事実上処女であったとしても心理の奥で邪念がないなんていうことはあり得ないと思われます。
それも気づかないような人間なら、そもそも人を救い神の意志を伝えるなんてできるわけがないのです。人の悩みを理解できないからです。
天理教の教祖中山みきには夫がいました。もともと浄土宗の門徒だったのに、天理王が憑依したので巫女ですね。
大本教の教祖出口ナオも子供が何人もいて、普通の百姓民家でしたが、国常立尊が憑依した。
最初はコトバで教えを説いていたところ放火魔と間違われて逮捕されたりしたので、国常立尊に頼んで別の手法でできないかと言った。
そこで国常立尊が行ったのは、文盲で字が書けないナオに、お筆先という経典を書き連ねさせたのです。大量の文字が記録されました。
これも巫女です。
この2人を見ればわかりますが、明らかに処女ではない。そして処女の価値とは離れた偉大な業績をのこしています。
だから、巫女は処女でなければなれない、というのは都市伝説にすぎません。
戸籍抄本でもあれば、女であって独身であることは証明できます。それを処女の条件というなら証明は簡単です。
肉体的なことをいうなら確認は不可能です。
もちろん専門医がみることで明らかに異性経験があるというのは宣言可能だと思いますが、処女は無理です。
微妙な判断は、外からは断定できません。
仮に、今日が処女でも明日も明後日もそうだという保証はありえませんから、判定そのものが無意味です。
だったら、仮に就職試験だとしても、入学試験だとしても、処女を条件にすることは事実上不可能です。
ところで処女がなにか価値があるように思い始めたのはいつからなのでしょうか。
文学作品でたどっていけば、江戸文学まではそんな価値観は全くないと思われます。
明治で文学自体の考え方が変わる時期がありましたがそれでもそんな感覚はなかった。
現れるようになってきたのは大正後期以降でないかと思われます。大正ロマンティシズムというような空気が、価値を作り上げたのではないでしょうか。
芥川以降だと思う。芥川「好色」なんかでもその価値観は現れていない。
戦後直後昭和21年に「本陣殺人事件」が発表されたときには、あの殺人動機を読者が共感できたのです。
この時期にハタチ前後の若者は同じ価値観を持っていたと考えられます。
大正末期から昭和初年の人たちです。
このひとたちが処女価値を恭しく共有していたのです。
嫁が処女でなかったから殺すしかないなんていう発想は逆に今聞いたら何ですか、というくらい不自然な殺人動機です。
鬼の平蔵の嫁さんは独身のときに強姦の被害にあって、鉄ちゃんはそれを知った上めとって添い遂げようとしています。
強姦魔と再開したときには即刻斬り捨てています。妻の誇りのためです。
この鬼平犯科帳は昭和42年以後ですから、この時代の若者は処女崇拝みたいなものからはかなり離れたと思っていい。
20年という年月が経過しています。
いまでも結婚相手が処女のほうがいいと言っている人間はいますが、これは別の男と自分を比較してほしくないという劣等感のなせる業でしょう。
まさかそうでなかったら新妻を殺してやろうと思う人間は居ないと思う。
だから、今の時代に本陣殺人事件を映画やドラマにしたい人間の感覚を疑います。(あれはトリックにもかなり無茶なところがある)
また、松本清張の霧の旗、も映画化してどれだけの信者を作れると思うのでしょうか。
堀北真希の演技でそれらしく見せることは可能ですけど、最後に相手を地獄に叩き込む長大な計画というのが理解できないと思います。
あんなことで資格を失うようなプロもいないと思いますし。
以前、倍賞千恵子で作った時は時代が昭和30年代ですし、ありえたかもしれませんけど。