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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ディスることありますか?)

大人のディスる行為とは?

このQ&Aのポイント
  • 30代で就職できなくなった人たちや勉強してこなかった人たち、ニートやフリーターの経験がある人たち、裏社会に入ってからまともな道に入りなおした人たちに対して、ディスる行為はよくないものですが、心の底では見損なってしまう自分がいます。
  • 新卒就職しないと厳しい社会で、30代でまともな仕事に就くことは難しいと考えられます。しかし、ディスることは良い行為ではありません。
  • 彼ら(大人)に対して思いやりを持って接することができる人は、どんな人なのでしょうか。表面上は可能ですが、心の底では見損なってしまうかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Glory_777
  • ベストアンサー率50% (105/208)
回答No.1

ありますよ。 それで良いかと思います。 言葉に出してはいけませんよ。 これは最近気がついたのですが、 近くにいる人には正確に聞こえないのです。 ディスっていることだけは知られるのですが、 「誰をディスっているのかまでは伝わらない」 こうなると、 傍にいる人全てが、 「あいつは俺のことをディスっているのではないか?」 と心配し、 自分の事を言ってそうな部分を探そうと聞き耳を立てます。 こうなると、全然違う内容でも、その人には、そう聞こえてしまうんですよ。 これは大変な損をしていますよね。 何故だか敵が増えてしまう。 また、それについて相槌をうっているひとがいたとして、 この人も、敵視されてしまいます。 「ああはなりたくない」 こういう気持ちが無ければ、自分を律することは出来ません。 なので持ち続けてよいのです。 しかし、言葉にして出すと、思ってもいない損をしますから、 平気で言葉にしている人には感心しません。 嫌だなと思っても「なるほど」と答えた人も、誤解されるのが怖いですね。 自分からそういう切っ掛けを作ってはいけないでしょう。 次に他人への評価についての考え方です。 一般標準での良い悪いをあまり適用しないことです。 個人個人で違います。 しかし、自分に対して損をさせたり、他の人に害を与える人については、 これに対して怒りを感じてよいと思います。 立派になっても、一銭も私にくれない大富豪が沢山います。 彼らに憧れても、今の自分と違うわけです。 また、堅実であると思っていても、自分の職場が突然なくなる時もあります。 その職場や組織、企業自体が、世の中にとって益ではなかったと言うことです。 このとき、 そういう会社を選んだ人は、世の中にとって不要なものに貢献し、 その上でサラリーを得て生きながられてきたわけです。 これがフリーターと比較して、上等であるとは思えません。 問題にすべきは、 フリーターではなく、ニートではないかと思います。 また正社員であるとか、企業家であるとかではなく、 世の中に貢献して、生きる糧を得ているかどうかです。 その人がいなくなったとき、いくばくかの損をしたと誰かが思ってくれれば、 これが一番の証明じゃないかと思うのです。 他人を見てディスってしまうところが何故良くないと感じるのか? これは簡単です。 他人を見て、その人がいなくてもだれも困らないと感じれば、 もしかすると自分もそうかもしれない、 と思ってしまいます。 そのとき、 「自分は、彼らと違ってxxだから、大丈夫」 としたくなりますよね。 嘘っぽく感じれば、より強く主張しようとします。 人によって、自分に感じる負い目、心配などが違いますから、 「xxは駄目だ」 とディする内容が違います。 自分は大丈夫として境界を引こうとする策略。 これを自然にやっているようですと、 現実的に大丈夫にするための営みや作戦を練れません。 「ああは成りたくない」 と感じることが第一ですが、 ディスって終わってしまったら、 その先に生まれるはずの素晴らしい衝動が消えてしまいます。 いくばくかでも恐怖を感じたら、 その恐怖を誰かを糾弾することで誤魔化すのではなく、 「なぜ、ああなったのだろう?」 「私の場合は大丈夫だろうか?」 「ちゃんと防げるほど、私は彼らの事情を知っているのだろうか?」 と言う具合に、自分だけは助かろうとして、 相手の事情を良く知ろうとするのが大事でしょう。 その上で、 「良く知ってよかった。私はここがあったので、同じにならなかったんだ」 と安心することが必要です。 そうしないと、不安は消えず、 同じ人を目にするたびに、恐怖から生まれる、ディスりが再発します。 「何時自分が同じなるかわからない」 この不安が、他人をディスる原因です。 だからこそ、子供のほうが、他人を否定する性質が強いのです。 しかし、大人になっても、 同じ境遇になる可能性を合理的に排除できない場合は、 子供と似たようなもんです。 恐怖を感じたら、事情を調べ、仕組みを調べ、防衛策を考え、 「自分だけは大丈夫なように手をうたないといけません」 本当に大人になると言うことは、 「他人をディスる」と言う習慣を、「事情を調べる」と言う習慣に置き換えられた 人のことを言います。 結果として、 「良かった俺じゃなくて」 と言うわけですが、 ディスって強気で誤魔化した人と、事情を知って、本心から安心した人では、 心に持つ余裕が違います。 前者の場合は、他人対して寛容でない自分に悩み、 やはり人から疎まれていきます。 年を取れば、若さもなくなり、肉体も美しくなくなります。 そのうえで、人生も消化すれば、将来の可能性を頼りするのは惨めです。 これにくわえて、 他人をディスる性質がそのまま残れば、 どうですか? むちゃくちゃなりたくない大人ですよね。 若者が嫌う大人とは、いずれそうした人がなる姿なんですよ。 直感で身近に感じるので、余計に怖い。 ディスることを辞めたほうがよいのかも知れないと、 感じた質問者さんは鋭いです。 若者にディスられない大人は、若いときに人をディスったことがない人です。 習慣が違うんです。 「何故、ああなんだろう?」 と言う思考が先に来てしまい、ディスることができない。 そこから色々と考えてしまい、色々と調べごとをして、 これらをいつか別の人に伝えることになり、 これが習慣と成るため他人の関心が自分に集まるわけです。 年をとって少しだけマシに成る。 この僅かな差が生き残りの鍵になると思います。 私が思うに、どんな若者も立派で差がありません。 それぞれが自分に自信を持つ根拠は確かだと思います。 しかし、その中から選別されて、生き残りを許されるには、何かが必要です。 ここには必ず、他人が感心する、繰り返し再現できる有益なスキルが必要です。 子供の時代は、こうしたスキルを大人が教えます。 大人になると自ら学びに行かないといけません。 この衝動が多い人と少ない人で、差が開くわけです。 ディスる人は分かっていませんが、 ディスるタイミングで、学習の衝動が起きている人がいるんですよ。 自分がディスる回数分、 別の人は自分を向上させるための勉強をしたくなっている。 こうなると生きているだけで大変な差が開きます。 ですから、 若者にディスられる大人と言うのは、若いときに人をディスっていた人です。 それは幼少のときからの習慣です。 わたしは、 人に対して不満を感じると、条件反射のように、 「なぜそうなのだろうか? これは面白い」 と感じるように強制してきました。 これが勉強の原動力になりました。 ですから、 ディスる行為で終わるのではなく、こうした衝動と紐付けるのが大事です。 こう考えて、他人を観察しますと、 栄達している人というのは、 ディスッたときの言い方が違います。 「何故、xxなんだろうか?本来xxだろう。xxだからだろうか?」 と言います。 ここで本気で調べごとをすれば、良いわけです。 (しない人は、ディスって終わりですから、駄目ですけど) ニートの人でも、会話をして、上の様な発言をしている人は侮れませんでした。 しばらくしたら、働きはじめてまして、収入が相当増えていました。 こういう人は、今どうであるかは関係ありませんね。 逆に、就職しても、ディスる人は、数年くらいで転職し、最後は無職になっている ことが多いようです。本サイトの質問などでも、そういう力を感じます。 本来あるべき場所へ戻ると言うことです。 人を呪わば穴二つと言ってしまえば、オカルト的です。 しかし、 自分の競争者が、その瞬間に自分を向上させる衝動を感じて実践している、 と考えれば、それが無い自分は負けるという論理がわかります。 他人が何時自己研鑽をしているのか? 自分でいうところのどういう気持ちのときか? 答えは、 「誰かを否定したいとき」 です。 誰かを否定したいときに、否定の気持ちとセットで向上心が沸くように自分を 調整している人がいると言うことです。 このカラクリに気がつかない人は、大変だとおもいます。 堅実に世の中を渡ることが鍵ではありません。 どんなに堅実であっても、競争により、本来いるべき場所へ戻ることになります。 如何にして、自然に自己研鑽できるようにするのか? そのバイタリティはどこから生むか? 人を否定したい衝動は、誰にでもあり、力も大きく、回数も多い。 ここで前述の条件反射を作った人が、 「生きているだけで向上する」 わけです。 恵まれていない人ほど、無い人が多いですよね。 ディスるのを抑えるだけでは、 「知らないんだなこの人」 と言う範疇から出ません。 注意して他人の言動を見てみましょう。 知っている人が多いですよ。 彼らは全員、知っていて、意識して、そういう習慣を作っています。 学校では、 「人の悪口をいってはいけません」 としか教えません。 その続きがあるということですね。 以上、ご参考に成れば。

simeri_xx
質問者

お礼

ご丁寧かつ明確な回答ありがとうございます。 なぜ、そんな人生の境地に到達できたのでしょう? 私は男40歳です。 あなたは100歳を越えていると思えるほど達観していると思ってしまいました。 私は人の上に立ってはいますが、浅はかでした。 ディスることで自己完結していたこどもです。 実はつきあったばかりの彼女(40歳)の友人を嫉妬心からディスってしまいました。 最初はディスるのを抑えてましたが、調子に乗ってしまいました。 強気な方だったので、すぐに別れを切り出されました。 私には「思いやりがない」、金輪際会わないと。 謝罪も許されません。 あなたのほかの質問の回答を読んで、思いやりがなかったといまになって気づきました。 今日から少しでも他人のことを考えるように心がけていきます。

その他の回答 (2)

  • HeyXey
  • ベストアンサー率26% (134/498)
回答No.3

 誰かと仲良くなろうとする時、無意識に‘自己開示’してしまったのではないでしょうか。関西の方では、そういう話芸があります。上沼恵美子しかり、故やしきたかじんしかり。人の悪口を言ったり、『あの人嫌い』と本音を漏らして親近感をつくり出します。優等生のようなもっともらしいことを言うより、煩悩を持った心の奥底を見せた時、ひとは親しみを感じるものです。ただし、相手に嫌な気持を与えてはいけません。悪い人物評は相手に近い人であってはならないのです。話芸の巧みな人は、その辺を心得ています。相手との距離がその友人より近いと思っていたが、実際は自分の方が遠かった、ということでしょう。同じ手札でも、繰り出す順番を間違えれば負けます。もっと親しくなってからだったら、違う結果になっていたでしょう。他人の悪口は、使い方によっては相手との距離を縮める道具になります。ちゃんと計算していれば。  ご質問は「見下す」というテーマですが、そういう無意識の動機があったのではないか?という指摘をさせてもらいました。    今はどうだかインドでは社会的に成功しなかった場合、前世での行いが悪かったからだと解釈するのだそうです。それに比べて、アメリカでは努力や才能が無かったからだと解釈しますので、ものすごく落ち込んで自殺する人も多いと聞きます。インド人は、『前世の出来事なんてどうしようもないじゃないか』となる訳で、自殺をしません。まぁ、同じ‘事実’に出くわしても、それをどう‘解釈’するかの違いです。僕も、今日の食事はコレステロールが多過ぎたのではないかと‘事実’を反省することはあっても、『今日のオレの解釈は間違っていなかっただろうか』と‘解釈’を反省することはあまり無いのです。  「あの人はこういう人だ」と、他人を決めつけてかかる人がいます。そういう人は‘投影’している場合が多いのです。たとえば、自分の中に利己的な部分があるのに、それを無意識に押しやって「自分は利己的ではない」という顔を自分に対してしてしている人は、他人の中に利己的な部分や面を見つけては非難するのです。  長々とすみません。人のことは言えませんがね。

simeri_xx
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 耳が痛いです。 利己的にならずに気をつけます。 これから利他的に生きようと思いました。

noname#204089
noname#204089
回答No.2

活性化させるためにディスることありますよ

simeri_xx
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうなんです。 活性化=がんばれーという気持ちがあるから、知らない他人をディスってしまっていたのですが、こればかりは自己中としかいいようがありません。 これから生き方を変えて、人生をよりよくしていきたいと思います。

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