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川崎大師の表参道は、なぜ裏手にあるのか
川崎大師駅から表参道を通って、川崎大師に行ってきました。 川崎大師の壁に沿って、長々歩いていて不思議に思ったのですが。 普通は、寺院に参拝する正面を表参道と言うのに、 なぜ裏手なのに表参道と言うのでしょうか? また、駅が出来る前の表参道は、どこだったのでしょうか? 駅が出来た時に、参拝者の流れが変わり、 表参道も変わったのでしょうか? どこを調べてもわからなかったので、よろしくお願いします。
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- michael-m
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はい、川崎大師は海に向かって参道が延びていました。つまり今の丁字路あたりまでが本来の参道。 実際には巣のようなところに建っていたんです。つまり周囲は水。やがて干拓が進み陸地になりました。 多くの参拝者は江戸から来ました。そして多摩川の渡しは現在の第一京浜(国道15号線)河口側にありました。そこから409号線に抜けて行ったんですね。 しかし、久寿餅屋などの工場が直販をはじめ、若宮神社、医王寺などが街道沿いにあったことから産業が反対側に延びていき、今の参道が形成されたわけです。同時に京急大師線も川崎大師駅を作ってこちらを表参道入り口にしました。 つまり元々の参道は門前から松屋総本店のある丁字路まで。そして表参道が川崎大師駅前から提灯屋さんあたりまでという事になります。
>駅が出来る前の表参道は、どこだったのでしょうか? そもそも表参道なる名称が後世のものです。 恐らく駅ができてからではないのでしょうか。 確かに現在表参道と呼ばれている道は東海道から大師堂へ向かう道ではありました。 「江戸名所絵図」という書物の大師河原 大師堂という絵を見てみますと 本堂は東側(海側)を向いて建てられています。(向きは現在と変わりません) つまり当初から東海道に背中を向けるように建てられていたことになります。 創建当初は別に東海道がどうのこうのというよりは、周辺の地形や本尊が目の前の海中から見つかったという由来などで向きを決めたのでしょう。 厄除けで人気のお寺になるなどということは夢想だにしていなかったでしょう。 現在は山門の前から延々と商店街が続いていますが、上記の絵では山門の前の広場と東海道へ続く道(現在の表参道)が短い距離で繋がっています。 現在の商店街の道はありません。 いつの頃かは知りませんが、この山門に繋がる短い道を潰して、山門の前から現在商店街のある道を通したのでしょう。 結果として、お寺を通り越して商店街に入ってから、山門を目指して後戻りする、というコースになったのでしょう。 注)絵の感じからしますと、現在の表参道と呼ばれている道は、現在の位置よりも多摩川寄りを通っていたようです。 川崎は第二次世界大戦の時に徹底的に空襲を受けていますので、戦後の区画整理などで変わったのではないのでしょうか。
お礼
丁寧に教えていただき、ありがとうございます。確かに、昔は駅もなかったですし、寺の壁もコンクリートではなかったので、私が感じたグルッと回らせられる違和感はなかったのでしょうね。大変参考になりました。
略縁起 http://www.kawasakidaishi.com/about/history.html によると、海から引き上げられた大師像を祀ったのがおこりです。 したがって、寺(本尊)は海(東)を向いているのだと考えられます。 参拝する人々は、東海道、府中街道などで川崎宿に出、そこから大師道を通って平間寺に着きます。 大師道の末端が表参道になります。 この人の流れは変わっていません。 表というのは、寺院の建物に対して表裏をいうのではないでしょう。 参拝のためのメインストリートというような意味合いではないでしょうか。 京急大師線も、最初は東海道の六郷橋のところ(六郷橋駅)から川崎大師の参道入り口へと人を運んでいました。 品川方面からの電車も、六郷橋に沿って六郷橋駅で大師線に接続されました。 京急川崎(京浜川崎)駅ができ、京急本線が現在のように上流側に移動し大師線も延長されたのは後のことです。
お礼
なるほど、よく読まないとダメですね。寺の向きと街道のアクセスは、別ものなんですね。京急線の歴史や川崎宿についても興味が湧いてきました。こんな疑問にもお答えいただき、ありがとうございました。
お礼
なるほど、丁字路までが参道だったのならば納得できます。京急も、川崎大師に近いから駅名を付けたのであって、裏手になることまでは考えていませんよね。駅から来る参拝者に、寺の行き方がわかるように表参道にしているわけですね。わかやすく教えていただき、ありがとうございました。