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先生の話

ずっと前から気になっていたのですが、どの先生達の意見が全て全て矛盾していないような感じがします。 例えば、どうすることがチームの為なのかとかそういった時どの先生も同じようなことを言います。 これは大人ならみんなそうなのでしょうか?それとも教師だけがそうなのでしょうか? 大変失礼なことを聞いているのは重々わかっていますが、誰か回答お願いします。

みんなの回答

noname#196137
noname#196137
回答No.3

>これは大人ならみんなそうなのでしょうか? それは時とか場所によりますよ。 同じ会社の人なら、他の会社に対しては、どの人も意見がほぼ同じ・・・みたいなことなんでしょう。 最近特に、先生たちがその点過敏なのは確かです。 意見を一つにしとかんと、ただでさえ意見が分かれる父兄の間で揉めて、最終的に叩かれて困るのは先生達。 まあこれは、生徒というより、その保護者対策でしょうねえ。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.2

 こんばんは、夜分に失礼します。僕もそのお気持ちはよくわかります。 一つのものごとに対して皆同じ様に応えるのはなぜか、との素朴な疑問は恐らく日本特有の現象ともいえましょう。  「日本の社会」が持つ独特の性質を現す言葉に「靡く」や「群れる」そして「波風立てない」「周囲との予定調和」との表現があります。この逆が「出る杭は打たれる」との諺になります。  解りやすくいえば、自分の意見を言ってはいけない、それは組織の中に生きるための必須要件であるとの意味になりますが、それが正解かといえばそれも疑わしいとの話になります。  会議やミーティングで「貴方の意見はどうですか?」と聞かれても、他の人と同じですと応えるのが日本的なスタイルでしょう。  けれども一つの問題に対する答の出し方の道筋が一つであるとは限りません。同じ山に登るにしても頂上に至るルートは幾つもあり、何れも頂上へと登山者を誘うとの目的も同じです。ここまでは一般の会社でも通用する論理ですが、殊教員の世界にはそれが通用しないとの特殊な構造があります。  普通の会社ならば、ある程度の議論を前提とし様々な意見交換もしますが、教員の世界は「最初から結論が決まっている」との特殊な構造の上に成り立ってもいます。それが小中学校などの義務教育課程であれば尚更その色彩は強くもなります。  これは「義務教育」として日本国民ならば誰もが持つべき基礎的教養を育成させるとの意義に基づくと共に、それがガイドラインとして現実的な拘束力を持つとの裏付けがありもするからです。  国語や数学の授業で、ある作品を採り上げたり、図形の証明問題でも「一つの答しかない」との教え方をせざるを得ないとの辛さを学校の教員も身に染みて経験しているはずです。この作品の解釈の仕方は少しおかしいのではなかろうかと考えても、実際の授業ではそうした意見を表にすることができないとのつらさです。  文学作品ならば、一つの作品に対して幾つもの解釈仕方があっても不自然ではないのですが、解っていてもそれを表に出せないとのジレンマを抱えている教員も多勢います。  チーム内のトラブルを解決するための方法ならば、そのチーム事情によって解決方法も一つではないはずで、にもかかわらず皆同じ様な意見しか出せないのは何かの約束事に従っているとの可能性もあり得ます。  元々は課外活動ですから教員や顧問も手を出さずに「自分達で解決策を話し合って解決させる」とのはずですが、それに対して敏感に反応してしまうのが現在の教員達の姿です。  そうしなければ何か職務放棄と評価されてしまうのではなかろうかとの考えすぎが行き過ぎた形ともいえ、結論を出さねばならないとの焦燥感に駆られてもいるといえます。そして教員本来の仕事からすれば、「生徒一人一人に考えさせる」あるいは「考えて行動する力を培わせる」とはかけ離れた姿ともいえます。教員の仕事は農家で作物を育てる姿にも似ていて、答を出すよりも答に至る道筋があることをアドバイスする仕事でしかありませんよね?。そして農家が一つ一つの作物の状態をチェックして水や温度管理に気を配るのが仕事ならば、マニュアルに書かれている以外の部分をより重視もするはずです。それができていないならば教育(2)携わる者としては失格といえます。

  • suzuko
  • ベストアンサー率38% (1112/2922)
回答No.1

教員です。 質問の意図がいまいち理解できていませんが。推測で書いてみます。 >どうすることがチームの為なのかとかそういった時 内容によるかと思います。 練習時間が少なく「もう少し練習すれば、チームワークが高まる」ような問題ならば「時間に遅れるな」「朝の練習をしよう」などの意見を言うのは、大人ならば同じかと… そうではなく「かなり特殊な状況で」「込み入った対応」を「矛盾することなく、全ての教員が言う」のであれば、そこには「生徒の知らない場での統一見解」があるのではないでしょうか? 教員って結構、周囲の人に「生徒への対応」を相談します。 みんな「間違ったこと」をして「生徒を傷つけたくない」から。 私見です。