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人間関係の悩みとは?自分と他人との関係を考える
- 人見知りの私が友達との関係で悩んでいます。話しても相手の反応が薄かったりすると自分を責めてしまいます。
- 人との会話が苦手で楽しくおしゃべりできないことに悩んでいます。周りと比べて自分に何か欠けているのかと考えてしまいます。
- 友達と楽しくおしゃべりする方法を知りたいです。自分の考えすぎなのかどうかも分からないです。
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質問者が選んだベストアンサー
とても良いことを考えている方だなと思いました。 お悩みだとは思いますが、微笑ましいと感じます。 その上で、とても大事だと感じます。 質問者さんは善良であると思いました。 微笑ましいと感じた理由ですが、 自分も相当悩んだことがあるからです。 これは非常に簡単な答えがあって、あっけなく解決します しかし、これに気がつかないと、とても長く悩むことになりますし、 落ち着いて人生を楽しめません。 だから大事な話です。 そして、羨ましい、憧れる、と感じているようですから、感じ方が良いです。 悔しい、否定したいと感じる人もいるので、そうならない事が大切なんです。 だから善良であると思いました。 さて、人が不幸を感じる原因です。 これはある種の認知であると思います。 若いうちに(下手をすると幼少のころ)獲得してしまう人もいれば、 一生気がつかない人もいます。 認知とは感覚を伴います。 ことばや知識で知っていても、体感をして、自分に教え込んでいかないといけません。 では、どんな認知なのか? 「主観と客観は常に直角になっている」 変な表現ですね。説明しましょう。 数学では座標軸という言葉がありますよね。 まずx軸、y軸など2次元の座標軸を思い浮かべてください。 仮に、x軸を「楽しさ」としてみます。右(プラス)へ行くほど楽しい。左(マイナス)は逆。 そこで、 「客観的に見て楽しそうな人がいた」 では、主観ではどうなのか?この座標のどこかにマッピングしてください。 質問者さんは、同じx軸上のプラスの方へマッピングしています。 主観と客観が同じだと決めているのですよ。 これは間違いです。 次に、よく主観と客観の違いが語られますよね。 しかし、この話を聞いた人は、 「では、その人の主観ではつまらないのかな?」 「楽しそうに見えるけど、本当は違うなら?つまりツマラナイってことだよね?」 としてしまうんです。 やはりx軸上であり、左(マイナス)のほうですね。 これは頭で考えて逆にしてみただけです。 もうお気づきだと思いますが、相手の主観は同じx軸上にないのです。 少しだけ違ったことを考えています。 自分の心を安定させて、成熟していくためには、 子供の頃に勘違いをした部分を発見して、 長い時間をかけて正してく必要があります。 勘違いに気がつかないと、正す練習が出来ませんから、とても長く苦労をします。 わたしが自分の人生で気がついて、良かったと思う いくつかの勘違いを順を追って説明します。 最初の勘違いはさきほど説明したものです。 では第二の勘違いです。 人が他人にわかりやすく反応する感情として、喜怒哀楽があります。 しかし、 喜怒哀楽の本当の意味は、子供の頃に捉えたことと違っています。 「喜ぶ」は「喜ばしい」。「怒る」は「怒りを感じる」、「悲しい」は「哀しい切ない」 最後の楽しいは「充実している」ではなく、「面白い」です。 喜怒哀楽の表現と言うのは、わかったつもりで、わかってないものです。 前者3つは、他人を思いやって感じるものであり、 自分の状況や立場で感じるものを指しません。 例えば、 何かで悩んでいる人が悩みを解決した。 このとき、「喜ばしい」と思ってほっとします。これが本当の喜ぶの意味です。 また、 誰かが誰かの苦労を無にしてしまうような、考えの浅い行為をしたとします。 全てが台無しになったとして、怒りを感じます。これが怒る(いかる)の本当の意味です。 そして、 ある人が悩んでおり、もしその悩みをけっして誰も解決できないことをあなたが知っており、 やはり運命はその通りになったとします。 こうした不条理に出会い、その上で仕方ないと思うこと。 このとき哀しい、切ないと思いますよね。 これが哀しいの本当の意味です。 質問者さんの悩みは解決できますから、微笑ましいものなのです。 成熟した感情の殆どは、自己に向けられず、他者を見て共感するためにあります。 唯一自分に残された感覚が楽しいです。 しかし、これは面白いという感覚と、喜ばしいと言う感覚が混ざっています。 面白いと言う感覚は、「自分の仮説があたっていた」時に感じます。 そのため、 楽しいとは、 「自分が仮説を立てて、何かをしたとき、誰かの悩みが解決できた。喜ばしい」 という時に感じます。 これらが正しく主観で行われていないと、感情表現が外に見えません。 その見え方は思ったより酷いものです。 ぼんやりしていたり、 無口であったり、粗暴であったり、嫌味に見えたり、情けなかったりします。 俗に凡庸とか悪といわれる概念に分類されてしまうのです。 なので、不当に誤解をされてしまい、より悩みが深くなります。 そのため、正しい感情を主観で捉えることが難しくなり、余計に誤解が深まります。 喜怒哀がよく外に見える人の主観は、 「すべて他人事としていて、当事者意識にかけるが、共感をしている」 そういう心持ちです。 深刻に受け止めていると、その様にみえず、無反応に見えます。 これが主観と客観が直角にずれている部分です。 哀しいですが仕方が無い事実ですね。 こうした喜怒哀だけが外に見える人は、 俗にいわれる「善良な庶民」という印象を他人に与えます。 ではこれを応用します。 「すべての他人の事情に対して、当事者意識をもち、共感した上で解決も試みる」 と言う習慣を身に着けたとします。 これはさきほどの話を逆にして見ました。 他人事ですから、やはり本音では当事者意識に欠けます。 ですから、感情表現が豊かに外にあらわれます。 解決を試みるために、情報を集め、仮説をたてていきます。 ですので面白いと感じていきます。 色々とやっていくうちに、改善がなされていきます。 ここで喜ばしいと感じます。 こうした過程を楽しいと思うわけです。勿論、これは外にもそう見えます。 こうした人は魅力的に移り、他の人と別格に感られ、輝いて見えます。 主観で思っていることは意外と単純ですよね? それでも他を制するほどの印象が外に漏れるのです。 これが、主観と客観が直角にずれている部分です。 ここで疑問に思いませんか? 「それくらいのことは自分も結構やってます」 ですよね? しかし、 「そのとき、近くにいる第三者が、 自分を羨ましいと思って憧れてみている」 とは夢にも思いません。 全く関係ないそぶりで、自分の視野の外から自分を見ています。 またそのとき自分は、他の人のことを考えていますから、 関係ない誰かの視線など考える余裕がありません。 ですので絶対気がつけないんです。 さてこうなると、手ごたえを感じませんから、やらなくなります。 もう既に成功しているのに、他に良いものがありそうと考えたら、 永遠に答えを得られません。 多くの人が、 「自分の事だけではなく他人の事を思いやるのが大事」 と昔からいってますが、 主観では手ごたえを感じられない仕組みになっています。 なので積極的にやろうとしません。 ですから、他人に素敵に見える打率がさがってしまうんですね。 これには平均があり、そこに落ち着くと凡庸であると言われます。 誰かにとって素敵に見える人は、素でそういう性格の人かもしれません。 しかし実際は、「他人には、こう見えているはず」という事を良く知っていて、 自分の姿勢を律するのが、本当の成熟です。 意識して制御しているので、非常に安定するからです。 ということは、 これを知らないと、大人として成熟できないのです。 答えは簡単ですが、感覚的にはきがつけません。 多くの人生経験があって稀に自分で気がつけるものです。 しかし、最初からそう教えても結果は同じになります。 良家の教育や道徳とは、 (私が話した答えを)子供のうちから習慣として身につくように考えられています。 反すれば他の評価が効果的に逆になります。 これは不用意に苦労を背負うことに成ります。 誰だって、 社会において、他の人に魅力的だと思われ、 自分でも自分が素敵だと思えないと、 これは生きていて楽しくないですよね。 ですので、 「主観と客観は直角にずれており、喜怒哀は他人に対して他人事で感じ共感し、 解決しようとして情報を集め、仮設を立て、お節介を焼いて、 これで少しでも良くなったので喜ばしいと感じるようにしておけば、 しめしめ、きっと誰かは(顔に出なくても)私に憧れているはずだ」 という考えを持って行動するのです。実際にそうなっています。 これが質問者さんが他人に感じたことです。 しかし、他の人が自分を羨ましいと憧れていても、 さきほど説明した様に感情表現はでません。 手ごたえが感じられません。無益に思えます。 しかししばらくたって、段々と自分の周りが自分を認めてくれるようになります。 ご質問の内容は、「楽しくおしゃべりをする」ための秘訣でしたよね? 答えとしてこれも含んでいると思います。 話す内容を、相手の悩みの解決。どこかの誰かの喜ばしい話に限定するのです。 これで打率があがるということです。 としたら、楽しそうに話す人は、「気軽な心持ではない」ですね。 実は大変忙しくて疲れます。 その原資は健康にありますから、肉体を健康にたもつ必要があるのです。 以上、ご参考になれば。
お礼
やはり人間関係は難しいものなのですね。 とても心揺さぶられました。 ありがとうございました。