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「自由」の意味

とあるドラマで、自由とは何か、を議論していて気になってウィキペディア他色々見回してみたのですが、正直いまいち理解や納得ができていません。 そもそもそのドラマのなかでも「自由」の主張について、いくつか納得できない部分があり、上手く私自身の方でも結論が出ない感じでした。 そもそも、自由とは○○です、と結論付けられる話でもないかも知れませんが、もしどなたか、結論付けや、自由とは○○である。みたいな感じで簡潔に万人に納得させられるような表現があれば、どうかアドバイスや教えて頂けましたら幸いです。 変な質問で申し訳ございませんが、どうぞご回答お待ちしております。

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noname#224207
noname#224207
回答No.6

>正直いまいち理解や納得ができていません。 お気持ちは良く分かります。 「自由」という言葉は多くの概念を含んだ言葉として発達してしまったのが原因と考えます。 いろいろな説明も議論も、このいろいろな概念の一部だけ取り出して説明や議論の対象にしています。 どの部分について議論しているのか、ということを見極める必要があります。 手がかりとしては、反対語は何か、とお考えになられるとよろしいかと思います。 規制:おきて、きまり 規正:きまりをたてて正しくととのえること 限定:人数、数量、程度などを限ってきめること 拘束:つなぎとめて、自由に行動させないこと 固定:ひとところにさだまって動かないこと、うごかないようにすること 制限:みとめられる限度をきめること、きめられた限度 制約:条件をつけて制限すること 束縛:しばること、制限を加えて自由をうばうこと 統制:まとめ、おさめること 抑圧:発展するものをおさえつけること 抑制:おさえること 抑止:おさえてとめること 日本国憲法などで使われた場合の「自由」は上記の反対語に対する意味で使われています。 つまり、「法」という枠の中での議論です。 一般に使われている場合にはむしろ違う概念を言いたいときに使われています。 異なる概念については類義語で置き換えると理解し易いかtと思います。 勝手:わがまま、きまま 気まま:思いのままに行動するようす 解脱:俗世間の悩みや束縛から抜け出て安らかな悟りの心境に到達すること 自主:独立して、他の保護干渉を受けないこと 自在:しばられないこと、思うままになること 随意:思うまま、束縛・制限のないこと 任意:その人の心まかせにすること 涅槃:一切の迷いを離れた不生不滅の悟りの境地 我儘:自分の思うままにすること、 疑念が拡大したというか混乱している原因はWikipediaの冒頭の説明がヒントになります。 ○「フリーダム; freedom」と「リバティ; liberty」は、ともに自由と訳される。現在、この2つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いはいくらか異なっている。 同じWikipediaに以下の説明があります ○日本では往生楽土、楽市楽座の語に見られるように、「楽」を「自由」という意味で使う用法があった。 中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、二条河原の落書の「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。 福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。初めは、「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎると考え、あらためた。朝鮮語や中国語でも「自由」という単語が使われているが両言語ともに日本語と同様、近代以降元の漢文由来の意味より、日本語から流入した日本人による訳語としての意味が確立した。 他の回答者の方へのお礼の中に ○質問のきっかけは、日テレ系ドラマ「悪夢ちゃん」第4話の冒頭になります。 とありますが、 ここで示された生徒のセリフは上記の他の類義言葉に置き換えることができます。 彩未先生がしきりに言っているのは、枠の中で使われている「自由」についてです。 つまり、「liberty」と「楽」の話です。 生徒と彩未先生とでは、各々が異なる概念に立脚してやり取りしていますので、実は議論になっていません。 おそらくドラマの作者は、libertyの概念だけが「自由」の概念だととらえているのかも知れません。 あるいは、libertyの概念を尊崇すべきだと考えているのかもしれません。 (前後関係がよくわからないので、何とも言えません) このように、複数の概念をあらわす言葉ですので、単一な特定の概念を探求せずに臨機応変に考えてください。 蛇足 ヨーロッパ史で有名な宗教改革の話でも「信仰の自由」といっていますが、プロテスタントが主張したのはカトリックが決めた方法以外の方法で神を崇めることができる、又そうあるべきだということで、イスラム教や仏教を信仰しても構わないとは言っていません。 同じように、キリスト教圏で言われる、自由、平等、博愛もあくまでも唯一絶対なる神のもとでの自由、平等、博愛です。 異教徒にまでは拡大しません。 近年国際化で異教徒も含めて自由、平等、博愛の精神を及ぼすべきだということになっていますが、相変わらず、宗教を認めない国とはごゴタゴタやっています。

d-daisuke
質問者

お礼

とてもわかりやすいご説明ありがとうございます。 じっくり読ませていただいていたので、またどうお礼を書いていいかわからなかったので、お礼がちょっと遅くなりましたが、やはり「自由とは○○である。」というように一言では言い表せないものなのですよね。 何というか、会話によっては質問と回答がうまく一致するパターンもあれば、それぞれ異なる相手のもので噛み合わなかったり、またそもそもの概念が違ってたりする部分とか、議論するものではなく主張だったりする場合もあるのですね。本当にそう考えると「自由」という言葉が自由すぎて何だか難しいですね。 ただ、おかげさまで結論をうまく出せそうな場面については納得できる回答を出せそうな理解が出来ました。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (6)

noname#193391
noname#193391
回答No.7

特に難しい事ではないと思いますよ。 自由とは「選択肢」がある状態。 何を選択するかを自分で決められると言う事です。 当然ですけどその選択の結果起きた事には自分で責任を持たねばなりません。 成功する自由もあれば失敗する自由もあるって事ですね。

d-daisuke
質問者

お礼

なるほど。読ませていただきながらまた自分の中で色々考えて自分の中で難しく考えちゃってる部分がありますが・・(笑) ご回答ありがとうございました。

  • fxq11011
  • ベストアンサー率11% (379/3170)
回答No.5

人間その他、意思を持つもの、意思のままに行動するのに、何の制約も、差し障りもない、物理的・精神的に・・・。 その他自然現象に付いての表現でも使われま、曰く・・・は自由に移動可能・・・等。 つまり?他のものとは何の因果関係も持たない。 他といっさいの因果関係を持たず、自分の意思のままに動ける。 言い換えれば、無の世界に、自分一人だけが存在する状況?。

d-daisuke
質問者

お礼

ありがとうございます。ご回答頂いたところ失礼な発言になってしまったら申し訳ございませんが、ちょっとより深く難しい感じになった気がしますが、少なくとも子供に教えるには難易度の高い内容なのかなと感じました。 誤解を生むといけないのでお伝えすると、頂いたご回答が間違っていると批判しているとか、理解できないと批判しているわけではないです。何となく頂いたご回答は理解は出来るのですが、冒頭の通り、人に教えるとか議論をする際には、現状は私自身が正確に理解できない関係で難しいかなというところでした。 本来は先にもう少しよく読んでよく考えてからお礼すべきところ、先にこのようにお礼させていただき申し訳ございません。このあとも再度じっくり読ませて頂きながら考えて、1つの参考にさせていただければと思います。 変な内容になってしまい申し訳ございませんでしたが、ご回答ありがとうございました。

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.4

「自由とは、権利ではなく義務である。」 ニコライ・ベルジャーエフ 「取り返しのつかない自由」 「イワン・カラマーゾフの課題は遙かな深さに据えられてあり永遠に響き続ける。その課題は単にこの世の地上で流された子供たちの涙だけでなく、すべての意味と結果とを知る神から取り返しのつかない自由を贈られた膨大な数の生ける存在たちによる地上と永遠との双方における苦痛についてである。」 引用:「イワンと大審問官への答え─良き盗人」 http://plotinos.s59.xrea.com/archives/2004/10/post_13.html

d-daisuke
質問者

お礼

ありがとうございます。 良き盗人 イワンと大審問官への答え ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中には、その主要な登場人物イワンが語る「大審問官」の劇詩というのがある。これは思想史的に小さくはない影響を持ったはずで、ロシアルネサンスを彩った人たちやネオ・スラブ主義者たち、またベルジャーエフもたびたびこれを援用している。ロシアだけでなく実存思想のサルトルなどへの影響もある。またニーチェはドストエフスキー自体に強い親近感を抱いていたが、事実その世界観に共通する側面がある。 まずイワンは、残酷に殺されていった子供たちの例を出して、これを「神の調和」に対置する。 カラマーゾフReading~「大審問官」 http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro-t.html 「したがって、より高き調和などは平に御辞退申し上げるよ。そんな調和は、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固めて、われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら値しないからだ! なぜ値しないかといえば、それはこの涙があがなわれることなしに打ちすてられているからだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない、さもなければ調和などというものはあり得ない。[中略] 僕は許したいのだ、抱擁したいのだ、人間がこれ以上苦しむことを欲しないのだ。もしも子供の苦悩が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすために必要だというのなら、僕は前もってきっぱり断言しておく——いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと。」 続いて、「大審問官」劇詩の中では老大審問官にイエスにむかってこう言わせている。 「それともおまえに大切なのは、立派な、力強い幾万かの人間だけで、その他の弱い、けれどもおまえを愛している幾百万の人間、いや、浜の真砂(まさご)のように数えきれない人間は、すぐれた力強い人間の材料とならなければならぬというのか? いや、われわれには弱い人間も大切なのだ、[略]」 上の二つの抜き出しに、共通して底に響いているのはキリスト教信仰に特有の、すべての人が幸せでありますように…、の人類愛だろう。この世に一人でも不幸な人がいる限りはキリスト教徒は喜べない。 キリスト教はまず人間の悪の自覚から始まる。悪の自覚をまってはじめて隣人愛が成り立つ。この悪の自覚なくしてはキリスト教の内面にあるダイナミズムは生まれない。人間の悪に敏感になり自分の中にもそれを認めて、極めて強く内面化され自覚される。時には良心の呵責として尋常ならざる強度をもって絶えず自覚される。この悪の自覚という極めて個人的な動機から、次にはイエスの受難を通しての、対極の全人類的な博愛が起こってくる。「心理的なもの」としての人類愛とはこういうもののはずだ。個人的な悪の自覚と神の子イエスの犠牲、これら両者の隔たりに、その途方もない距離の間に、人類への博愛が「心情的」に現実に感じられてくる。 そうであるならば、やはり約束されたパラダイスでは一人の不幸もあってはならない。上の二つの抜き出し箇所に底流しているのは、このキリスト教的博愛が極端に拡大したその心情的な一端であろう。全般を通してイワンはこの心情に訴えて、一人の幼子の涙を盾にして、「神の調和」を非難する。 他に、ここには地上の出来事はすべて地上だけで完結するというもう一つの理解が、人間の存在に対する自然科学的な理解がある。「エズイタ派」を例に出してイワンは、キリストが地上を離れて以来もはや地上は地上だけで完結してあるかのような世界観を披露している。『もうおまえはいっさいのことを法王に任せてしまったのじゃないか、今はいっさいが法王の手に握られているのだ、[…]』 そして神権政治とでも言うのか、全体主義的で即物的な地上の生活と平和を老大審問官に語らせている。そこに描かれる世界はいわば俗っぽい宗教である。現世利益的な子供っぽい信仰である。人間にパンを与える、人間の弱さに即してその罪を大目に見る、だが人間の自由の意志を許さない。これは結局、神という超越的なるものを知らない、地上だけで人間は完結されてあるという自然科学的な人間理解、世界理解である。キリスト教によって刺激されたはずの人類愛がなぜか変形されてキリストの名を借りた俗っぽい神権政治の正当化に使われている。これはかなり歪んだ物語、歪んだ老大審問官の偏狂と言わなければならない。 それにもかかわらずこの物語がベルジャーエフはじめとした思想家に重要であるのは、人間の自由意志について感動的に劇的に考えられてあるからであろう。イワンという人物は極めて良心的で、そして科学的世界観を、教養を身につけた、なににも意識的な現代人である。現代人の多くと同じように、イワンはこの科学技術によって表現される原理が世界を創ってあるのだし、またこの世界以外には人間は関わり得ないし知り得ないという知の限界のうちに囚われてある。少なくともそうした傾向がある。この点を受けて、これに反して、ベルジャーエフは実はグノーシスをまた神秘主義を掲げる。ベルジャーエフのグノーシスは、現代的意識の中にも超越的世界を呼び起こし、科学的世界観を物理的時間をも含めてすべて墜ちたものとして断罪する。 ベルジャーエフ、「ロシアにおける神智学と人智学、1916」、trans. by Fr.S.Janos, 1999, http://www.berdyaev.com/berdiaev/berd_lib/1916_252b.html 「ただ神智学的な意識のみが宇宙の隠された偏在を、一つの地平から他の地平へと激しく降り注ぐ宇宙エネルギーを、科学的意識が永遠で変わることがないとみなしまたは宗教的意識があまりに偏って関わる質料の自然世界秩序優位のその一時的でしかない特性を、感知する。」 ここで言われてあるのはもはや神秘主義のことであって、これがゆえにベルジャーエフは「白昼の神秘家」とも評される。だが知の限界に囚われてある大審問官もイワンも、この境域を突破してゆかなければいつまでも自らの暗い意志に悩まされ続けるし、キリスト教的な人類愛は皮肉にも人間を悪魔的にする歪んだ動機となってゆきもするだろう。地上で流された幼子の涙が地上では理解し得ずとも、境域を突破して意味をもつという意識のみが、この世の一時的でしかない墜ちた特性を理解する。これがベルジャーエフの、大審問官への答えだろう。 最後に付け加えればベルジャーエフのドストエフスキーからの影響はこれだけではなく複合的ではあるだろう。 ベルジャーエフ、Journal Put', feb.1930, No.20, p.47-79 by translator Fr. S. Janos, 2002: The Teaching about the Ungrund and Freedom. http://www.berdyaev.com/berdiaev/berd_lib/1930_349.html イワン・カラマーゾフの課題は遙かな深さに据えられてあり永遠に響き続ける。その課題は単にこの世の地上で流された子供たちの涙だけでなく、すべての意味と結果とを知る神から取り返しのつかない自由を贈られた膨大な数の生ける存在たちによる地上と永遠との双方における苦痛についてである。 ここでベルジャーエフは伝統的神学のその救済論を、喜劇的で神ひとりの遊戯のようであるとして難じている。イワンの大審問官物語がここでは合理的伝統的な神学体系を批判するのに用いられてある。 Amazon: 「カラマーゾフの兄弟」 失礼を承知ですが、とても難しいご回答と感じてしまいまして、つまりどういうこと?という感じで私自身は今現在はうまく理解できていません・・。 理解できる範囲で、1つのご回答として参考にさせていただきます。ご回答ありがとうございました。

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.3

自由とは自分の好きなことをしてもよい、ただしその結果起きることにすべての責任を負うことである。 だと思ってますがどうでしょう。 迷惑をかければすべて後始末を自力でしなければならないのです。 それが嫌なら現実と折り合いをつけなければなりません。

d-daisuke
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、一理あります。先のご回答者様のお礼にも書かせていただきましたが、ドラマ作中だと、2ちゃんねるなど(作中はブログ)に批判を書くのも書く人の自由だとか、犯罪に繋がるような内容であっても漫画を書くのやそれを見るのも各々の自由だとか、○○先生の授業を受けたくないから受けないのは受けたくないと思う人の自由だとか、そんなことが出ていたので、まあフィクションを持ち出して申し訳ないのですが、その場合自由を実行して起きた事への責任を本人が負う、というだけで済むのかな、と思ってしまいました。 もちろん、というか、私も考え出す直前までは、大いに頂きました回答通りの事も一理として思っていた内容でした。また先のご回答者様から頂きました辞書の意味も一部は思っていた事と重なる部分がありました。もちろん今でも間違いがないとは思っています。 これも先の方へお伝えしたものではありますが、国語力がないくせに上記のような発言をしてしまい申し訳ございません。 頂きましたご回答、十分参考になりました!ありがとうございます!!

  • neKo_deux
  • ベストアンサー率44% (5541/12319)
回答No.2

まずは、前提条件の確認が必要だと思います。 いつ、どこで、誰が、誰/何に対して、どういう風に「自由だ」って話の「自由」なのか?とか。 > ウィキペディア他色々見回してみたのですが、 辞書なんかの方が、スッキリまとまってると思います。 じゆう【自由】の意味 - 国語辞書 - goo辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/103174/m0u/%E8%87%AA%E7%94%B1/ | 1 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。 | 2 勝手気ままなこと。わがまま。 | 3 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。 | 4 法律の範囲内で許容される随意の行為。 前述の前提条件がハッキリすれば、どれかに当てはまると思います。

d-daisuke
質問者

お礼

きっかけや題材を書いてしまうと、「自由」という言葉自体を知りたいところ、「○○に対しての自由」などと書いてしまうとそれに対しての意味になってしまい回答が片寄ってしまうかと思ってあえて書かなかったのですが、逆にわかりづらくなっていたら申し訳ございませんでした。というより、この上記の文自体がわかりにくいですよね・・。国語力がないくせにこんな質問をしてしまい申し訳ございません。 質問のきっかけは、日テレ系ドラマ「悪夢ちゃん」第4話の冒頭になります。一応台詞は引用になりますが下記の通りです。 (彩未) 「自由」とは何ですか? 答えられる人。 はい≫ はい≫ (彩未) 誰でもいいです 自由に答えなさい。 (綾乃) 周りに流されず 自分の考えで判断し 行動することです。 (彩未) なぜ そう思いますか? (綾乃) そう習ったからです。 (彩未) では 周りに流されず 自分の考えで 今日は学校を休みたいと思い そのように行動することは 自由ですか? (綾乃) それは 自由ではありません。 自由の意味をはき違えてます それは 自分勝手です。 (彩未) それは 不登校です。 不登校を全て 自分勝手だと いってもいいのですか? その人の抱える悩みや 取り巻く環境などを考えずに 「それは自分勝手だ 自由の意味を はき違えている」と そのように発言することは あなたの自由ですか? それとも自分勝手ですか? (綾乃) そ… そこまでは分かりません。 (彩未) 「そこまでは分からない」。 自分のことなのに分からない。 それが自由なのか 自分勝手なのかさえ分からない。 分からなくてもいいのです。 そう思うことが自由なのです。 学校で教わることの自由とは むしろ 分かることではなく 自分の中に 分からないと 思うことを増やすことです。 先生が何を言おうと そう簡単に 分かった気に ならないでください。 これが考えさせられるようになった及び質問のきっかけでした。というより、私自身「前提条件」の意味を間違えて捉えてしまい上記のような解説をしてしまっていたら申し訳ございません。 もちろん私自身おもいっきり脳内で自分同士で議論してしまって収拾がつかない部分があったのと、辞書の結果だと結局後述のような話になった際に説得力が無くなってしまうのでは、と思いこんで見たもののあまり参考にせずにいてしまいました。逆にウィキペディアの方は、色々理解できない上に長くて混乱してしまいました。 要望を率直に書くと、一番わかりやすい例えだと、子供に「自由ってなあに?」と聞かれて、そのあと「○○だよ」と答える部分、そしてその先に子供が「じゃあ○○は・・」とかとつっこまれそうな事を予測した範囲で正しく教えられるような回答を出来るようなものが欲しい、という事を思っていました。それが結局、大人にも通じる、結果老若男女万人に通用する回答になるかなと、私自身勝手に思い込んでいましたもので。 悪夢ちゃんの話でいくと、この回の直前とこの回の中の後の方でも、上手く言えませんが意味をはき違えているのでは、と思う部分があり、そのような方向の話にならないようには、あるいはそのようになったときにぐうの音も出ないとか一蹴で済ますのではなく正しく正すにはどうしたら良いのかな、と、まあフィクションにはまりすぎで申し訳ないのですが、そんな風に考えてしまっていました。 というところで、「自由」の意味を自分も相手も納得できる説明が出来たら良いな、というのが今回求めていた回答で、それに対しての質問でした。 本当に文章力および国語力が無いのに申し訳ございません。というより、国語力がないのでこのようにこだわってしまっているのかもしれないのですが・・。 彩未先生の言いたいことに関しては、辞書の3番か4番なのですかね。そうすると、上記のようになった場合、そのあたりの説明が出来たら完璧ですかね。 すみません、色々ごちゃごちゃ書いてしまいまして。辞書の意味の掲載、改めて見させていただき、私自身も回答を募集しながら考えて当てはめられる及び理解するよう、また理解させられるようにしたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • bio33
  • ベストアンサー率0% (0/22)
回答No.1

自由とは○○である と 簡素化しにくいので   http://www.k-keiichiro.jp/jiyuunituite.html

d-daisuke
質問者

お礼

 現代人は、自由という言葉が好きだ。何かというと、すぐ、自由、自由と言いたがる。そして、自由になりたいと叫ぶ。しかし、どれだけの人が、自由の真の意味を知っているだろうか。  自由主義。自由経済。言論の自由。ちまたには、自由という言葉が氾濫している。現代社会では、自由といえば、たいがいのことが許されてしまう。それほど、自由という言葉には、現代社会において魔力がある。それなのに、どれだけの人が、自由の言葉の意味を明確に答えられるであろうか。結局、大多数の人は、自由という言葉を、自分勝手に解釈し、自分の都合のいいように、使っているのである。  自由とは、人間の生き方の本質に、関わる問題である。つまり、人生いかに、生きるべきかと言う、根元的な問題に、関わる重大な要素である。生き様の問題なのである。自由を間違って認識すると、人生そのものを間違ってしまう。そういう問題なのである。だからこそ、自由とは何かを、明らかにすることは、生きていく上で、避けて通れない重要な問題なのである。  自由と自在とを混同している者がいる。自在とは、対象を自分の意のままにすることである。そういう連中は、相手を自分の思い通りにすることが、自由だと思っている。しかし、相手を思い通りにしようとすれば、するほど相手に囚われていってしまう。人は、自分の肉体ですら、自分の思い通りにはできないものだ。思い通りにしようとすればするほど、不自由さを味わうことになるであろう。  欲望を解放することが、自由になることだと、錯覚している者がいる。しかしそれでは、欲望の奴隷になってしまい。かえって、不自由な思いをすることになるであろう。欲望に身を委ねれば、飢え、かつ、渇く。飢餓は、最も不自由なことだ。  人生には、限りがある。欲望には、限りがない。限りある者が、限りないものを支配しようとすれば、己を失ってしまう。自己を失ってしまったら自由などあり得ない。  つまり、これらの在り方は、自由に見えて、実は、自由の対極に位置するものだ。  自由を求めながら、自由とはまったく正反対の方向に進んでしまう。求めれば、求めるほど遠く離れていく。なんと不幸な生き方であろう。なぜ、このような間違った生き方を選択してしまうのか。それは、自由の真の意味を知らないからである。  自由という言葉の意味を、正しく理解していないと、自分の人生を誤るだけでなく、周囲の人間をも巻き添えにし、重大な過ちを、犯させてしまう危険性がある。なぜなら、自由の概念は、現代社会の基礎をなす概念であり、社会制度の隅々にまで浸透しており、現代人の価値観、行動規範の基幹をも、支配しているからである。つまり、自由という概念は、現代人の人生すべてを影響下にいれていると言っても過言ではないからである。  今や、自由という概念は、現代社会の根幹にまでなっている。自由主義国にとって自由は、その国家の国是にもなっている。それでありながら、自由という言葉の意味は、曖昧なままである。ここに、現代社会の重大な落とし穴が、潜んでいる。  私は、これから、自由の言葉の意味を、明らかにし、現代社会に潜む問題点を、解明していきたいと思う。  では、自由とは、何か。自由とは、先に、述べたように、自己を解放することである。そして結果的に、自由の帰結するところは、自己実現にいたる。自己実現は、意志と愛によって達成される。故に、自由は、主体的な意志と愛によって育まれる。このような自由とは、必然的に、自己中心の究極的な在り方を、意味することになる。自由は、自分自身の問題なのである。  故に、自由の意味を知るためには、まず、自己、すなわち、自分を、知る必要がある。自由に生きるためには、自分とは何か。自分のあり方を見つめ直す必要があるのである。 こちらですね。ありがとうございます。 なんとか上手く人に回答できるようまとめられれば良いのですが難しいですよね・・。 ありがとうございました。