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竹島の問題 韓国側の視点
日本で市販されている本のほとんどは日本からの視点で書かれています。 韓国側の視点で書かれていて、 なおかつ、日本語の書籍がありましたら教えて頂けませんでしょうか その本についてご存知であれば短評もあればありがたく思います。
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良い質問ですね。 私を含めて何かというと嫌韓思想。 韓国とは距離を開けて付き合え出来れば国交断絶、最低でも経済制裁。 しかし久しぶりにいい質問に出会いました。 確かに相手の言い分をとにかく真っ白な気持ちで聞くというのはすがすがしくていいですね。 私は歴史に関しては判りませんが このような やりとりはいい事だと思いました 回答でなくごめんなさい ありがとう 質問者様
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- r5305
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独島(ドクト)/竹島 韓国の論理 金 学俊著 などあります。 ウィキペディアによる竹島の解説ページにも、終わりの方に韓国主張の参考文献が列記してあって、ワンクリックで簡単に見られます。 まあ、日本の利害抜きに心をまっさらにして韓国の主張のみを熟読すると、これはやっぱり韓国領なのかも、という気になります。 それだけ説得力があります。 ただ、この問題の眼目は、 「竹島が日本に領有された際、日本と韓国が竹島を韓国領と認識していたかどうか」の一点ではないかと思います。 それ以外は、話をややこしくするだけです。 韓国は、「日本が韓国支配のさきがけとして、まず韓国領である竹島を奪った。韓国は外交権も奪われ、文句を言える立場になかった」というロジックです。 しかし、そうだとすると、どうしても疑問が残ります。 日本の竹島領有当時、韓国の外交権は昨年(1904)の第一次日韓協約によって事実上、日本に奪われていました。 竹島が韓国領であった場合、「竹島=韓国領=事実上日本の支配下」ということです。 つまり、日本が竹島を管轄し、そこを航行するロシア船を取り締まる権利もあったということになるわけですから、わざわざ日本の領土に編入する必要がどこにあったのか、ということです。 それよりも、「竹島が韓国領でなかったからこそ、竹島を日本領に編入し、周辺を航行するロシアなどに睨みをきかせる必要があった」というロジックの方が、どう考えても自然です。 おまけに、韓国で小規模ながら日本の竹島領有に抗議の声があがっていたところ、日本は韓国に書類などで説明させたところ、竹島は韓国の管轄権に含まれていなかったため、抗議は速やかに収まったという話もあります。 このあたりが、韓国にとってはが最大の弱みですね。 しかし、まずは韓国の主張に耳を傾けることが大切だと思います。
お礼
ありがとうございます。
- jagd4
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書籍ではありませんが、 【独島に関する大韓民国政府の公式的な見解】(動画も参照) http://japanese.korea.net/Government/Current-Affairs/Others/view?affairId=83&subId=233&articleId=1016 A:大韓民国政府は独島が韓国の管轄にあると確信している。この事実は地理的にも歴史的にも国際法に照らしても議論の余地がない。 日本の反論A:根拠を示さず、確信とか、余地が無い とかいう言葉を使っても、無意味。 B: 大韓民国の東の端に位置した独島は鬱陵島(ウルルンド)から南東方向87.4キロメートルに位置している。世宗実録地理志(1454)の記録には于山島(ウサンド・独島)と武陵島(ムルンド・鬱陵島)はよく晴れた日には互いに肉眼で観察できたと書かれている。鬱陵島の住民は昔から独島が鬱陵島に属すると信じてきた。これは根拠ある事実である。 反論B:「世宗実録地理志」には、于山島という表現だけで、独島という記述はありません。 なのに、「于山島(ウサンド・独島)」と注釈をつけて誤認を誘うのは悪質です。 C:新羅(57-935)は鬱陵島と独島を領土にした于山国(ウサングク)を512年に併合した。その時から公式的な文書に「独島」という名前が登場する。世宗実録地理志(1454)は鬱陵島と独島を武陵島と于山島として記録しており、『高麗史』(1451)、『新増東国輿地勝覧』(1530)、『東国文献備考』(1770)、『万機要覧』(1808)、その他多数の文書により于山島が独島の昔の名前であったことが証明される。これにより20世紀初めまでの数 世紀間、于山島が現在の独島を指していたことがわかる。 反論C:それらの古文書では、于山島の位置が明確に示されていません。 そして、独島と呼んでいる島が、日本が認識している「竹島」だという根拠もありません。 更に、韓国の地図や文書は「日本の竹島」の位置を明確に示したものはありません。 D:肅宗(スクチョン)時代(1674-1720)、朝鮮の漁夫安竜福(アン・ヨンボク)が日本の漁夫に拉致される事件が発生した。拉致問題を解決するために朝鮮と日本間で外交交渉が行われ、この問題は徳川幕府政権が1696年すべての日本人の鬱陵島渡海禁止令を命ずることにより一段落ついた。 反論D:これは鬱陵島を朝鮮領と認ただけで、竹島とは無関係です。 それに、安龍福はただの平民で、李朝の特使を騙って日本へ行きましたが、途中で偽者とばれて国外追放されています。 E:日本の明治政府(1868-1912)の国家最高機関である太政官は日本の内務省の島根県の領土整理に関する質問に対して1877年「鬱陵島と独島は日本と関係がない」と指示した。 反論E:これは少々ややこしい事情があります。 日本は、これ以前の1870年に自国の領土を調査しており、 それを纏めた「朝鮮国交際始末内探書」の中で「竹島」と「松島」は朝鮮領だという記述があります。 しかし、↑の竹島や松島が「今の日本の竹島」か?という問題があります。 当時の航海や測量の技術は未熟で、島の位置関係どころか存在しない島も地図に書かれていたりしました。 そして、朝鮮の技術は更に低かったのです。 竹島に関しては、その記述内容から明らかに鬱陵島のことだとわかります。 なので、問題は、松島=竹島(独島) となります。 当時の朝鮮の地図には、鬱陵島と並列してアルゴノート島(実在しない)が書かれており、これを松島とした可能性があります。 当時の日本は、竹島を松島とも呼んでいました。 (由来は竹が生えていたからではなく、等級を現す 松竹梅 による) また、鬱陵島には、傍らに竹嶼(島)という小島が存在しています。 (シーボルトの持っていた地図では、鬱陵島が松島、アルゴノート島が竹島になっています。) だとすると、松島は鬱陵島の傍らに実在する竹嶼(島)という可能性があります。 このように、当時は島名の混乱が激しく、竹島・松島がどの島を指すのか、朝鮮政府にしても日本政府にしても、島々の把握が十分ではない状態でした。 問題の1877年の文書とは「竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし」とした太政官指令文書のことだとおもいます。(画像が不鮮明なので、判断できませんが) これまでの事から、この竹島=鬱陵島です。 問題は「外一島」ですが、これもこれまでの事から、存在しないアルゴノート島であると思われます。 日本が「外一島」含めた理由ですが、これを外すと日本国内で失業した武士等が、入植させろ!と騒ぎかねず、当時の政府としては、内政で手一杯な時に外国と問題を起したくないと思っていたからです。 以上から、この文書は、 「鬱陵島と、朝鮮が言っている、【どこにあるかも判らない島】は、朝鮮領で構わない」 と言っているに過ぎません。 それ以前に、本当にその外一島が日本の竹島だとしても、 それは日本の領有を放棄→だれのものかわからない島になるだけです。 それによって、即朝鮮の領土 となるわけではありません。 F:高宗(コジョン)時代である1900年、大韓帝国は勅令41号を発表して当時石島(ソクト、現在の独島)を鬱島(ウルド)郡(現鬱陵島)に帰属させた。1906年、鬱陶郡主シム・フンテクは、独島が島根県の調査団によって日本に合併されたという話を聞き、矛盾した画策に対応するために江原道観察使に報告した。 この勅令によって韓国領とされたのは「石島」です。 勅令の内容ですが、 鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件 第一条:鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し郡等級は5等にすること 第二条:郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島(鬱陵島の北東に位置する竹嶼)、石島を管轄すること となっています。しかし、石島に該当する島は未だに発見されておらず、存在自体が疑問視されています。 韓国は、この文章の石島=竹島(独島)と主張していますが、その根拠は、 全羅道や慶尚道の方言では石も独も「トク」と呼んでいた。 と言うことだそうですが、根拠としては非常に弱いと思います。 それに、1899年に大韓帝国学部が作成した「大韓全図」という地図がありますが、 これには竹島は記載されていません。 1900年になって発見されたというのなら、それ以前の于山島=竹島(韓国では独島)は誤りとなります。 また、その地図では「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としています。 (竹島はその行政区の外、131度55分にあります。) ということで、石島=竹島とするには無理があります。 G:議政府指令3号 1906年、大韓帝国最高意思決定機関である議政府は指令3号を発表して日本の独島併合に対する不当性を指摘し、この問題に対する再調査を指示した。 反論G:調査の成果が示されていません。 H:日本の帝国主義の野望により起きた日露戦争中、日本は島根県領40号を通じて独島を併合する。これは明らかな国際法上不法行為であり、どのような場合にも正当化されない。昔から大韓帝国に至るまで韓国が管轄してきた領土を侵略した明白な主権侵害だからである。 反論H:A~Fの主張が正しいと証明されない限り、この主張は意味がありません。 I:韓 国は1910年日本の支配下に入り、殖民地支配は1945年日本の第2次世界大戦の敗戦で終決した。1943年アメリカ・イギリス・中国はカイロ宣言を採択して日本が武力で奪ったすべての領土を返還することを要求する。1945年韓国の独立と共に独島は韓国の領土として返還された。これは1951年サンフランシスコ条約で改めて確認された。独島は韓国独立後、今日に至るまで終始韓国の管轄下にあった。 反論I:内容に誤りがある。 効力があるのは、調印されたサンフランシスコ条約のみです。 カイロ宣言(というか会談)は、サンフランシスコ条約の非公式なプロトタイプに過ぎず、国際法上の効力は全くありません。 その条約で連合国は竹島は武力で奪ったものではなく、日本が無主物として合法的に取得した領土と認めているので、返還(というか、元々韓国の領土だったという主張)は否定されています。 J:韓国政府は独島が終始韓国の領土だったという立場に変わりがない。韓国政府は独島問題を外交的交渉や法的決定の対象として見做さず、独島の韓国支配を否定するどのような主張にも強く対応する。 反論J:それを言うのは勝手です。 そして、日本にも反論する自由があります。 日本の領有の正当性ですが、 1905年:日本は竹島を無主物として判断し、領土宣言をしました。 世界もこれを認めています。 日本は江戸時代から竹島の位置を把握して、領土と認識していたのですが、 明治政府が国境を明確にするッ必要を感じた為に、世界に公式に宣言しました。 これに対して、当時の大韓帝国からは、異議が出ていません。 竹島を領土と認識していたなら、これは不自然です。 これについては、韓国は日本に外交権を奪われたからだと言っていますが、 韓国の外交権が日本に移ったのは1905年11月です。 竹島の編入は同年2月22日なので、抗議はできるはずです。 (実際、韓国は、日英同盟における韓国の地位の件で1905年10月17日に抗議をしています。)
お礼
ありがとうございます。