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自分の頭で考える事
「自分の意見を言えるようにする」というのは、自己を高めるための目標の一つとされています。 私自身にとってもこれは課題でありますが、その為に本を読んだり、或いは優れていると思われる様な人の話を聞いたりすると、「私が漠然と思っている事が形になっている!」と感じる事があります。 そういう時はすっきりと思考がまとまって嬉しくもあるのですが、同時に結局の所、私の様な凡才がいくら知恵を絞った所で、既に先人達によって言明されている様な事しか言えないのだろうな・・・、と虚しくもなってしまいます。 「私が考えられる様なものは、他の人が既に考えた物事である」ならば、自分で思考する事など無意味なのではないでしょうか? 上記が最近の私の悩みなのですが、皆さんはどう思われますか?
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>「私が考えられる様なものは、他の人が既に考えた物事である 自分で思考する事など無意味なのではないでしょうか? それは真ではありません。そうおもって何もしないのは、最初から勝負を投げているのと同じです。 やってみなくてはわからない、そう思います。 基本的に、先人の考えたことを可能な限り知り尽くす、これが大学レベルでできれば貴方は相当なレベルの賢人になっているはずです。そんな人はそう々居ませんw。あとはそこからあなた自身の知見を付け加えていくのです。民間の実業研究レベルならそれだけで相当の働きができると思います。 研究所や大学の研究室でレベル以上のことを目指すのなら、はっきりいってきわだった独創性が必要でしょうが、ともあれ、どうせ目指すのなら金メダル、ノーベル賞でしょう。誰もがおなじ様に見えてそこそこ違いますので、可能性は皆無ではないと思います。
- TANUHACHI
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答が同じだからといって別に落胆するほどの問題ではないと思われます。むしろ「どの様なプロセスを経て『同じ回答』に至ったのか」を御自身のそれと比較してみる方が、更なる展開にもつながるのではないでしょうか。 「思考すること」が回答に至る道である一方で、同時に自らを「対象化して検証する」過程でもあると考えるならば、その方が「思索することの本的な意味と目標」に一歩近づいていると僕は考えます。
- pricedown
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たとえ既に他人が考案していたことだと後で判明するにしても、自分が考えついた時点では「暫定オリジナル」であることに変わりはありません。この暫定オリジナルを考案するトレーニングを積むことは決して無駄ではないと思います。この暫定オリジナルが真のオリジナルなのか二番煎じなのかは時の運ですし、トレーニングを積むことによって、「これは二番煎じの可能性が高い」という勘も鍛えられてきます。トレーニングを積まなければ、何も進歩しません。 具体例としては特許ですね。特許を出願するときは、誰しもが「これは間違いなくオリジナルだ」と信じて出願するのですが、後々の審査段階で実は二番煎じであったり、酷い場合には当該業界の常識的な内容であったりと、挫折を味合うこととなります。でも、その繰り返しをするうちに思考力が鍛えられ、真のオリジナル特許を発明できるようになるのです。 無駄とは思わずに、思考に思考を重ねるトレーニングが重要だと思います。
- kamikazek
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深く考えたことはございません。 なぜかというと、たとえすばらしい思想があるにせよ 先人の・・・、というのは、今現在残っているもののことであり、 遠い過去にはそれ以上にすばらしいものもあったかもしれないのに、現在には その微塵のかけらものこってないだけの話で。 偉大なる人物たちの多くにも、その発してた当時は だれも耳を傾けることなく、なくなってから世に広がったという例も多いですよね。 今現在残ってるすばらしい思想は山のようにあります。 しかし、それ以上に、おもてに陽の目を見ることなく だれもしらないまま消えていった思想も数多くあると思えてならないのです。 過去がすべて現在に残っていると思えますか? 不可能ですよね。 ですから、人は同じ過ちを繰り返し、そして 歴史関係の研究者の探求は終わることがないと思います。 しかし現在すべて保存が成功するのなら、 まったく人が気にも留めなかった思想が、遠い未来に活かされるということも、 なくはないと思えます。 質問者さまの思いは、過去や別の人物がよりよく表現していた。 しかし、それは「まったく同じ思想」とはとても思えません。 非常に近いというだけで、微妙には違っていると思います。 人は似たような発想はあるが、寸分狂わずまったく同じ発想はないと思います。 ですから、考えるというのは面白いと思います。