もっと現実的にお考えになることをおすすめします。
私の体験談など、誰も聞きたくないかもしれないが、かなり前に殺されかけた経験がある。犯人はすぐ捕まり、実は数百メートルしか離れてない所に住んでいたが、全く知らない人だった。その人は前科がなかったが、懲役の実刑が確定し、服役した。初犯なのに執行猶予が付かなかったという事実からも、重大な犯罪だったことが分かるだろう。「殺されかけた」というのはオーバーな表現ではなかった。
出所後は、近所の目をはばかるように、一家で遠方へ引っ越したようだ。
この体験で、死刑について考えるようになった。私は命拾いして今も生きているわけだが、もしあのとき殺されてしまっていたらと。
思うに、犯人を死刑にしてもらっても、しょうがないなあ。「犯人は命を以て償った。これにて一件落着」と言われてもなあ。
それよりも、死刑にせずに、服役中も出所後も働きづめに働いて、私の遺族にお金を渡せ。この世に残された私の家族が、楽に生活できることこそ、現実問題として一番大事じゃないか。
それに対し、ご質問者の考え方は「被害者の尊い命が奪われたこと」にこだわり過ぎていて、観念的だと思うんだよな。「命はお金に換えられない」などという観念に酔ってるんじゃないの?
しかし死んでしまったら、私の命はお金に換えて、家族には楽をしてほしいと私は願うのだ。これはきれいごとでなく、現実問題である。人は食べていかなくちゃならない。あの世から、「私はもう食べなくてよくなった。お前たちが腹いっぱい食べて」と家族に告げたい。
殺人犯を殺して、誰が儲かるの? 儲かる、儲からないの話じゃないと言うのか。
私は、西洋の伝説の、三途の川の渡し守のカロンのことを思い出すのである。死者がカロンに払う船賃を持ってないと、三途の川を渡れず成仏できないという。だから、ご遺体を棺桶に納めるときは、口の中に小銭を入れてやるそうだ。
世知辛いこの世におさらばしたのに、あの世へ旅立つのにもお金が要るという、深い話である。死んでからまで、お金の心配は尽きない。
この論に対しては、「お金のために殺人犯を生かすのか」という反駁が予想される。また、「生かしてやっても、どうせ殺人犯はお金を払わないのでは」という声もあろう。また、「死刑にしたうえで、被害者遺族には国がお金を出せばいい」という案も。
しかし、私が言いたいのは、
「死刑廃止派は観念的、死刑存置派は現実的と思われがちだが、実は存置派こそ観念的なのではないか」
ということである。
犯人を生かしておけば、犯人または犯人の家族からお金を取りうる。しかし、処刑すると家族からしか取れなくなり、可能性が減る。犯人の家族に支払い義務を課すことは、民法の考え方からいって難しい。
また、現時点で、「殺人被害者遺族には国が必ず補償する」という制度は完備していない。
実際、犯人が死刑になったうえで、犯人の遺族から被害者遺族が十分な賠償金を取ったという例は、あまりないようだ。「死刑になったことで償いを果たしたと、ご寛恕ください」と言われたら、請求しづらい。
お礼
明確なご回答ですね。 確かに、そのようなことであれば被害者の奪われた命を論じる必要はないですからね。 政府に反対したいだけということですか。