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なぜ人間を物理現象に還元して捉えるのか?

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題について問います。  人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません。  ならば 人間存在を物理現象にすべてにおいて還元して捉えることは やはり出来ない。こう帰結されるのではありませんか?

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回答No.18

こんにちは。 量子力学とマクロな現象との相性の悪さを示すものに《シュレディンガーの猫》というネコのお話があります。 《シュレディンガーの猫》のお話は、 たとえば、 http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/column5.html http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity3135.html 量子力学とマクロな現象とは、相性が悪いんですよ。 非常にパラドキシカルな状況が出現します。 『シュレディンガーの猫と観測問題』に書いてありますけれど、 「量子の状態を決めるのは、観測者の意思である」という物理学の学説も存在します。 《シュレディンガーの猫》と似たような話に《ウィグナーの友人》というものもあります。 http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity3157.html 現在においても、《シュレ猫》話は、エキサイティングでホットな話題です。 同時に、人間の知性の限界を教えてくれる、いいお話!! ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 ~~~~~~ これを言ったのは、たぶん、Pさんだと思うのですけれども、 これは表現として非常にまずい、誤解を生みやすい表現ですね~。 「全ての存在は、・・・無限に詰め込む」は、非常にまずい表現。 人間は、全ての存在の一つですから、この考え方に従えば、  ☆人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません。 という反論が出て当然です。 Pさんのこの文章は、  それができる、 あるいは、  原理的には、それが行える、 という意味になるので。 Pさんの言いたかったことは、 「肉体を構成する電子や陽子といった素粒子は…」 だとは思うのですがね。 これならばできるのかもしれませんが、 車をハンドル、タイヤ、エンジンetc.とパーツに分解したら、 それはもう車ではないんですよね。 あるのは、ハンドルやタイヤ・・・などのパーツであり、そこで述べることができるのは、パーツについてのみ。実際にそれらを組み立ては知らせてみないことには、車については、何もわからない。設計どおりにはいかないし、予想しなかった不具合が見つかることもあれば、予想以上の性能を示したりもする。壊れないように設計したしたはずの部品が、突然、壊れたりもする(笑い)。 人間の作る機械ですら、この有様です。 まして人間ともなれば・・・です。 物理学をあまり買いかぶらない方がいいですよ。 物理学ってのが、所詮、いくつもの仮設の上に成り立つ、近似理論に過ぎないので。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  Pさんのこの文章は、   それ(* 人間を無限に詰め込むこと)ができる、  あるいは、   原理的には、それが行える、  という意味になるので。  〔* 表現として非常にまずい、誤解を生みやすい表現ですね~。〕  Pさんの言いたかったことは、   「肉体を構成する電子や陽子といった素粒子は…」  だとは思うのですがね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですね 取り敢えず。  参照サイトは ミクロスコピックな現象への片寄りもマクロスコピックなそれへの片寄も 極論に過ぎるとも言っていますね。  ふうむ。厄介であり複雑ですね。  ● シュレーディンガーの猫と観測問題 ~~~~~~~~~~   ミクロ系とマクロ系を認めなければ、まず”観測の連鎖”を観測対象側と観測者側とに分ける切断点は上下どちらにでも自由に移動できる。検出器上などに特定される理由はないわけだ。  さらに、彼らは量子力学を、とくにその核心である「重ね合わせの原理」を、厳密に適用すべきだと強硬に主張する。これもミクロ系とマクロ系の区別を拒否するところから出てくる。  あとで詳しく議論するように、「重ね合わせの原理」(* 量子力学的には生状態と死状態の重ね合わせ状態にあるはずだ)に固執するかぎり、量子力学的測定の完成を意味する「波動関数の収縮」は実現しない。したがって、”観測の連鎖”がどこまで続こうと、観測者側を分ける切断点をどこにもっていこうと、物理過程としての量子力学的測定は完成しない。  結局、彼らは”観測の連鎖”の終端に”抽象的自我”とか”意識”を導入し、主体的観測者の「自我」が測ったと意識したときに、波動関数が「収縮」して測定が観測するといったのである。これにはちょっと驚く。形而上学的第三者の導入だ。ここにも不動の自然に対する人間の主体性復活という思潮が見える。  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ミクロ系とマクロ系を原理的に峻別しようという考えはやはりおかしい。すでに前章の「シュレーディンガーの猫」の項で述べたように、マクロ系も構成要素に分解すれば、ミクロ系の集団になり、量子力学の適用対象だからである。ミクロ系にもマクロ系にも区別なしに量子力学を厳密に適用すべきだとしたのは、ノイマンとウィグナーであった。  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いずれにしても、ミクロ系とマクロ系の峻別や完全同一視はあまりにも単純な理想化であり、単なる観念的遊技に過ぎない。  現在、物理学はミクロ(スコピック)でもなくマクロ(スコピック)でもない両者の中間にあるメソスコピックという現象を現実に見つけつつある。  ミクロとマクロの間には、はっきりした境界はない。私たちは、これから、この種の問題までを視野にいれながら、測定過程の物理に即して観測問題の核心に踏み込んでゆこうというのである。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)  ● ノイマン-ウィグナー理論と「ウィグナーの友人」  ~~~~~~~~  パラドクスの変形として、ウィグナーの友人というパラドクスがあるが、これは一段と面白い。猫の代わりに「ウィグナーの友人」を箱の中に入れるのだ。  「友人」を殺してはまずいから、毒ガスの放出装置の代わりにランプをおく。放射性同位元素が励起状態にあって放射線が出なければ、検出器の信号電流はなくランプは点灯しない。基底状態に遷移して、信号が出ればランプは点灯する。  すなわち、ランプの点灯と非点灯は、基底状態と励起状態に対応しているわけだ。「友人」はランプを凝視して記憶または記録する。たしかに、これも立派な放射性同位元素の状態測定である。ただし、箱は密室であり、ウィグナー先生は外にいるので、ランプの点灯状況を知るには、電話をかけてその友人に聞く必要がある。ただし、その友人は物理学者ではないので、ランプの点灯の意味を知らない。  この装置による測定をノイマン-ウィグナー理論によって考えてみよう。その場合、測定による「波動関数の収縮」いつ起こるのか、という問題を考えるのだ。  ウィグナー先生が「友人」に電話してランプの点灯状況を知ったときか、それとも「友人」がランプを見て記憶に留めたときか?  前者だとすれば、「友人」とランプが「シュレーディンガーの猫」の代替物だから、ランプの点灯と非点灯はウィグナー先生が電話するまでは決まらないことになる。そんなバカなことがあるだろうか!  後者だとすれば、”観測の連鎖”は「友人」のところでうち切られてしまう。  その次の段階、すなわち、ウィグナーの先生が電話をかけるという操作は、放射性同位元素の状態測定に何の影響も与えない。  したがって、この操作はその放射性同位元素の状態測定に関する(ノイマン-ウィグナー理論の意味での)量子力学的測定とはいえない。少なくとも、”観測の連鎖”の連結点の均質性が損なわれたことだけは明らかだ。  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   結局、このパラドックスはノイマン-ウィグナー理論の破綻を意味していると、私は思う。  だが、ウィグナーには、そこでも人間存在に単なる自然現象を越えるような意義を与えたいという思いがあるようだ。ウィグナーは自分の理論をあえて”正統的理論”という。  ノイマン-ウィグナー理論はその結論の奇矯さにもかかわらず --- いや「そのために」というべきかもしれないが --- かなり多くの物理学者や哲学者を魅了した。また、逆に激しい反発を買った。そこには明らかな哲学的立場の反映がある。  しかし、その理論に与(くみ)する人も反対する人も、ノイマン-ウィグナー理論を観測問題の議論の出発点に据える場合が多い。六十年にもわたる観測問題をめぐる論争は彼らの理論から始まったのである。それほどこの理論の影響力は大きかった。(量子力学入門 並木美喜雄 岩波新書より)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  けっきょく  ● メソスコピックという現象を現実に見つけつつある。  ☆ このあたりに課題が見出されているのでしょうか。

その他の回答 (18)

回答No.8

古典物理学と量子物理学をごちゃまぜにしている典型的な質問ですね。 それはあくまで量子レベルでの出来事。 マクロな世界には通用しません。 貴方は自在に壁をすり抜ける人を見たことがありますか? 2つ並んだ扉を1人の人が2人になったわけでもないのに全く同時に扉を開けて通りぬけ、通り抜けた先では再び1人であるかのように振る舞うのを見たことがありますか? これらは量子の世界では日常茶飯事ですが、我々が生きるマクロな世界では起こりえる可能性が極端に低い事柄です。 量子は非常に不確かな存在で、予測不能な動きをすることがありますが、多くの量子が集まると起こる確率が高い方に集まります。 私達が観測可能な宇宙全てのマクロな物質は例外なく量子がたくさん集まったものであり、きっちり情報を集めてミス無く計算できれば予測可能な現象が起こります。 しかし、実際にきっちり情報を集めるのは大変なことであり、計算が精密になるとほんのすこしのデータの誤りが予測を狂わせますので未来を予測するのは難しいのです。 天気予報が外れるのもデータの正確性や計算の精度を超えた部分で誤差があるためです。しかし、全く予測がつかないよりは予測がつくほうが遥に良いので、人間は物理を使って人間にかぎらず、宇宙を解釈するのです。 人間サイズであれば充分、物理の理論で説明がつき、また、有用なのです。 様々な物理現象の予測に用いる計算式は数多くのマクロな物理現象を何万回と観測してデータを積み上げられて求められており、それを体系化し学問にしたのが古典物理学です。 しかし、顕微鏡でも見えない程小さなものの計算を行おうとしてみると、多くの例外があり、実際に観測される現象も先ほどの例のようにマクロな世界にはないものになってしまいました。これを説明するために作られた理論の集まりが量子物理学です。 無限に詰め込むと無になるのかもしれませんが、実際には量子にも大きさや重さがあり、実際には無限につめ込むことはほぼ不可能です。(とても低い確率ではあり得る) 宇宙の始まりであるビッグバンとはその一点に詰め込まれた状態が解除された現象であり、それ以前のことはわかりません。 無限につめ込まれた状態は間違いなく「有」のはずで、それが「無」になるのは理解できません。 ブラックホールのことを指しているのかもしれませんが、アレは非常に高密度で観測困難、近づいたら二度と戻って来られないだけで、質量も、恐らく形もある、明らかな「有」です。 物理は専門外なのでわかりませんが、量子力学の公式に当てはめると「無」という解が得られるかもしれません。しかし、「無」は観測できないから「無」なのであって、「無」の存在を証明することは不可能なはずです。 観測可能ならそれは「名も無き有」です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(趣旨説明欄) ならば 人間存在を物理現象にすべてにおいて還元して捉えることは やはり出来ない。こう帰結されるのではありませんか?  ☆ これが 問いです。  ★ それはあくまで量子レベルでの出来事。 / マクロな世界には通用しません。  ☆ ですよね? という問いです。  ただし そのあとでは:  ★ 私達が観測可能な宇宙全てのマクロな物質は例外なく量子がたくさん集まったものであり、きっちり情報を集めてミス無く計算できれば予測可能な現象が起こります。  ☆ というのは マクロな物質についてと言いますか 要するに 人間存在にかんして言えることですか?    すなわち  ★ 人間サイズであれば充分、物理の理論で説明がつき、また、有用なのです。  ☆ というのは ほんとうですか?  つまり  ★ 古典物理学と量子物理学をごちゃまぜにしている   ☆ のではなく ほんとうに当てはまりますか?  すなわち  ★ 無限に詰め込むと無になるのかもしれませんが、実際には量子にも大きさや重さがあり、実際には無限につめ込むことはほぼ不可能です。(とても低い確率ではあり得る)  ☆ ということは 人間存在にかんしても成り立つということでしょうか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

”なぜ人間を物理現象に還元して捉えるのか?”     ↑ 人間は進歩発達しているように思えますが、 進歩発達しているのは、科学だけです。 従って、人間そのものをより深く理解しようとすれば それは科学に頼ることになります。 だから、人間についても、物理的に捉えるように なるのです。 法学などでも同じ現象が見られます。 これこれの条件を満たすと、こういう法的効果が 発生する。 これは物理的思考そのものです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。おっしゃることはごもっともです。  ★ これは物理的思考そのものです。  ☆ といったふうに取り上げられた・執行(行動)のための迂回的な思考経路 これがあるということ。そして これが用いられているということ。  ごもっともなのですが――おっと まづは へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます―― そうなのですが けっきょくそのような迂回生産するときの要素や部位や担当部局やらその他やらに分けて捉え それぞれにところを与えて仕事をさせるということ。これは じっさいにふつうに見られることです。  しかも このような科学的方法が必要にして効果的であることと そしてそのような要素にすべてを還元してしまうこと これらは ふたつの別のことではありませんか?  要素還元主義と呼ぶべき極論も そのほかにあってこれは まづいとの違いますか?  部分要素やそれの担当部署が すでに組織全体をそのまま表わすのだと言って 行動したらどうなりましょう。  法的効果の問題も その要素条件にかかわる範囲で思考されまた執行されるのではありませんか?  そしてこの問いは はっきりと限定しています。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この命題について問います。   人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようです。  どうでしょう。  

回答No.6

こんばんは。 これからかなりアバウトでアブナイ話をします。 現象を質と量であらわすことができる、そのように分けることができるとしたら、 この時、 物理は量を扱う学問です。 量としてあらわすことのできないものは、基本的に、物理の対象にはならない。 質の部分は、哲学などの他の学問にお任せする。 物理学は、この部分にタッチしない。 そして、さらに、 物理学で扱う対象とは、再現性のある物理的現象です。 人間のココロや感情などは、量としてあらわせない上に、 その都度、その都度、コロコロと変わって、 《再現性》がないので、物理では扱えない。 この時、行えるのは、 せいぜい、ホニャララという条件では、神経回路に流れる電流や電位、化学物質の授受程度です。 これならば、物理的な量として扱えますし、計測ができる!! 物理学は、これしかできない。 これ以上のことは、物理学としてやらない。 やったら、それは物理学ではなくなってしまう!! でも、 これは、たぶん、《再現性》がない(笑い)。 湿度、温度などなどの物理的条件をすべて同じにしても、 心理的な要因などで、 この測定値が変わってしまう。 物理学で扱う現象としては、非常に都合が悪い。 物理学は、定性的な学問ではなく、定量的な学問です。 そして、ここで使われるのは、数学というコトバ!! すこし極論をしますと、数式であらわせないようなものは、物理の理論ではない。 そして、 その理論の正しさは、《実験や観測結果のみ》に基づきます。 ですから、 ☆人間存在を物理現象にすべてにおいて還元して捉えることは やはり出来ない。こう帰結されるのではありませんか? ◇還元することはできませんし、したら、人間ではなくなってしまいます。 したら、人間ではなく、機械になってしまいます。 ただ、人間を機械として考え、そこで得た知見を人間理解のヒントにしようとする手法を否定するつもりはありません。 それはあってもいいですし、どんどんやるべきだと思いますが、 それはあくまでアナロジー的理解にとどまる、 ということを忘れてはいけないのでしょうね。 R世界(Real World)とM世界(Model World)をしっかりと峻別し、 この二つを決して同一視してはいけない、 と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。わかりやすいですね。  ねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、人間を機械として考え、そこで得た知見を人間理解のヒントにしようとする手法を否定するつもりはありません。  それはあってもいいですし、どんどんやるべきだと思いますが、  それはあくまでアナロジー的理解にとどまる、  ということを忘れてはいけないのでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アナロジー的理解は それとして役に立つことがあるのだと思います。次のように峻別を前提としていれば 人間存在とモノとのあいだで 双方向のアナロジーによる表現はありうるのかなと思います。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  R世界(Real World)とM世界(Model World)をしっかりと峻別し、  この二つを決して同一視してはいけない、  と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  回答No.5からもあらためて問いをかかげます。  Q-1 古典物理学的な《波》と量子力学的な《波動性》をゴチャ混ぜにして議論しているのでは?  Q-2 わたしが質問しているのは、《無限に詰め込む》の意味です。   (☆ 人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません)  Q-3 《闇》と《無》は違うのでは?  Q-4 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ■ なぜ落ち込まないかという理由として、   既に全ての負エネルギー準位にギッシリ詰め込まれているために、   存在確率の山が平坦になって、無と等しくなっている  ◇ これは、エネルギー順位のゼロのとり方のハナシに過ぎないのでは。  《真空》は、一般には何も《無い》モノと考えられているが、  実は、エネルギーなどを持っている、という話でしょう。  で、ここでいう《存在確率》とは何ですか?  ディラックの海に沈んでいる反電子一個の波動関数〔の二乗〕ですか?  平坦って空間的に波動関数が平坦、一様という意味ですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.5

こんばんは。 ☆波長のととのったレーザー光線を、ハーフミラーなどで 半波長ずらして重ねると、闇になります。 ◇これは光子の集まりのマクロ現象にすぎないでしょう。 しかも、 この話は、 古典物理学の意味での《波》のハナシ。 量子力学の《波動性》や《粒子性》とは、一応、無縁の話ではないですか? 古典物理学的な《波》と量子力学的な《波動性》をゴチャ混ぜにして議論しているのでは? これ、別物ですよ。 わたしが質問しているのは、 《無限に詰め込む》の意味です。 ☆闇と等しくなるのです。 ◇《闇》と《無》は違うのでは? 文学的な表現としては、同じものなのかもしれませんが。 ☆なぜ落ち込まないかという理由として、既に全ての負 エネルギー準位にギッシリ詰め込まれているために、 存在確率の山が平坦になって、無と等しくなっている ◇これは、エネルギー順位のゼロのとり方のハナシに過ぎないのでは。 《真空》は、一般には何も《無い》モノと考えられているが、 実は、エネルギーなどを持っている、という話でしょう。 で、ここでいう《存在確率》とは何ですか? ディラックの海に沈んでいる反電子一個の波動関数〔の二乗〕ですか? 平坦って空間的に波動関数が平坦、一様という意味ですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  素人目から見て 議論はやっとかみ合ったように見えますが 果たしてどうなりましょうか。  たいへんありがとうございます。  復唱することなどかないませんし ましてコメントなど出て来ません。  あしからずご了承ください。  見守っています。

回答No.4

#1の者です。 >人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません 超弦理論において、全ての素粒子は量子定常波の 励起状態である事が示されました。 量子とは光子です。 波長のととのったレーザー光線を、ハーフミラーなどで 半波長ずらして重ねると、闇になります。 エネルギー保存則に反するようですが、「同じ波長の 光線を半波長ズレた位相で同軸線上に重ねる」という 限りなく限定された条件=エントロピーの低さをエネル ギーに転換したといえます。 さて、ではその逆に、その闇は、どの波長の光線を 重ねたものでしょう?‥‥あらゆる波長の重ね合せで あり得ます。 つまり、無限に重ね合せた光線は、そのなかの1つの 波形を考えると、必ずそれを打ち消す位相の光線が 約束されるので、闇と等しくなるのです。 その一例として、素粒子はエネルギーを放出しながら 最低エネルギー状態に落ち込みますが、量子論効果に おいて負エネルギー状態に移り、その後はエネルギーを 放出しながらどんどん加速するという奇妙な状態になり、 その底なし沼に全ての物質は落ち込んでしまうはず、と いう指摘が、かつてなされました。 なぜ落ち込まないかという理由として、既に全ての負 エネルギー準位にギッシリ詰め込まれているために、 存在確率の山が平坦になって、無と等しくなっていると 指摘する学者がいて、その名をとって「ディラックの海」 と名づけられました。 彼は、その証明として、その真空にエネルギーを集中 すると、負状態の素粒子が正エネルギー状態に飛び 出すだけでなく、負エネルギー状態にギッシリ詰まった 中にできた空洞(正孔と呼んだ)が、反対の性質を持つ 正の粒子=反粒子として観察されると予言し、実験的 に証明されたのです(素粒子の対発生)。 日常的概念だけから考察されるのも結構ですが、その 結果が物理と矛盾するようではオカルトの類になります ので、勉強される事をお勧めします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ >人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません  ☆ という批判点を引用して始められていますが その反論になっているとは思えないのですが?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、無限に重ね合せた光線は、そのなかの1つの  波形を考えると、必ずそれを打ち消す位相の光線が  約束されるので、闇と等しくなるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこと自体も 《無限に〔重ねあわせる〕》というところで 納得が行きません。    けれども それが 《人間》なる存在をあつかうかたちにおいて 出来るわけがありません。  という批判であります。

回答No.3

こんにちは。 ☆全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 ◇「無限に詰め込むと…」 『んっ???』  ☆「無限に詰め込む」  ◇とは、なんとも感覚的で、かつ、文学的な表現。   これはどんな意味なのだろうか?   粒子の存在する空間をギュッと一点に収縮させるって意味?   それとも、   量子統計力学とかのハナシ?  ☆「存在確率の山が平らになって」  ◇なぜ、こうなる?   ───この前提条件や仮定ががわからないのよ。───   こういう結論にいたる過程を、数式で示してほしいな~!!   でないと、   この《存在確率》がどんな意味で使われているのか、わからない。   途中で、《確率》の意味が変わっているかもしれないし・・・。   ○○の確率が、△△の確率の意味にすり変わって使われているかもしれない。  ☆「無と等しくなります」  ◇《無》が定義されていない。   こんな文学的な表現では困る。   数式で、どうして、こうなるかを示していただかないと、   わたしは納得できないし、理解できない!! bragelonneさんに言っているのではないですよ。 ☆《相補的・complemental》??? ◇また、曖昧な、どうとでも解釈できる言葉が出てきたな~。 ───────── 相補性 相補性によれば、一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量は、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られるものとする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%A3%9C%E6%80%A7 ───────── くらいの意味だろうか? 量子力学的な話をしているので、 きっと、 こんな意味なんだろうな。 そうに違いない!! 他にもツッコミどころ満載ですが・・・。 ☆ならば 人間存在を物理現象にすべてにおいて還元して捉えることは やはり出来ない。こう帰結されるのではありませんか? ◇必ずしも、そうは思いませんが、 すべてを引っくるめた《わたし》は、物理の対象にはなりません。 また、 物理は、それを対象にしようともしていません。 理論形成の前提となる仮定から外れているのに、 その仮定外の領域まで、 その理論を適用しようとしている。 論理の過大適用!! 擬似科学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%91%E4%BC%BC%E7%A7%91%E5%AD%A6 で、 わたしは、物理を哲学や宗教の分野に安易に持ち込むのが大嫌い!!

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  つづくNo.4でぷしゅてくすさんのご回答 そしてNo.5はねこさんのご回答と問い求めが成されています。    ☆☆ ならば 人間存在を物理現象にすべてにおいて還元して捉えることは やはり出来ない。こう帰結されるのではありませんか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  必ずしも、そうは思いませんが、  すべてを引っくるめた《わたし》は、物理の対象にはなりません。  また、  物理は、それを対象にしようともしていません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。こういった点がお聞きしたかったところです。  モノと人間とが まったく同じ物理の対象になるとは まづ考えられませんでした。いくら人間がそのモノによって成り立っていると言ったからと言って。  ■ (回答No.4) ~~~~~~~~~~~~   日常的概念だけから考察されるのも結構ですが、その  結果が物理と矛盾するようではオカルトの類になります  ので、勉強される事をお勧めします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ との注意書きをいただいていますが。  あとは復唱しませんが 留意いたしました。

  • kurinal
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回答No.2

こんにちは。 >「なぜ人間を物理現象に還元して捉えるのか?」 そう捉えるほうが、「都合がよい」場合も、あるのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ (趣旨説明欄) 人間を無限に詰め込むことなどは出来っこありません。  ☆ から 無理だと考えます。

回答No.1

「人間(心理) vs 物質(物理)」という対置構造は、 本質の追求において、成立しません。 根源的な自我仮説(記憶=時間の流れ=過去) と時空仮説(予測=空間の広がり=未来)の相補 分化において、肉体に付属した感覚器官に依存 して発生する意識が、真の自己としての宇宙の 認識を深める過程は、「分化」の無への還元と しての物理なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ぷしゅてくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。      ★ 「人間(心理) vs 物質(物理)」という対置構造は、 / 本質の追求において、成立しません。  ☆ だとしたら ここから ボタンを初めにどうかけるかの違いがあるようです。  ★ 人間(心理)  ☆ という規定が きわめて狭いものです。  考えてもみてください。身と心とから成るとすれば 《物質(物理)》も含まれているぢゃありませんか。  一般に 質問の趣旨が立つ前提としては こうです。   ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~    (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)     一般に 心(精神)において 現実を捉える。     身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。    (い) 人間としての《現実》= 事実 + 主観真実(*)      * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構)      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  根源的な自我仮説(記憶=時間の流れ=過去)  と  時空仮説(予測=空間の広がり=未来)  の相補分化  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが もしそうだとしても要素へと還元している次元の問題でしょう。  《現実》は 《わたし》なる人間存在において 時間も空間も すでに一体であって この一体性が いちいち《自我仮説》へと再分化されることは――人間存在とその現実としては――あり得ません。心臓やからだのあたたかさといった部位や要素を取り出して それぞれを単独で成り立っているものだと見ることは あり得ません。それらを単独分立させて 心臓がわたしであるということは ことばのあやでなければ あり得ません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  肉体に付属した感覚器官に依存して発生する意識が、  真の自己としての宇宙の認識を深める過程は、  「分化」の無への還元としての物理なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ けっきょく 《ニヒリズム》ということのようです。  ★ 真の自己  ☆ といった概念を安易に出すものではないでしょう。  ★ 宇宙  ☆ も 同様です。  ★ 感覚器官に依存して発生する意識  ☆ 単に《知覚》が 宇宙を認識し 真の自己を自覚的に実現するとでもお考えなのでしょうか。  ★ 「分化」の無への還元としての物理なのです。  ☆ 《自我仮説と時空仮説との分化》が 《無》なのですか?  だとしたら いちいちその無への還元などは 要らないぢゃないですか。  けれども その還元の――けっきょくは意識的な――操作が どうして《物理》なのでしょう?    それとも 意識・認識の過程が 物理だということでしょうか?  これは ただモノ論としての唯物論ではないのですか。  やはり ニヒリストでしたね。  すなわち  ★ 「人間(心理) vs 物質(物理)」という対置構造は、 / 本質の追求において、成立しません。  ☆ ということの中身は 《すべては物理に還元される》という虚無主義だった。ということのように受け取ります。