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相撲の立会で手をつくのはいつから?
好角家の方にお願いします。 NHKの相撲中継でたまに古い映像が再生されることがありますが、昔の立会は手をついていないように見えます。 昔は「手をついたところから立ち会う」というルールではなかったのでしょうか? 今のように手をつくルールになったのはいつからですか? よろしくお願いします。
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昔の映像で立合で手をつかずに仕切る光景。これは、時代時代によってルールの解釈に違いがあるから生まれたものです。 まず立合についてのルールは「寄附行為細則勝負規定第五条」にあります。 ・立合いは腰を割り両掌を下ろすを原則とし、制限時間後両掌を下ろした場合は「待った」を認めない。 この「掌」という部分が実に曲者で、ここに昭和の大相撲の”ほぼ中腰から立合う両力士”の映像理由があります。 この掌、一般的にどこを指すと思われるでしょうか。一般的には「手のひら」でしょうが、相撲の世界(むしろ格闘技全般は該当するか)では普通手首から先すべてを掌とします。そしてここが一番重要なのですが、 「勝負規定には”掌を「土俵に」下ろす”とは一言も書いていない。」 つまり、簡単に言えば一度そんきょの姿勢で腰を割り、見合って…の段階から”わずかでも”手の位置を下ろせばルール上問題はない、という解釈をなされました。 ※特に白黒映像時代の力士がやっているのは、立合う瞬間に腰を下げるでもなく、自分のまわしやさがりを触るだけで立合う場面。当然、手の位置は少しだけ下がりますよね? 大横綱と呼ばれた大鵬や北の湖、その前世代の栃錦・若乃花、さらには今でも史上最強の名は揺るがない双葉山も含めて、両手を仕切り線・または土俵に付けて立合う力士など皆無でした。むしろ、奇策を講ずる技巧派力士が相手とのタイミングをわざわざ乱すために土俵に両手をしっかり付けて待ち受ける、というシーンも。むしろ、土俵に両手を付けることが”奇襲戦法”だったわけです。 ところが、大きな転機を迎える場面があります。小さな大横綱、ウルフこと千代の富士の登場です。千代の富士もさすがに両手をべったりと付けるわけではありませんが、仕切りでは深く腰を割り、片手は必ず仕切り線に付け、立合の瞬間にもう一方の手を付けて真一文字に相手力士の懐に飛び込み、前褌(まえみつ)を取りに行きます。この低い姿勢から立合一気に速攻、は千代の富士の代名詞となりました。 なぜ千代の富士がこの立合を選んだか。後に科学的に立証されましたが、大相撲も含めて、人間が対象物に激突する、突進するという運動時には、より低い重心からやや前方上方向に運動方向を向けて衝突する方が、中腰姿勢から水平に衝突するより遙かに大きな運動エネルギーを発生することが分かっています(証明のためのサンプルはアメフト)。千代の富士は当時幕内力士全体から見ても最軽量に相当する小兵(確か30代からの第2次黄金期でも自分より軽いのは寺尾だけだったはず。寺尾同様ソップ型(痩せ型)の代表格と見られた、前頭時代の霧島や大関若島津も見た目に反して千代の富士より重かった)。その軽量力士が明らかにでかい巨漢(もちろん、当時ですから小錦・大乃国など)を相手に立合で互角のぶつかりを見せるには、より相手力士より低い姿勢からぶつかり上げなければ行けません。よって、そのエネルギーを得るためにも、立合で両手を”付かざるを得なかった”ともいえます。 ※元々脚力含めての筋力は当時タブーとされていた筋トレを積極導入したことで、角界屈指のパワーファイターとも言えた千代の富士、唯一の懸念であった軽量による衝撃の弱さをカバーするための立合と言えます。 立合で両手をつくことの厳格化が起こったのは21世紀に入ってから。でも、それはあくまでも”待った”防止のため。上記規則にもありますが、両手を下ろしてからの待ったは認められていません。とはいえ、中腰で立合っていた時代に待ったがほとんどなかったのは、前の解釈にある通り、少しでも手が下がればそれが手を下ろした行為に該当したためです。今のルールでは土俵に手をつかない限り待ったは可能です。でも当時の解釈ではそんきょを終えて見合う段階から、すでに”待った禁止”の時間帯に入っています。よって、昔の取り組みでの待ったのシーンがほとんど映像として残っていないのです。よく言われる”立合の乱れ”は、実は中腰での立合をする昭和の角界には存在しませんでした。今乱れていると思われた立合が”普通”だったのですから。 今の手をつくルールを厳密に適用するようになったのは、2008年から。この年にルールとして審判部で統一した見解を出したのですが、それでも当時は手つきを当然とする若手親方と中腰時代の親方が現場で意見の相違を起こし、取り直しの判断がばらけるケースがありました。おそらく稽古の際にも中腰での立合を教えている親方もいたのでしょう。というより現在の稽古でも、申し合いやぶつかり稽古、三番勝負などで厳密に立合から行う部屋はおそらく半数はないでしょう。手をついても片手くらい、付かずにぶつかる稽古場もあるくらいです。あくまで稽古だから許される。もっとも、稽古場と本割りで違うからこそ、現代の相撲で立合が合わない取り組みが続出している現状もあるのですが。 どちらにしても、当時と現在の解釈の違いだけで、厳密に手をついていないからあれは違反だ、という話ではありません。当時の解釈ではあれがスタンダードな立合い、今の両手をついての立合いは今のスタンダード、ということです。 長文失礼しました。
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- pottoni
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昔はけっこう適当だったようです。 今のように厳格になったのは昭和59年秋場所からだそうです。 厳格に...とはいってもいまでもその時々で、手つき不十分でのやり直しもされたりされなかったりまちまちですよね。 しつこく何度もやり直しのときもありますし、「今のついてないじゃんね」と思う事もよくあります。
お礼
回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございました。 非常にためになりました。私は少年時代のヒーローが千代の富士だった人間ですが、いろんな意味で革命児だったんですね。大鵬、北の湖、そして現在の白鵬と大横綱はたくさんいますが、相撲というシステムの根幹自体を作り替えたという意味で、やっぱり千代の富士はすごかったんですね。ますますファンになりました。 おっしゃるとおり、稽古場では前傾姿勢になり自分の前褌でもポンと叩いて、番付が上の人に突っ込んでいくというぶつかり稽古が当たり前ですね。稽古場で手をつかないのはそういう意味があったんですね。 いいお話をうかがいました。ありがとうございました。