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人を傷つける心理

自分が他人からされて、つらかったことや悲しかったこと その体験で、脳は人が悲しむ方法を学ぶんだそうです。 私はこんなことをされて、つらかった。 →他人もこんなことをされたらつらい。 上のことが事実であると仮定して 自分が他人からされた、つらい経験はやがて他人を悲しませる方法となり 今度は自分がされたつらいことを他人に行う人と 自分はつらかったので、他人には絶対にしない、という人と 何が違うのだと思いますか?  (例えば、思いやりがあるか、ないかや 人を信じてるか、信じていないかなど) いたらない文章ですみません。 様々な意見を聞きたいです!

質問者が選んだベストアンサー

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  • yuumin28
  • ベストアンサー率36% (23/63)
回答No.9

今回の文章では、無意識に人を傷つけてる人ではなく、人を傷付けていると自覚した上でやる人という事ですよね。 私が今までの経験で思うには、「満たされている人」と「満たされていない人」の違いだと思います。 自分が満たされていて毎日が充実していれば、人に嫌がらせをしたり悲しませようなんて気にはならないと思います。逆に、満たされていない人は自分自身や周りの環境に不満があって常に劣等感やストレスを感じている人だと思います。そう言う人は自分より不幸な人を見て面白がったり憂さ晴らしをしているんだと思います。八つ当たりみたいなものですね。どこかで、自分も辛いんだからちょっとくらいこいつも嫌な気持ちになればいいって気持ちがあるんだと思います。

その他の回答 (8)

  • ilovekan
  • ベストアンサー率28% (8/28)
回答No.8

”そこに悪意があるかどうか”を中心に考えてみたらいかがでしょうか? 自分がされてはいやな事はしない→ごく当たり前の事 自分がしてしまって相手が傷つく(または)悲しませる→悪意がある場合とない場合は全く意味合いが違いますよね 自分がされた傷(または)悲しみ→そこに相手の悪意があったと考えられる場合と考えられない場合でもまったく異なった結果になります ここで大事なのは、自分の心の状態です。 自分の心が弱くなっているとき、そういう時は些細な事でも悪い様に考えてしまう傾向になりますが、そういう時こそ少しだけ呼吸を整えて、自分と相手は違う事、自分は相手を変えられないこと、そして相手から悪い方向に心のあり方を変えられてしまいそうな場合は「NO]を言えるように努めること。 少々小難しく書いてしまってすみません。 私もとても興味がある分野です。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2193/11074)
回答No.7

子供の頃は、遊びの中で人を傷付けたり、傷つけられたりしていたと思います。 大人になってからは、その人の周りにいる人たちに、喧嘩をしたり、人を傷付ける人が居て、その人の影響を多く受けた場合、人を傷付けるのが普通の生き方になってしまうのだと思います。 優しさに満ちあふれて成長してきた人には、人を傷付けることを知らない人たちが居ます。 その人は絶対に人を傷付けることはしません、もししたとしても本人は気がついていません。 人を傷付ける人が居れば、自分を守るために人を傷付ける場合もあります。 周りの人たちが優しい人たちだと、人を傷付けることは必要ないのでしません。 遊び、優越感、自己防衛、損得、自分の気持ちなどが複雑に絡み合って、人を傷付けたり、助けたりすると思います。 人を傷付ける大きな原因は、優越感と、得になることからだと思います。

回答No.6

親の教育だと思います。 人に対してやさしくと育てられるのと、 人を蹴落としてでも上にあがれてと育てられるのと、 どちらも正解なので、なんとも言えませんが。

noname#202167
noname#202167
回答No.5

まずどこまでが人を傷付ける事になるのかが人それぞれですね。 誰かと一緒に遊ぼうととても楽しみにしていたのに、 その人が他の人と楽しく遊び夢中になって構ってくれなない事 なんかも悲しみ、心の痛みになりえますね。 その心の痛みから、理不尽に嫌う態度を取れば、 今度はその人が他の人を傷付け、悲しみと痛みが生まれます。 将来本人が苦しむ甘え癖を正す事などは、 思いやりでもあり、傷付けることでもあり、難しいですね。 傷付いた気持ちは、 誰かに話し、誰かに共感など理解してもらえると軽くなり、 誰かに追い討ちをかけられ抉られると、深く重くなりやすいですね。 誰かに理解してもらって、痛みがそれなりに癒えた時、 「じゃあ相手はどんな気持ちだったかな?」 とさとせる人が傍に居たなら、 相手の気持ちを考え、知り、思いやれる様になるかもしれません。 お互いに小さく悲しみ傷付いた事を、 当事者同士が理解しあえれば、周囲に飛び火する事を 減らせるのかもしれませんね。 傷付いた気持ちを話す相手がおらず、 誰にも理解してもらえないと、痛みが心の中に残り続け、 これ以上苦しみたくない と避け始める事もありますね。 生まれながらにして、 言葉遣いの悪い環境に馴染んでしまうと、 話してもほとんどの人が理解してくれず、聞いてくれず、 時に追い討ちをかけられ、余計苦しんでしまう事もあります。 苦しくて、誰も解かってくれず、誰も話しすら聞いてくれず、 日々が苦しいと、 ただ楽しそうに、幸せそうに日々を送る人を見て、 今、苦しい自分と見比べると、 どんな気持ちになるでしょうか。 人を傷付ける衝動の根には そうしたものがあるのかもしれません。 無機質に、ルールやマナー、道徳や倫理を守れと言うより、 その人が周囲に振るう暴力の種類を見てわかる その人が受けて抱え苦しんでる暴力の種類を察し、 その人の言葉に間違いや暴力を感じても、 せめてその人の心の痛みにだけは理解を示してあげられる人が 増えたなら、 この社会から少しだけ暴力を減らせるかもしれません。 誰かが理解し、優しくできたなら、 その人にとって、社会の人間全てが敵になる事はなく、 「解かってくれる人も居る」 と思えば、人を傷付けようとする心に小さく歯止めがかかります。 誰一人として理解せず、抱える痛みなど知った事かと、 ただ責め、ただマナーや道徳を守れと押し付ける人ばかりだと、 その人の心は救われるのでしょうか。 居場所はあるのでしょうか。 しかし現実問題として、 人の心の痛みを理解する事は、自分の心も痛みがちで、 痛みを多く抱えれば、 苦しくて誰かに辛く当たってしまう事も増えてしまいます。 1人の人に出来る事には、限界があるのでしょう。 現実はままならぬものです。 一見、正論、正義に見える事を力強く語る人も、 蓋を開けてみると 自分がその正論、正義を守れと要求され、責められた痛みから、 自分は苦しめられたのに、そうされていない人を許せないという、 「相手の立場になって考え物を言う」事をないがしろにしていたり、 「お互いに相手が嫌な事をしない」という共益の精神からは遠い、 恨みの様な感情をただ吐き出しているだけという事もあります。 疲れたり、悩みがあり余裕を失い、人に辛く当たったり、 生きる事に余裕を失う事からも人が人を傷付ける連鎖は生まれます。 自分の考えを押し付ける事も、 時に相手の考えを否定する事になり傷付く事があります。 周囲の人が出来るのは、 その人が受け入れやすい言葉や、その人が自覚しやすい言葉で、 自分のやっている事を自分がされたらどんな気持ちになるのか? 自分のやっている事がどんな循環を起こしうるのか? 循環から抜け出すには、まず何が必要なのか? その人が今できる1歩だけ見つめ、1歩ずつ進めてあげる事。 いきなり完璧を強引に押し付ける様なまねをしない事。 抱えている痛みには少し配慮してあげる事。 その位でしょうか。 長くなったのでこの位にしておきますね。 長文失礼しました。 何かの参考にでもなれれば幸いです。

回答No.4

ご質問者様こんばんは。 人間が引き起こすあらゆる出来事は、人間が向かうべきある到達点へ向かっていると僕は思います。人を傷つけたり、人から傷つけられたりすることでさえ、到達点へ向かう為には必要な経験なのかもしれません。 到達点に至った人間は、相手の心の核心の中に自分を発見します。 相手を思いやることは、自分を思いやることと同じです。 相手を傷つけることは、自分を傷つけることと同じです。 相手と仲良く出来るのは、自分自身と仲良く出来ることと同じなのです。 相手の心の核心の中に宿る自分に対して、どのような態度をとることが出来るのか?? 相手の心の核心の中に宿る自分から常に私達は問われ続けているのだと思います。 また、「自分」とは「結局のところ自分は何を一番に考えているのか?」ということを発見することでやっと理解出来るものだと思います。例えばある到達した境地の一つに「生きることは素晴らしい」という思いがあるとします。その思いを自分以外の人の心の中に見つけることが出来れば、自分が生きていて嬉しいように、相手の方も生きていて嬉しいと思えるのです。 というように全ての関係の源は自分自身への愛情の度合いによるのだと思います。自分自身を愛し、いたわらなければ、他者を愛することは出来ないということに結実するのだと思います。 ご参考になれたら幸いです。

  • xKURO-69x
  • ベストアンサー率27% (112/406)
回答No.3

>辛い状況であれば、人は誰でも人を傷つけるということでしょうか? いいえ。 何かしら「嫌なこと」が入力されても、 その方の精神力が高ければ、「不快状態」のままにはせず、心のなかで、中和できます。 感情を、処理できるのです。 ですから、「同じようにつらい状況」であっても、 その「処理」ができるならば、不快は無くなります。少なくとも、押さえつけることができます。 不快が無くなれば、誰を傷つけることもありませんね。 反面、 「不快の処理」を出来ない人や、しようとすら思っていない人ならば、 その感情の不安定さを、行動に表してしまいます。 それが時に攻撃的態度になります。時には、自閉的な(引きこもり的)態度に出ます。 そういう人は、だれかを傷つけることもあるでしょう。 例外的なことを言えば、 「不快の処理」をし続けることが出来る人でも、 その処理の負荷がかかりすぎて、精神が破壊されてしまう場合があります。 そうなると、心のなかに別の人格などを作り、その人格に不快を預けることで、 主体となる人格の精神の安定を取り戻そうとします。 まとめますと、 その人の「感情(不快)の処理の上手さ」が重要で、 それが上手ければ、自分の中に押さえ込むことができるのです。 つまり、「過去の辛いできごと」は、「今現在、心の処理ができる人」が、 「自分が納得させるときの理由」になる、ということであって、 「今現在、心の処理が追いつかない人」は、そんな余裕はありませんから、 「過去のつらいできごと」を思い返しても、それ自体が不快度を高めてしまうだけでしょう。 「辛いことがあればあるほど、辛い人に優しく出来る」 と言われますが、あれは、簡単に言うと、嘘です。 秀才が、「ちょっと勉強すれば東大くらいまじで楽勝だろ」と言うのと似た嘘です。

noname#201242
noname#201242
回答No.2

おっしゃっていることは私も興味があります。何が違うのだろうと。 いい子ぶるわけではありませんが、私は正直なところ、「他人の不幸は蜜の味」というのが解りません。 誰であれ不幸なのを喜ぶ気にはなれないからです。 嫌いな人とは関わりたくありませんが、私の近くにいなければ良いです。関係なく別々にいられれば。 なんなんでしょうね。 大きく引いて物事を俯瞰(ふかん)したり、自分を客観視したりしようと試みるかどうかとか、経験から学んでより良く生きて行きたいと考えるとか。 自分の場合、人を信じているか、いないかといえば、半々です。マイナス思考もしますし。 性格もあるのかなとは思いますが、そう言ってしまうと身もふたもないでしょうか。

  • xKURO-69x
  • ベストアンサー率27% (112/406)
回答No.1

今が辛い→他者へ攻撃的態度 今は辛くない→他者への寛容

jtajgd
質問者

補足

ご意見ありがとうごさいます。 確かに。 それはありますね。   ということは 辛い状況であれば、人は誰でも人を傷つけるということでしょうか?

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