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白黒テレビ・カラーテレビ初期の思い出聞かせて下さい
以前にも聞きましたが、当方はカラー化完了後に生まれたこともあって、白黒時代のことを知らない部分が多いです。 そのこで、その時代(おおむね昭和30~40年代)を知る方、白黒テレビ及び初期のカラーテレビについて、何か思い出があれば聞かせてください。
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こんにちは。 62歳のオジサンです。 我が家に初めてモノクロ(白黒)テレビが入ったのは、1959年(昭和34)の春でした。 当時は、私が小学3年生に進級した直後頃に「皇太子殿下・美智子妃殿下」の御成婚パレードをテレビで視聴したかった父親がテレビ購入の決断をしたそうです。 当時、父親の月給は3万3千円ぐらいでしたが、当時としては「高給取り」の部類だったそうで、16インチのモノクロテレビは5万5千円程度だったと記憶してますから、父親としても高価な買い物だったに違いありません。 私は、小学3年生になったばかりの腕白坊主でしたから、テレビで視る番組は「少年ジェット」や「七色仮面」など子供向け番組に夢中でした。 この年の9月に「伊勢湾台風」が発生して関東地方にも猛威を振るい、子供心にテレビアンテナが壊れないかと心配しました。 幸いにも、我が家には被害はなかったですが、テレビニュースでは各地の被害状況が生々しく流れてたのが印象に残ってます。 翌年、小学4年生になった私は「ゲルマ・ラジオ」という簡単なラジオを作ったことが切っ掛けで電子工作に興味を示し、中学生になる頃には真空管9本使った本格的な短波受信機を自作出来るようになってまして、アマチュア無線免許も取得するラジオ少年に育ってました。 近所でも、ラジオ少年の噂が広がりテレビやステレオの簡単な修理が出来る知識を中3の時に持ってたことで、近所のテレビを修理(映像回路の抵抗器交換)して千円のお小遣いを貰ったことが嬉しかったです。 この頃は、暇があれば無線機にかじり付きでしたから、テレビは殆んど視なくなり、現在のテレビを視ない習慣の元になったと思ってます。 カラーテレビは、1969年に東京・蒲田の電子専門学校に通うようになってから興味を持ち始めましたが、学生の身分では高嶺の花で通学路の途中にあった電器店のウィンドウ越しに覗き込む程度でした。 そして、卒業間近の1971年新春に父親が持病を悪化させて急死してしまったことで生命保険が下り、保険金の大半は葬儀費などに消えましたが、30万円近くが残ったことで、21インチのカラーテレビを16万円程度で購入したのが我が家では初のカラーテレビです。 この年4月から、私は社会人になりましたが、専門校卒の初任給は4万2千円程度でしたから、16万円のカラーテレビは20歳の若者の給料では簡単には買えなかった時代です。
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- tpg0
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ANo9です。 再び失礼します。 今なら、16万円出せば55インチから60インチの液晶テレビが買えますね。 ただ、1969年(昭和44年)春に電子専門学校に入学した頃は「1インチあたり1万円を切れば安い!」と電子専門校の学生同士でも話し合うぐらい電子部品が高価だった時代でした。 高価だった電子部品は、大量生産が難しい「真空管」でしたから、当時から真空管とトランジスターを組み合わせた「ハイブリッド回路」が出始めたのが丁度この時期ですが、半導体回路の比率を高めることでコストダウンになっていった時代です。 今でこそ、ハイブリッド車の影響でハイブリッドの意味を殆んどの人達が理解してますが、当時は電子回路を扱う者ぐらいしかハイブリッドの意味は理解してなかったと思います。 ちなみに、当時は電子専門学校にも「テレビ局各社からの求人案内」があったぐらい、就職は売り手市場でしたから、からかい半分で上場企業の求人案内に応募したら採用担当者が自宅まで訪ねて来て入社を懇願されるという、現代の学生には信じられない時代でした。 そして、社会人になって2年目の1973年(昭和48年)の年末に「オイルショック」があった時には、秋葉原の電気街ではテレビを始め家電品の値札が外された時期がありました。 なぜなら、毎日のように商品の価格が値上がりしたからですが、オイルショックのお陰で給料もうなぎ登りの如く上がりましたから、社会人になった時の初任給4万2千円の給料は、5年後には3倍以上の15万円ぐらいになってました。
お礼
再びありがとうございました。 当方がカラーテレビが珍しかった時代に現在の年齢だったら、毎日のように見ていたと思います。
- staratras
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我が家が初めてテレビを買ったのは、私が小学校に入学した昭和36年(1961年)の初めで、近所でも遅い方でした。もちろん白黒テレビで画面は14インチ、チャンネルはガチャガチャと回転させるロータリー方式でリモコンなどはありませんでしたが、チャンネルがNHKの総合・教育と民放1局の合わせて3つしかなかったので、それほど不便ではありませんでした。 真空管式なのでスイッチを入れてもしばらくは映像も音声も出ず、しばらくして音声が聞こえ、さらにしばらくして映像が写ったものです。我が家にはありませんでしたが、友達や親戚の家の中にはテレビの画面の前にプラスチック製のフレネルレンズのような、画面を少し大きく見せる仕掛けを付けているところがありました。また布製のカバーがあって、テレビを見ないときにはそれをかけていました。 今から考えれば旧式ですが、このテレビが我が家に来てから2年後の1963年11月のある晴れた朝、アメリカから初めての宇宙中継(衛星中継のことを当時はこう言った)で写ったのは「ケネディ大統領がテキサス州ダラスで撃たれて死亡した」という衝撃的なニュースでした。家にパソコンはもちろん電話もまだなかった当時、この白黒テレビと真空管式のラジオが、我が家と世界をつなぐ貴重なメディアでした。 当時の番組で記憶に残っているのは、結構アメリカで制作されたドラマが放送されていたことです。西部劇では『ローハイド』、『ライフルマン』、『幌馬車隊』、戦争ドラマでは 『コンバット!』、ホーム・ドラマでは『奥さまは魔女』、『ルーシーショー』、そのほかのドラマでは『ベン・ケーシー』、『逃亡者』『名犬ラッシー』などが印象に残っています。『ベン・ケーシー』の「男・女・誕生・死亡、そして無限…」や『逃亡者』の「リチャード・キンブル、職業医師。 正しかるべき正義も時として、めしいることがある…」という番組冒頭のコメントは、子ども心に意味がよく分からないままに覚えていました。 また、テレビ放送は今のように四六時中放送されていたわけではなく、夜中のほか日中の午後にも放送されない「昼休み」の時間がありました。
お礼
ありがとうございました。 当方が小学校に入学した時は、NHKの総合・教育と民放3局の合わせて5つでしたね。 しかも、その前の年は4つ、翌年は6つ(つまり現在と同じ)と、激変した2年間でした。
- blue5586p
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1960年生まれ、男性です。 私が物心付いた頃のテレビといえば、やたら、参考URLのような画像「テスト・パターン」が放送されていたということです。 放送開始前や、終了後だけでなく、昼間にも、定期的に放送されていました。 カラーテレビは、私が小学生だった頃、親が、株で儲けて購入したと、記憶しています。 メーカーは、松下電器(現パナソニック)の、16型のパナカラー。チャンネルはもちろんロータリー式。チャンネルを切り換えるツマミの周辺のリングを押し込むと、画面中央に、マジックラインと呼ばれる緑色の帯が現れ、この帯の幅が最小になるように、押し込んだリングを回して、チューニングの調整をするというものでした。 これは、専門用語で「同調表示回路」と呼ばれ、各メーカーが、競い合って、様々な方式が開発され、たとえば、親戚の家にあった、ソニーのトリニトロンカラーの場合、画面上側に、スカイチューンと呼ばれる、青色の影のようなもの、ちょうど、4:3画面でシネスコ作品を再生すると、画面上下に黒い帯が出ますが、その上側だけが、濃い青色で表示されたような感じで、この青色の部分が、少なくなるように、調整するというものでした。 カラーテレビは、白黒テレビに比べ、チューニングが難しいため、各社で、このような工夫がされたということです。 その後は、AFC、オートマジックなどと呼ばれる、自動調整が主流となり、ボタンを押すだけで、後は一切ノータッチという機種が、主流となりました。 わが家にカラーテレビが来てから、約半年後に、大阪の千里丘陵での、日本万国博覧会が開幕。 開会式は、土曜日だったと記憶していますが、当時は当然、土曜日は半日授業。視聴覚教室に集まって、開会式の模様を生放送で見ましたが、小学校のテレビは、当然白黒。この開会式は、19時台に、録画でも放送されましたが、その日の夜に、今度は自宅でカラーで見て、やはり生放送の白黒よりも、録画でもカラーのほうがよいと、子供心にも思いました。
お礼
ありがとうございました。 大阪万博(花の万博ではない)の頃は、まだ白黒のほうがやや多かった時代ですね。 ある調査によれば、普及率は白黒90%に対してカラーは25%程度だったそうです。
- SPROCKETER
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白黒テレビ放送では米国製のアニメ番組「トムとジェリー」が人気がありましたね。当時の国産アニメは画質が低く、コマ数が少なくて、米国製アニメの敵ではありませんでした。 白黒テレビは真空管式でしたが、温度によって動作特性が変化するので、ブラウン管の画像にゴミのような影が映ったり、画面が歪んだり、不安定な受像機だった記憶があります。 初期のカラーテレビは真空管式で、色諧調が少なくて中間色がはっきりせず、鮮明さに欠けるなど、評判は良くありませんでしたね。 カラーテレビを実際に見るようになったのはインフレ物価高が酷かった頃で、トランジスター方式のカラーテレビでしたが、当時としては色が鮮明な方ですが、画面はややピンボケ気味で、鮮明さに欠け、アニメ系の番組が見やすい受像機でした。古いカラー写真のような褪せた色の番組が多く放送されていたようです。画面も角が丸かったですね。アニメ全盛期だったのも、この時代です。 初期のパソコンも白黒画像や8色画像のお粗末な画面でしたが、初期のテレビも白黒画像や原色系画像のお粗末なものだったように思います。 現在の薄型デジタルハイビジョンテレビの映像からは想像も出来ないほど画質が低かった時代でした。
お礼
ありがとうございました。 当方の場合、昔の事情を知ることは当方がまだ知らなかったことを知る「新しさ」があるんですよね。過ぎ去った時代には、まだまだ当方の知らないことが眠っています。 この質問は、白黒テレビという当方の知らない時代に、その時代を過ごした方がどんな思い出を持っているかということで、「当時の思い出」という、当方の知らない事情が垣間見えてよかったと思います。
- yuu6139
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還暦過ぎのおじさんです。 皆さんの回答を懐かしい想いで読ませていただきましたが、 まさにその通りです。 我が家でテレビを購入したのは昭和30年頃だったと思いますが、 近所の友達が毎週金曜日(?)のプロレスを見に来ていました。
お礼
ありがとうございました。 まだまだおじさんには早い当方なので、過ぎ去った時代に新鮮さを求めるタイプです。
- yotani0425
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こんにちは。 記憶の限りですが、 うちに白黒テレビがついたのは確か昭和31年頃で、当時テレビ局はNHKとHBCの2局しかありませんでした。(寒冷地在住なもので・・) 木製で真四角の17インチテレビでして、スイッチを入れても映像がブラウン管に出てくるまでには5~6秒は待たされましたね。 スイッチを「パチッ」と入れるとちょっと間があってから「ブ~ン」という音と一緒に画面が出てくる感じです。 当時は屋内アンテナしか無かったものですから、チャンネルを切り替えるたびにアンテナの向きを調整しておりました。 また、真空管がダメになってくるとスイッチを入れてから画面が映るまでに時間が掛かるようになってきたり、見ている間に上下が狭く(潰れたように)なってきたり、横幅が狭まってきたり、上方向や下方向に画面がパラパラ流れたりしたものです。 確か父親が予備の真空管を数種類用意して持っていたはずです。 当時はまだこども向け番組なども殆ど無く、テレビドラマではNHKの「ハイウエイパトロール」、スポーツではプロレス(力道山や豊登)や相撲(初代若乃花や朝汐)などを見ておりましたね。
お礼
ありがとうございました。 いわゆるミッチー・ブームでは、婚礼パレード見たさに多くの家庭がテレビ購入に踏み切ったという話は聞いたことがあります。
- shift-2007
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いい確率でチャンネルのつまみが取れてラジペンで中の心棒を回していました。 有線のリモコンがついたテレビが我が家に来たときはかなりハイテクな感じがありました。
お礼
ありがとうございました。 有線リモコン…今では考えられないですね。
- 1951715
- ベストアンサー率20% (124/609)
昭和30年代初め、まだほとんどの家庭にはテレビはなく、「街頭テレビ」が公園や集会所などに備え付けてありました。 電気屋にお客さんに見れるようにテレビが備え付けてあり、テレビをつける時間が決まってあり、その時間になると黒盛りの人の山でした。「あそこの理髪店にテレビがきたぞ」と言えば皆、そこへ行きました。放映される番組の時間帯も少なく番組が始まる前に「テストパターン」と言う画面が映り、白黒の濃淡を手動で調節するのです。この頃のコマーシャルと言うのは、当然動きがなく(動画でない)文字と絵が映っている画面の紙芝居のようなものでした。
お礼
ありがとうございました。 では白黒の家庭が多かった時代には、カラーTVに集まる人も多かったのでしょうか?
- trgovec
- ベストアンサー率52% (2538/4879)
我が家ではカラーテレビの導入はかなり遅かったように記憶しています。 ・カラーは目に厳しいと感じた・・・特にアニメのような原色が多いものは嫌がって、もう一台の白黒の方を見たがったようです。 ・白黒テレビの画面に薄青のスクリーンをかぶせていた・・・これを外すと明る過ぎました。 ・白黒のころは番組が少なく昼過ぎから夕方まではテストパターンが流れていた・・・その当時テストパターンとは放送休止のことだと勘違いしていました。 ・チャンネルも少なく、誰も放送局名で言わず数字で「1を見る」とか「10でやってる」とか言っていた。
お礼
ありがとうございました。 今でも、放送局の中にはアナログ時代の番号にこだわり、デジタルになってもその番号を使っていることがあります。
- 2012tth
- ベストアンサー率19% (1893/9468)
因みに…白黒テレビ時代は、新聞にテレビ欄は有りません。 最初の頃は、テレビ用の薄い番組6ヶ月分の雑誌が本屋に半年に 一回、売られていた…新聞買わないで、これを購読していた方も 折られました。
お礼
再びありがとうございました。 今では考えられないことですね。
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お礼
ありがとうございました。 今なら、16万円もあれば何インチのテレビが買えることやら… 5年前ですら、32インチ10万円が高く感じるようになりました。