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人はどこまで赤の他人や生物を思いやる事ができますか

例えば、 今日は交通事故により日本で10人死にました。 シリアでは100人が戦死しました。 夕食の魚は生物学的に見れば遠い従兄弟のような存在です。 夜空を見れば無数の星が死んだり生まれたりしています。この時には人類が知らない無数の命がそれこそ天文学的な数で無くなっていると思います。 しかし、多くの人は、星の瞬きを美しいと言い眺めます。 どういう神経をしているのでしょうか? また、私自身も、多くの知らない人が死んでいるのに、この程度しか心が痛くありません。 人が他者を思いやるというのは所詮このレベルの痛みなのでしょうかね?

みんなの回答

  • ka28mi
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回答No.3

まず、「人は~」とひとくくりにすることは間違っていると思います。 一般的には気にしない人が多いですが、マザーテレサやナイチンゲールのように気になさって行動なさる方もいらっしゃいます。そこまで全霊をあげてではなく、余力での寄付レベルであれば、なさっている方は多いでしょう。 そして、行動はできないまでも、気にする方も多くいらっしゃることでしょう。 私の個人的な感覚で言えば、交通事故で1人亡くなりました、100人が戦死しました、食事のおかずは命を奪っています、というのは、失礼ながら、自己満足に過ぎないと思います。 人類に限らず、生あるものが生きるというのは、何かを犠牲に踏みつけるということです。 助けようとすれば助けられたかもしれないものを見殺しにしている率でいえば、数え切れないでしょう。 しかし、じゃあ自分を捨ててまで他者を救おうとした場合、救いきれるのかといえば、絶対に無理です。むしろ救おうとすることで、別の何かを犠牲に踏みつけることになります。 単純な話ですと、目の前に、おなかをすかせた野良ネコがいたとします。 かわいそうだと、餌をあげれば、その野良ネコを救ったことになりますよね。 けれど、その餌で生き延びた野良ネコが子どもを産んだ場合、餌をあげたことで、野良ネコを増やしたことになります。 また野良ネコによって、庭の植木や花を無茶苦茶にされたり、鯉や小鳥といったペットを殺される人にとっては、野良ネコを救う人は、間接的な加害者であると言えます。 もともと、「思いやる」ということ自体が、自身の優位や安全を確保したうえで行うことです。 人間に限らず、命あるものは生きているだけで加害者です。 加害者同士が、少しでも互いを助け合うための手段、傷つけることを少しでも減らすための手段のひとつが「思いやり」です。 効率を考えるなら、知らない人を思いやるよりも、目の前の人を思いやるべきでしょうね。 知らない人は、思いやったところで何もできません。相手に思いすら伝わりません。質問者さまがどれほど心を痛めようと、何一つ感じなかろうと、見知らぬ誰かには同じことです。 目の前の人ならば、思いが伝わることも助けになることも可能です。 ころんでケガをした時に、誰かが「大丈夫?」と声をかけていたわってくれようと、無視して通り過ぎようと、指さして笑っていようと、ケガが治るわけでないのは同じですが、いたわってもらえれば心強いし、無視されれば淋しいし、笑われれば腹が立つでしょう。 そんなものだと思います。

回答No.2

他人が殴られていても、自分は何も痛くはない。 心の痛みだからわかりにくいのであって、 体の痛みで考えればよくわかる。 本当に心が痛むのであれば、アフリカの飢餓のような 食うに困る貧困者はいない。

  • rikimatu
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回答No.1

人間そんなものですよ。 考えても見てください。 日本でも復興の進みが遅いと国を叩いていますが 復興がれきが処理もできないが他の県民の人たちは 放射能汚染されているから受け入れは嫌だという。 これじゃあ進みませんよ復興。 沖縄米軍基地の問題でもそうですよ。 みんな沖縄に押し付けている。 こう考えたら思いやりもないですよ。