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子育てを終えた方に質問
子育ての期間は、なにかとご苦労がおありだったと思います。 振り返ってみて、どんな出来事が印象に残っていますか? 楽しかった思い出ですか?それとも大変だった時のことですか? また、子供が結婚する相手に伝えておきたいお子さんのエピソードはありますか? ちなにみ私は小さかった頃の仲良く二人で遊んでいる時の様子が忘れられません。 憎たらしいことを言われても、あの時のことを思い出すと収まります。 エピソードもあります。
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- pompokopom
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No.4です。 もう一つ印象に残ってる出来事がありました。 これも長女ですが・・ 高校受験の前夜・・と言っても12時を回っていたので当日・・ 夜中に気配を感じて目を覚ますと、長女が泣きながら私の枕元に いました。 「勉強が分からない。絶対落ちる。」と不安で眠れなかったみたいでした。 私のお布団に入れて抱きしめて寝かしつけました。 長女と一つ布団で抱きしめて寝るなんて何年振りかでした。 長女は本命の学校のみしか受けなかったので余計に不安だったみたいで・・ 可哀そうだったな・・との後悔から次女の時は、確実と言われましたが 滑り止めに私立も受験しておきました。
- pompokopom
- ベストアンサー率39% (17/43)
すでに孫もいるから、子育てが終わったのも一昔も前ですが・・ 長女が小学校へ入学し、登校する時 玄関で「行ってらっしゃい」と送りだします。 すると、必ず2、3歩行ったらバックで戻ってきて また、玄関に顔を見せました。 私は、また「行ってらっしゃい」と笑顔で送ります。 入学して暫くは続いていました。 だから私は玄関から中々立ち去れませんでした。 今でも時々その光景を思い出します。 私は子育てが大変とは、余り思いませんでしたね。 (赤ちゃんの時は自分の時間がなくなるからイライラしたけど・・) 子供達も、怒らせるような事もしませんでしたし・・ 子供達に別々な物をあげても、長女は妹にまず 「○○はどっちがいい?」って聞いてくれる子でした。 だから妹は姉が大好きで・・ 小学3年生くらいになり、ゲームを一緒にできるようになってからは 年末大晦日は主人、私、子供と4人「朝までゲーム」が恒例でした。 ・・実際「朝まで・・」は中学生になってからでしたが・・(^^) トランプ、ウノ、マリオカート、花札・・毎年その年に嵌ったゲームです。 子供達が大人になるまで続きましたね。楽しかったな。 一番上の孫が大きくなりこの頃マリオカート、ウノ、花札を覚えて お盆は朝までゲームだ・・と張り切っていましたが、小学校一年なので 10時前にはダウンしてお開きでした。 その内、年末恒例のゲームも再開しそうで楽しみです。
- momokici55
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子育てって全てで、一つ二つでは語り尽くせません。けれど一言で言えは子供はやっぱり宝物です。 最近我が家では写真を見ながら昔の話をするのが恒例です、写真を見ていると色々な思い出が湧き出し、子供達は親に、主人と私は子供達からもらった愛情を改めて感じ幸せな気持ちになります。 そんな子供達の事を少しお話しします。 息子が小学校の時の話です。小学校の恒例で老人ホームへの訪問がありました。 その日の夕方校長先生からの電話でビックリ!決して優等生ではない子なので何かやらかしたのかと思いました。 ところが先生は、今日の訪問でいつもの様にお年寄りと交流し帰ろうとした時の事、お年寄りの一人が泣だしました。うちの息子と別れたくない言うのです。その時一緒になったグループのお年寄りは次々と泣だし大変な騒ぎになったそうです。なんとかまた来る事を約束して帰って来たそうです。長年訪問して初めての経験であまりに感動したのでと電話を頂きました。 物心ついた頃から主人の母親と同居が始まり、一般的な嫁姑的な思いはお互いあったものの、今では本当の親子の様な関係になっています。そんなおばあちゃんの存在はお年寄りに対する優しさを育んでくれました。 中学の修学旅行の時には、就寝時間を過ぎても部屋で遊んでいたそうです。 そこへ見廻りの先生がやって来て雲の子を散らす様に布団に潜り込んだのですが、一人だけ隠れる事が出来なかった子がいたそうです。 その子はいつもそんな調子でまたあいつだと言った感じで皆が少し小馬鹿にしていました。その子はホテルの廊下に正座させられました。 皆は「あいつまただよ!トロイから。」などと笑っていたそうですが、息子は先生が居なくなると、正座させられている友人の隣に黙って正座しました。「自分も遊んでいたんだから、○○だけ座らせられない。」そう思っての行動だったそうです。 その姿をみてその部屋の友人達が次々と正座をしました。最初に正座させられた友人は泣きながら座っていたそうです。その姿に嬉しくなったと後日担任の先生からお話がありました。 その後は息子は高校に進学しましたが(中高一貫校)、高校一年生で留年してしまいました。病気が原因でもありましたが、決して勉強ができる方でもなかったのも大きな理由です。 もちろん二度目の一年生が始まった時、恥ずかしさや惨めさ情けなさでたまらなかったそうです。(後日談) ほとんどの留年生はその状況に耐えられず辞めてしまうそうですが、息子はこの高校を卒業する為に今も頑張っています。 それは、元の同級生のお陰です。元の同級生は代わる代わる息子の様子を見に来てくれたそうです。そして頑張れよと言う優しい気持ちを込め、茶化したりからかったり、登下校など一緒に過ごして、遊びに行く時もクラスが変わっただけの様に誘ってくれました。 今では新しい学年にもお友達が沢山出来て、気がつけは生徒会役員にまでなっていました。 彼は在校生代表で元同級生の卒業式に出席し、お別れ会の幹事もしました。今でも変わらず友達は連絡をしてきたり、相談をしてきたりします。 そして、新しい同級生達の多くの友達が今の最後の高校生活を支えてくれています。 娘は幼稚園の時、毎日折り紙を折り続けて、幼稚園全生徒に配りました。 そして、毎日お掃除のおばあちゃんにお手紙を書き続け、、、。 卒園の日、私はお掃除のおばあちゃんからお手紙を頂きました。そこには、年をとった自分が元は保育園の園長まで経験した者で、子供達と携わりたいとお願いして掃除婦になった経緯、しかし、現代っ子の子供達から年寄りだとか汚いとからかわれいじめられていました。 そんな時に娘が入園してきて、娘は当たり前に毎日挨拶をしていました。嬉しくてお礼に得意の折り紙をプレゼントしてくれたそうですが、そのお礼にと娘がお手紙と自分で折った折り紙を返してくれて文通が始まったそうです。 そして、娘がおばあちゃんに習って折って配った折り紙を見て、教えてとねだる子供達や、文通をしているのを見て同じ様にお手紙をくれる子が増えて、気がつくと愛称で(娘が呼び始めた)呼ばれる人気者のおばあちゃんになっていたそうです。 お掃除のおばあちゃんは「☆☆ちゃんのお陰です幼稚園辞めないで頑張れました。可愛い子供達と楽しい幼稚園生活が送れました。本当に素敵なお子さんです。」と喜んで下さいました。そのおばあちゃんとは今でも文通を続けています。 娘は小学校の時、毎月のお小遣いを500円もらっていたのですが、2ヶ月分貯めてどうしても買いたい本があるので本屋に行きたいと言いました。娘が欲しがった本は中国語の参考書、何故かと話を聞くと「中国からの転校生が言葉が通じないので一人でいつもさみしそうだから、中国語を勉強したい。」と言うのです。 私は直ぐに言葉を交わせる簡単な挨拶などの本を買ってあげました。 彼女が最初に覚えた言葉「わたしは☆☆です。お友達になりませんか?遊びませんか?」でした。 この言葉がきっかけでその子はクラスに馴染み楽しく学校に来れる様になったそうです。 そんなエピソードは語り尽くせないほどあります。 けれど、私の人生において一番の事。それは主人との離婚の危機を救ってくれた事です。 主人が三年もの浮気の挙句離婚を言い出した時、娘は受験の真っ最中でした。希望校に向けて夜中まで勉強する娘、なぜか三年前頃から人間不信になり人に対して潔癖すぎる様な傾向がありその為に、今は離婚も浮気の事実も知らせることは出来ない。その思いから「子供達に一切さとられない様にして欲しい。」とだけお願いをして、何度も影での話し合いをしましたが、半年以上も公認となったと言わんばかりの毎週末の外泊。そして平静を装い浮気旅行を出張と偽り笑顔で送り出し笑顔で迎え、日々の暮らしも笑顔で過ごす事に疲れ果て自殺未遂。命を取り留めた私に向けられた主人の心ない言葉に離婚を決意したものの、受験が終わるまでに事故や病気で苦しんだ主人を泣きながら看病する子供達に、主人は憑き物が落ちた様に正気に戻り、女と一切会わなくなりました。 息子は今思えは不思議なくらい主人が浮気をしていた期間、ずつと信じられないほどの反抗期でした。その姿にもし離婚や浮気を知れば息子は壊れてしまうのではないかと思いました。それも直ぐに離婚と決意できなかった理由です。しかし、受験が終わることには以前の様な親子関係が戻り、仲良く楽しい時間を過ごせるようになり、あの悪夢はなんだったのかと思うほどになりました。 私は離婚を言い出せず三年が経ち、いまだに裏切られた心の傷は癒され切ってはいませんが、子供達の存在が夫婦関係を修復し、家族の大切さやありがたさを主人に感じさせてくれています。そのお陰て私は堪え難い屈辱にも耐え大切な家族を取り戻しました。 あの時娘が受験でなかったら、息子が激しく反抗していなかったら、たぶん家族は離散していたでしょう。 主人も子供達がいなかったら、目が覚めなかったことでしょう。 相手の女は子供達(バツイチ子持ち)をほったらかし(1人は身体障害児)主人と遊び歩いていました。 今はどうしているかは知りません。けれど元気なお子さんも家に居着かなくなったと最後の頃言っていたそうです。 私は結婚し、子供を授かる事はとてつもなく素晴らしいことだと思います。 人をこの世の中に送り出すと言うのですから、重大な責任のあることであり幸せなことですね。
- hausujigenn
- ベストアンサー率17% (42/244)
>どんな出来事が印象に残っていますか? 瞬間の笑顔だったり、泣き顔だったり、垣間見せる子供の優しさだったり、たくさんあります。 >また、子供が結婚する相手に伝えておきたいお子さんのエピソードはありますか? 相手から聞かれたら、なんでもお話して伝えますが、こちらから積極的に伝えるつもりは無いです。 相手の方は成長した今の子供と歴史を刻んでいるのだから、親の立場から昔の話はしません。それにこっちが親の立場で感動的な場面と思っていても、相手は感動しないかもしれないから。
- yama-koke-momo
- ベストアンサー率34% (352/1008)
とくにはないです。と言うよりたくさんあり過ぎて特筆できません。 もう大学生と高校生になった子供がおり、まだ完全に育て終わってはいません。 今も心配ごとの多い日々です。 強いて言うと語り草になってるのは、上の子(女子)が小さい時 「もし山の中に一人ぽっちで置いて行かれたらどうする?」と聞いたときのこと。 危機管理意識を知りたくてした質問でした。すると 「歩いて帰る」と平然と言いました。 「歩いて帰れないような山の中だよ?」「道に迷うかも知れないよ?」と言うと 「道はつながってるから頑張って帰る」と。 マイペースで根気強く冷静な長女の性格を表す言葉で印象的でした。 でも実際はむやみに歩き回らず助けが来るのを待てと教えるべきですね(笑) 下の子(男子)について思いだすのは 「学校で休み時間に木登りして遊んでたら校舎の3階の高さまで登っちゃった」と言うので 「ええ?!それでどうしたの?」と聞くと 担任、学年主任、校長、教頭が揃って出てきて 「ゆっくり降りてきなさ~い」って言われた、と。 それで降りれたの?と聞くと「うん」 ご心配をかけ申し訳ありませんでしたと、心で先生方に謝罪しました。(笑) 息子の木のぼり好きのエピソードはまだあって、ご近所の年下の女の子のお母さんから聞かされたのが 公園で、女の子の投げたボールが木の枝に引っかかってとれなくなってしまったと。 そこに息子が登って行って枝先の方に引っかかったそのボールをとってくれた、と。 その時そのボールだけじゃなく枝にかかっていたいろんな物が落ちたそうです。 名前も聞かずに去ってしまったのでお礼を言えないでいたけどその後うちの息子だとわかった。 何年も経ってからお礼を言われました。 「それはどうも」と笑いつつ「枝が折れでもして落ちて怪我したらどうすんだ!」と内心は冷や汗でした。 二人とも勉強はイマイチだけどたくましく育っています。
お礼
回答ありがとうございます。 >「道はつながってるから頑張って帰る」と。 >マイペースで根気強く冷静な長女の性格を表す言葉で印象的でした。 いやぁ~本当に性格が出ている答えですね。 社会に出て困難なことがあっても、決して諦めず可能性を信じ、忍耐強くことに当たる姿が目に浮かびますね。 >「学校で休み時間に木登りして遊んでたら校舎の3階の高さまで登っちゃった」 チャレンジ精神が旺盛なんですね。 勇気もあるし、困っている人を助けようとする優しさも。 何より運動神経ですよ。 私も子供の頃に木登りや民家と民家の間の塀をスパイダーマンみたいによじ登っていました。 どうして上りたかったのか自分でも覚えていません。 素敵なエピソードをありがとうございました。