簡単です。体罰禁止が問題とされたからです。
現代感覚で理解しようとしてはいけない。生麦事件を知っていますか?1862年です。薩摩藩士が無邪気なイギリス人を無礼を働いたと咎めて斬りつけてしまった事件です。明治の初めは、まだそんな江戸時代からさほど時間も経っていません。そういう時代に何が正解かなど誰にも分からない。教員は公務員ですが、その時代の公務員は武士階級の家柄の出です。中央も地方も同じ。制度上は武士も町民も百姓もないとはいっても、まだ江戸時代の気風は残っている。武士が明治維新で特権を失うとどうやって身を立てるか考える必要があった。屯田兵となって北海道の開拓を志願するか、公務員になるか二者択一です。西南雄藩の武士は中央の高級官僚として出世したが、賊軍系の武士は地方で教員にでもなるしかなかった。まだそういう戊辰戦争、明治維新の流れも引きずっている。しかし元武士の教員には、無学無教養の百姓の子せがれをどう教育してよいか分からない。そういう時代に一定の基準を定めようとしたのが教育令です。なにか基準を定めないと生麦事件のように過激に子供を成敗してしまう教師が現れないとも限らない。そういう当時の時代背景を理解していただきたい。解除じゃないんです。そんなことじゃない。当時はまだ大日本国憲法も制定されていない時代です。当時はまだ大日本帝国憲法も定められていない時代です。政府の中だって激しく意見対立があった時代です。教育はどうあるべきなのか。何が正解か誰にも分からない時代なんです。だから政府の権力闘争を反映して、教育令もああでもないこうでもないと激しく改正されました。体罰を認めるべきか認めないべきか。その議論は容易に収束せず結論が出なかった。今だって結論が出たというわけじゃないのです。戦後は体罰否定派が教育界を支配した。ただそれだけの話です。逆に言えば、戦前は体罰肯定派が教育界を支配した。ただそれだけの話です。
どちらが正解なのか、それは誰にも分からない問題です。
お礼
直接的な体罰はもちろんダメでその他の場合もやりすぎはダメということですね。とてもわかりやすくて参考になりました。誠にありがとうございました。 ただ実際に体罰が横行していたので、それを禁ずる法令が無駄になってしまうので解除したというのはなんだか情けないですね。時代背景のせいなのでしょうね。