• ベストアンサー

地震と地下のなまずを結び付けたのはだれ

江戸時代には地震の原因は地下の大鯰が動くからということが いわれていました。 これを最初に言い出したのは誰でしょうか? そもそもナマズは地中にいるものではないですよね。 両者の結びつきが不思議でなりません。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.6

おっしゃるとおり… 地震考古学者の寒川旭氏の「秀吉とナマズ」によれば、 http://www.toyro.co.jp/img/img-report/b.keizaiessay_1205.pdf 文禄元年十二月十一日(1593年1月13日)の日付の秀吉の書簡が 地震とナマズを結びつけた最古?の記録のようですね^^ 手元にある『地震考古学 遺跡が語る地震の歴史/寒川旭著/ 中公新書1096/1992.10』には、ナマズのナの字も登場しないのですが(笑) 以降「地震&鯰」が関連付けられた記録を時系列で並べて見ますと… ・1664(寛文4)年頃の「新板こよみ/出版年1663(寛文3)年」 &1673年頃~1685年頃の「地震なまずの暦」に関して、 国立国会図書館 ギャラリー>日本の暦-「地震なまずの暦」項目では、 http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_chihou.html 「表紙に[地震なまず]の絵を出し、左上に「いせこよみ」の表題を付けた綴暦。 「いせこよみ」とあるが、江戸で刊行されたといわれ、 寛文13・延宝1(1673)から貞享2年(1685)年に至るまでの暦が知られている。 この図柄から「地震なまずの暦」と呼ばれている。 ただし、寛文4(1664)年のものは「新板こよみ」となっている。 表紙の鯰は日本図をかかえ、首尾が交差したところに要石が打ちつけられ、その脇に 「ゆるぐとも よもやぬけしのかなめ石 かしま[鹿島]の神のあらんかぎりは」と、 和歌が添えられている。」と解説されています。 上記から遅くとも寛文4(1664)年の「新板こよみ/出版1663(寛文3)年」時点で、 既に「鯰―鹿島神宮・要石―地震」が関連付けられていると言えそうです。 ただ、私には図柄上での龍・蛇・蟲・鯰などの区別が出来ません(><) ・1669年頃の江戸前期の俳人高瀬(佗心子)梅盛(生没年諸説あり)撰の 俳諧作法書『便船集/佗心子梅盛[撰]1669』には 「鯰」項目に「地震」との関連付けがあるらしく、俳諧関連では初出とか。 ※残念ながら早稲田大学図書館古典籍総合データベースでは、 肝心の「な」項目を含む一冊が欠落の様子。内容は後記『類船集』参照。 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_02795/index.html ・1677年頃の高瀬梅盛の俳諧作法書『類船集/梅盛[撰]1677』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00337/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00337/ 3「俳諧 類船集 三」<65/73> http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00337/bunko20_00337_0003/bunko20_00337_0003.pdf 「鯰(ナマヅ)」項目には、 刀の鞘(サヤ) 地震 人の肌(ハダ) 瓢箪(ヒョウタン) 池 竹生嶋 弁戈天 近江の湖にハ…(以下略)…とあるのみですから、 前記『便船集/佗心子梅盛[撰]1669』の内容も同程度と考えられます。 ・1678年頃の松尾芭蕉に関して、 『地震 第1輯 Vol.7(1935)No.9』(496・497頁) 「地震と芭蕉/一窓庵」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1929/7/9/7_9_496/_article/-char/ja/ 延宝6(1678)年に出版された『江戸三吟』のなかに、 当時桃青と号していた松尾芭蕉が、弟子の似春と詠んだ次のような連句がのっている。 「寂滅の貝ふき立る初嵐(似春) 石こづめなる山本の雲(桃青) 大地震つゞいて龍やのぼるらん(似春) 長十丈の鯰なりけり(桃青)」などと… 歌舞伎十八番の一つ「暫」に関して、 ・1692(元禄5)年、一世市川団十郎が初演、 ・1697(元禄10)年、現今のような演出ができあがったという。 ・1704年頃成立ともいわれる 榊原(玄輔)篁洲(1656~1706)の考証随筆『榊巷談苑』に関して、 京都の木下順庵の門下生で、紀州藩の儒官になった榊原篁洲の 考証随筆『榊巷談苑』(1704年頃か?=日本国語大辞典)には下記の記述があります。 ・『三十輻 第一(国書刊行会本)/大田南畝編/国書刊行会/大正6』 三十輻 卷之二「榊巷談苑/榊原玄輔」<34~45/311>(31~53頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945829/37 <38~39/311>(37頁下段・38頁上段) 「〇この國の下になまずといふものありて、それがうごきするときは、 なゐのふるといふこと、よくわらべの物がたりする、 三才圖會に、木魚の事をのせて、閻浮提はおほきなる鱉の背にあり、 この鱉つねに身を痒がりて鱗甲を動かす、そのときこの世になゐふる、 さるほどにそのかたちをつくりて、つねにうちたゝきて、 痒がりなきやうにする也といへり、この國のものがたりも、 かうやうの事よりいひ出たるなるべし、」と記されています。 「なゐ」とは古語で地震のこと、「ふる」は振動する意味で、 鯰が地震を起こす話は、童の語り草であるといっています。 逆に否定側ではありますが、 ・1710年頃、『乗燭或問珍/児島不求/1710(宝永7)』では 『古事類苑 地部21/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/大正2.7』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897599/59 地部五十 地震(篇) <59/96>1357頁13行目~ 〔乗燭或問珍 一〕地震之説 「…兒女の諺にして云にたらず、彼輩のいへらく、大成鯰地底にありて、日本國中五畿 七道載ずと云所なし、彼尾或は鰭にても動す所忽地震す、故に鹿島の明神(神)、 要石をもつて押給ふといへり、今案ずるに、何ぞ其鯰の圖を見るに、大成鯰のごとき物、 國々を載たり、愚案を回すに、是恐らくは蜻蛉の圖を見あやまりて、鯰に書したる物成べし、 日本紀に、神(神)武天皇卽位三十一年四月、諸國に行幸して、大日本の國形蜻蛉の臀せるが ごとしと宣へり、是に依て我國を蜻蛉洲ともいへり、日本の圖を見るに、頗鯰の形に似たり、 是等の圖を見誤て鯰といふか、又地震の神(神)を鹿島大明神(神)といふ事有べからず、…」 などと… 以上は主にネット検索内の限られた断片情報に過ぎませんので、即断は禁物ですが、 時系列から見れば「新板こよみ/出版1663(寛文3)年」などの伊勢暦が 地震鯰説の普及に一役買った可能性のある一つか、或いは (江戸刊とは言え、江戸と伊勢はリンクしていた様子も伺えますから、 伊勢の御師の活動による全国的な頒布網を通じて、 伊勢暦が、他地域の暦より圧倒的に強力な体制で頒布されたため) 主役の可能性もあったかもしれないと思いますが如何でしょうか? ほか参考URL 『建築雑誌 103(1272)/社団法人日本建築学会/1988-05-20』(34-37頁) 「鯰絵に見る江戸庶民の地震観:儀礼としての災害(<特集>地震)/気谷誠」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110003776811 『人文・自然研究 6/一橋大学大学教育研究開発センター/2012-03』(93-120頁) 「江戸初期出版界と伊勢/柏崎順子」 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/22972 『人文地理 Vol.17(1965)No.4/人文地理学会』(415-425頁) 「寛永元年刊「大日本国地震之図」なるものについて/野間三郎」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/17/4/17_4_415/_article/-char/ja/ 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

その他の回答 (5)

回答No.5

こんばんわ。 bungetsuです。 こんなサイトもありました。 http://www.sems-tokaiuniv.jp/namazu/hajimete/hajimete_0.htm

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

そもそもナマズは地中にいるものではないですよね。 干上がった沼をほじくり返すと、泥の中で耐えてます。 地中に居るという発想は、案外自然かもしれません。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 そのことに気づきませんでした。 あと、なまずは本来西国にしか生息していなくて 江戸時代に人の手によってもってこられたという説があります。 それが事実なら、なまず地震伝説の発祥は、西国にあるのかもしれません。

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 安政2年10月2日の夜、江戸は直下型の大地震に襲われました。これが世にいう「安政の大地震」です。 町方だけでも倒壊戸数15,000を超える大被害が出ました。 地震は地下にいる大ナマズが暴れて引き起こす、という俗説が出たのはこの頃からでした。 安政の大地震がおさまるとすぐさま、ナマスが暴れている絵に江戸の惨状を伝える文章を添えた「鯰絵」が発売されました。 大地震にはまた、これをきっかけに世直しが行われるという俗信もあり、大地震後の復興が期待を期待を裏切るものであったことから、大地震で儲けた連中に鯰をからませ風刺画も次々に世にでました。 数100種にもおよぶ「鯰絵」は、いずれも「匿名出版」で、大地震という悲劇的状況の中でつくられたにもかかわらず、実に生き生きとしていて明るいものが多かったのです。 普段は時事的なものの出版が許可されず、行政にかかわるもの一切の批判を禁じられていただけに、火事場のどさくさにも似た混乱の中、かなり自由に表現できたものの一つでし。 ですから、鯰も愛嬌たっぷりです。火事場泥棒的な金儲けをする連中の描写もあざとくない。江戸っ子の洒落っ気と批判精神が自由を得た場がこの鯰絵だったのです。 添付した絵は、 「鯰の蒲焼大ばん振舞」と題されて売り出されたものです。 大地震を起こした巨大な鯰を蒲焼にしようとする3人の神様は、右から「西の宮恵比寿」、「讃岐の金毘羅」、鯰の監督者「鹿島明神」です。 西の宮恵比寿さまは商売繁盛の福の神の本社、讃岐の金毘羅さまは海上安全と大漁の神の本社だと言われています。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 時分でも調べてみました。 断片的ですが、 ・秀吉の古文書に地震とうなぎを結びつけたものがある。 ・竹生島の鯰伝説。ナマズが龍に変身して(あるいは龍から大鯰となって)島と神社を守護。 ・歌舞伎の演目『暫(しばらく)』に「鯰坊主」が登場し、地震を背景とした強がりを言う。 ・1819年(文政2年)の伊勢・美濃・近江地震で最初の地震なまず絵が登場。 うなぎ、龍がナマズになったのではないかと推察します。 そしてそれは江戸中期ごろかと。

  • born1960
  • ベストアンサー率27% (1223/4397)
回答No.2

 ウィキペディアのコピペです。 大鯰(おおなまず)は、巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。 古くは、地震を起こすのは日本列島の下に横たわる、あるいは日本列島を取り囲む竜だといわれていたが、江戸時代ごろから、大鯰が主流になった。 鹿島神宮の祭神武甕槌大神は、大鯰を要石で押さえつけることで地震を鎮めるという。ただしこれは要石が鹿島神宮にあったことによる後代の見付で、武甕槌大神は本来は地震とも大鯰とも無関係である。  竜がなまずに変わったのはなぜなのでしょうね?(笑) http://www.kashimajingu.jp/wp/keidai/keidai08  鹿島神宮の要石です。

回答No.1

これは良く分かっていない、という回答が正解なのでしょう。江戸時代より前の記録にもそういった内容のものが散見されるようです。