こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>江戸時代の結婚の仕方
◎商家の場合。
当事者の男女が合意すれば婚姻が成立するのは現代の話。
江戸時代では、両者の父親が合意することが原則でした。(父親が死亡したりしている時は、叔父などの男性の親族)
縁組にあたっては、まず、両家の家柄や財産に釣り合いがとれていることが一番の条件。
婚礼の仲人は分一(ぶいち)といって結納金の十分の一が謝礼をもらえるので、仲人を職業としている者までいました。
現代の「お見合いサイト」みたいなものですね。
適齢期の娘や息子を物色しては縁談を持ち込みました。
男子は四十歳前後まで、女子は二十歳まででした。
「十分一(じゅうぶいち) 取るにおろかな舌はなし」
という狂歌まで言われました。
お見合いの場所には水茶屋か芝居見物が選ばれることがおおかったのです。
当事者を交えた両家がそれとなく観察し、一方が先に席を立つようであれば不成立でした。
話がまとまれば媒酌人がたてられ「結納」、そして「輿入れ」となりました。
婚礼は迎え入れる側の自宅で、三々九度の盃が交わされて「結婚成立」となりました。
◎農家などの場合。
多少は地方によって違いますが、
「夜這い」と言って、男が好きになった女の元へ、夜になると通い、女も男を好きであれば、雨戸などを開けて迎え入れて夜を一緒に過ごしました。男がそこそこの田畑を持っていれば、両家の親も見て見ぬふりをしました。
そして、ある程度の期間が過ぎて、それでも男女の仲が切れないようであれば、両家の親同士が話し合って結婚式をあげて、晴れて夫婦となりました。
また、「足入れ婚」という制度もありました。
両家の親同士が話し合って、娘を男の家に入れ、半年や長い時では一年位共同生活をします。つまり、男女の相性を確かめると同時に男の家族とも一緒にやっていけるかを確かめたのです。
もし、その間に子供でもできれば、即、結婚式となりました。
農家の場合は、嫁をもらうということは、男の家の働き手が一人増えるということを意味していましたので、男の親は慎重に嫁選びをしました。
こんなところで良いのでしょうか?
(よもやま話)
☆紀文(きぶん)・・・例外中の例外!!
紀伊国屋文左衛門(通称・紀文)(寛文9年1669?~享保19年1734、4月24日)は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。
やがて、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになりました。
やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」と、条件を出しました。
そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。