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江戸時代の結婚の仕方
江戸時代に興味があります。 いろいろ調べたのですがなかなか出てきません… 知っている方はいらっしゃいますでしょうか?
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- 川原 文月(@bungetsu)
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bungetsuです。 追記です。 ある庄屋の家の「結婚式」の様子が史料に残されていました。 結婚式の当日となると、 嫁の実家が婿の家から遠い場合は、婿の家の割合近い女の親戚などを実家(仮宅)として前日までにそこで一夜を明かしました。 両家の家に、それぞれ近所の者が集まり炊飯などを手伝いました。 そして、昼少し前に婿の実家より仲人が朱塗りの祝儀用の赤樽二つを絡げて手に持ち、「迎え女房」と呼ばれる未婚の女を連れて、仲人夫婦や付き人数人で新郎の家を出立します。 新婦の家に着くと、新婦の両親に広間へ迎え入れられる。双方では、 「今日は良いお日柄で・・・」 などと形ばかりの挨拶が交わされ、続いて座敷へと通される。そこには、すでに近所の人たちも手伝って用意された、煮しめや煮豆、昆布巻きの煮付けなどの祝いの膳が並べられており、嫁迎えに行った人々はそこで接待を受ける。 一献二献と酒が振る舞われ、新婦の父親との盃のやり取りも行われる。 頃合いを見計らって、仲人は、 「では、そろそろまいりましょうぞ」 と、立ち上がろうとする。しかし、新婦側では、 「まだまだ刻限も早ようござる。ささ、もう一献、もう一献」 と、仲人を席に押し戻す。 これも、新婦側の儀礼の一つで、つまりは、新婦をできるだけ、この家から出したくない。それだけ可愛がっているのだ、という意味合いが込められている。 新婦は白無垢で懐剣を胸に、上座の膳に着いてはいるが、これは、純真であるという意味合いと、白装束は死んでもなおこの家には二度と戻らないという固い決意が込められている。 双方で、一刻あまりも世間話をしながら盃を重ねたのち、ふたたび仲人が、 「十分馳走になり申した。婿殿もお待ちかねじゃ、ささっ、参りましょうぞ、参りましょうぞ」 と、盃を膳に伏せる。これで新婦側での宴はお開きとなる。 仲人は、新婦の家で酒を詰め替えられた朱塗りの酒樽を持って再び先頭にに立つ。 迎え女房が新婦の手を引き、嫁側の親族、供の者と続いて、花嫁行列は静かに実家を後にする。 途中の沿道では、ところどころに薪(まき)などを積んで、いわゆる「とうせんぼう」をする。 行列は立ち止まり、手伝いに行けなかった年寄や子供たちが、一目花嫁姿を見ようと集まり、花嫁の綿ぼうしに隠れた顔を何度も何度も覗き込む。やがて、頃合いをみて、仲人が懐に用意してきた紅白の餅をあられ状に切った「祝儀」を紙に包んで「おひねり」をばらまく。子供たちは、夢中になってそのおひねりを拾い集める。薪は大人たちによって取り除かれ、行列は何事もなかったように進む。こうして人家の集まる場所では、何度か立ち止まり、花嫁一行はやっとの思いで婿の家にたどり着く。 婿の家に着くと、玄関を入った広間で、新郎新婦を上座にして両家が向き合って座り、形ばかりの両家の紹介がおこなわれる。この時の自己紹介では、ただ単に「叔父です」「叔母です」などと言うものではなく、 「どこどこの何の誰平衛の血を引く何々家の何代目の何某という者でこざる」 などと、双方の家柄をひけらかす言い方をする。 その間に、新郎の家の座敷には新婦の嫁入り道具として運ばれてきた箪笥や長持ちなどが並べられ、手伝いに来ていた近所の人たちが、遠慮会釈もなく荷を解いて品定めに華をさかせる。これを「つめびらき」という。つまり、「詰め込んだ物を解く」というところからきているらしい。 やがて、一頻りしてから、新郎新婦は神棚の前で、二礼二拍手で頭を垂れる。 そして、座敷に入り、床の間を背にして新郎新婦が座り、その左右に両家の者たちが座る。床の間にはめでたい松竹梅や鶴亀の描かれた掛け軸などが下がっている。いよいよ結婚式である。 現代では、新郎新婦に向かって左が新郎、右が新婦が多く採用されていますが、明治や大正時代までは、新郎が右、新婦が左に座りました。 新郎側の縁戚のある五~六歳くらいの男女が「雄蝶」雌蝶」として選ばれ三々九度に酒を注ぐ。新郎新婦は緊張した面持ちで盃を交わす。 こうして、固めの儀式が終わると、新郎新婦は仏壇の前に座り、先祖にとどこうりなく儀式が終わったことを告げる。こうして、新婦は家族の一員として迎えられるのです。 その間、大広間では祝いの膳が並べられ、披露宴へと続く。 皆が席に座ると、新郎方の長老が裃姿で蓬莱松(ほうらいまつ)と称して、松の盆栽を大きな盆に乗せてうやうやしく登場する。その後を、もう一人の長老が、これは紋付袴姿で「四海波」を謡いながら続いて、盆が座敷の中央に置かれ、四海波も終わると、いよいよ酒宴となる。 大きな車座の中ほどには、大皿に溢れんばかりに盛り付けられた煮しめや巻き寿司、押し鮨、さらには、紅白の餅や団子、饅頭などが並べられている。もちろん、各人の膳にも鯛のお頭付きをはじめとして、煮物、揚げ物、焼き物などが盛り付けられている。 給仕役の近所の者が何人か座の中ほどに出て、次々と列席者に酒を勧めていく。やがて、宴もたけなわな頃を見計らって、新郎新婦は席を立ち、奥の部屋で新婦のお色直しが行われ、そして、燗をした徳利を持って、今度は、参列者たちに酌をして回る。冷やかしの言葉や祝いの言葉がかけられながら酌は進む。 なかには、下戸(げこ)もいて、そういう人へ酌が回ってくると、めでたい唄などを披露して酌を逃れる。 こうした宴は延々と夜遅くまで続く。地方によっては、二~三日続くことは珍しくはない。 以上が、ある地方のある庄屋の家の結婚式風景です。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代の結婚の仕方 ◎商家の場合。 当事者の男女が合意すれば婚姻が成立するのは現代の話。 江戸時代では、両者の父親が合意することが原則でした。(父親が死亡したりしている時は、叔父などの男性の親族) 縁組にあたっては、まず、両家の家柄や財産に釣り合いがとれていることが一番の条件。 婚礼の仲人は分一(ぶいち)といって結納金の十分の一が謝礼をもらえるので、仲人を職業としている者までいました。 現代の「お見合いサイト」みたいなものですね。 適齢期の娘や息子を物色しては縁談を持ち込みました。 男子は四十歳前後まで、女子は二十歳まででした。 「十分一(じゅうぶいち) 取るにおろかな舌はなし」 という狂歌まで言われました。 お見合いの場所には水茶屋か芝居見物が選ばれることがおおかったのです。 当事者を交えた両家がそれとなく観察し、一方が先に席を立つようであれば不成立でした。 話がまとまれば媒酌人がたてられ「結納」、そして「輿入れ」となりました。 婚礼は迎え入れる側の自宅で、三々九度の盃が交わされて「結婚成立」となりました。 ◎農家などの場合。 多少は地方によって違いますが、 「夜這い」と言って、男が好きになった女の元へ、夜になると通い、女も男を好きであれば、雨戸などを開けて迎え入れて夜を一緒に過ごしました。男がそこそこの田畑を持っていれば、両家の親も見て見ぬふりをしました。 そして、ある程度の期間が過ぎて、それでも男女の仲が切れないようであれば、両家の親同士が話し合って結婚式をあげて、晴れて夫婦となりました。 また、「足入れ婚」という制度もありました。 両家の親同士が話し合って、娘を男の家に入れ、半年や長い時では一年位共同生活をします。つまり、男女の相性を確かめると同時に男の家族とも一緒にやっていけるかを確かめたのです。 もし、その間に子供でもできれば、即、結婚式となりました。 農家の場合は、嫁をもらうということは、男の家の働き手が一人増えるということを意味していましたので、男の親は慎重に嫁選びをしました。 こんなところで良いのでしょうか? (よもやま話) ☆紀文(きぶん)・・・例外中の例外!! 紀伊国屋文左衛門(通称・紀文)(寛文9年1669?~享保19年1734、4月24日)は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。 やがて、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになりました。 やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」と、条件を出しました。 そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。