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善悪の判断基準とは?
道徳心に従って、普通に考えれば良いのですが、基準を決めるとなると難しいですね。 社会が複雑になるほど、沢山の法律が必要になってきます。 絶対に良いこと、絶対に悪いこと、ってあるんでしょうか?
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カテ違いのような気もしますが。 何をもって善とするか悪とするかは、諸説が あります。 相手が望むことをするのが善で望まないことをするのが 悪だ、という説もあります。 しかし、これだと相手が犯罪や自殺を望んでいたときの 説明ができなくなります。 社会の幸福と己の幸福が一致するように行動することが善 であり、不一致が悪である、とする説があります。 しかし、社会の幸福が間違っていたらどうなるのか、という 疑問があります。 その社会が汚職まみれの社会であった場合、汚職をするのが 当たり前なら、己も汚職をして、それが善だと言えるのでしょうか。 欲望を抑えるのが善で、欲望のままに振る舞うのが悪だ、 という説もありますが、これではHは総て悪になってしまいます。 社会の秩序を維持することが善で乱すことが悪だ、という説も あります。 これだと北朝鮮で抵抗運動をすることも悪になってしまいます。 私は、最後の秩序維持説が妥当だと考えています。 というのは、善悪なんて概念は人間が勝手に造ったものだと 考えるからです。 人間には社会が必要で、その社会には秩序が必要です。 善悪とは、その秩序を維持する為のツールだと思うからです。 その社会にとって都合が良いものを「善」と名付け、奨励し 都合が悪いものを「悪」と名付け、禁止抑制しようとした。 そうやって秩序を維持しようとする。 善悪なんてそんな程度のものに過ぎないと思うからです。 尚、イエズス会が来日して日本人信者を増やそうとしたのですが、 日本人から、神だ悪魔だとして、絶対悪云々をいうが、善悪など 時代と立ち位置により変わってくるものではないのか、と 問われ、答えられなかった、という記録が残っています。
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- williumblake
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法でなく道徳心からということであれば、 相手のためになる、相手にいい結果をもたらすと信じて行うことが善 相手の不利益や苦痛になると分かっていて最終的に困らせようと意図して行うことが悪 といえるのではないでしょうか。 戦場で負傷して死を待つばかりの者に止めをさしてやるのも善意といえば善意です。 相手を太らせようとしてたらふくメシを食わせるのは悪意かもしれません。 意思によらない行動というのは普通はありえませんから、外見的な行為よりも、その背景にどういう感情や意思があるかが重要ではないでしょうか。 荒療治という、病気の治療(=善意)のために行うが、ある程度相手に苦痛を与えることが前提の言葉もあります。 へんな宗教に洗脳されて、殺しを被害者のためとか信じて正当化するのはまた別の話ですが。
- alterd1953
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絶対的というと最終的に自分しかないでしょうね。 善悪というのは当然属する共同体によって違いますから (一般人を殺せば悪、敵を殺せば善) 自分が属する共同体を害することが悪 維持すること、もしくは利益をもたらすことが善だと思います。 ただ現代は価値観が多様化してますから 自分がどんな共同体(価値観)に属しているかの 見極めが難しくなっているのだと思います。 やはり自分の心に聞くしかないと思います。
お礼
善悪とは、「相対立する考え」、と言えるのではないかと思います。 どちらが善で、どちらが悪、なのかは、その時の立場や、見方によって違ってくるように思います。 しかし、相対立する考えには変わりません。しかし、人は何となく善悪を心の中で判断しているのが不思議ですね。 ご意見有難うございました。
- bardfish
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価値観に絶対ってないと思います。 例えば、良くないことの代表として誰もが納得する殺人ですが、戦争であれば敵兵を殺すことは良いこととされてしまいます。 自国にとって良いことであっても、敵国に対しては受け入れがたい屈辱だったり・・・ 「道徳」にしても、国や地域によって違いますよね。 宗教の戒律に厳しい国と日本のような無宗教なところを比べるとわかりやすいと思います。 「基準」を決める場合は、多くの人の意見を聞き、その意見を集約し皆が納得できる妥協点を見出すこと。が重要なのでは、とおもいます。
絶対によい事として、誰かを幸せにすること。 また、誰も不幸にしないこと。(ある意味不可能) 絶対に悪い事として、命に直接関わること。 (殺めることなど。) だと思います。
お礼
旧約聖書に、「善悪を知る木の実」 というお話が出てきます。 神様の言われた通り、この木の実をエバが食べなければ、「善悪」 を気にすることのないエデンの園にアダムと永遠に幸せに過ごせたのです。 ところが、エバがこの木の実を食べた事によって、神様の意志にそぐわない事、つまり、神様の意志に対立する考えが発生したのです。 つまり、「善悪を知る木の実」 を食べるということは、対立する考えを持つ、ということではないかと思います。 このお話の中では、神様に従う事が善で、従わない事が悪、とはっきりわかるのですが、しかし、今日具体的に、何が善で、何が悪か、と聞かれると、答えることはできません。 ただ、エデンの園を追放されたために、人間は相対立する考えが交錯する世界の中で悩み苦しみながら生きていかなければならない宿命を背負った生き物になったと、言えるのではないかと思います。 そこで、人間は苦しみぬいた揚句、数えきれないほどの宗教を作って、これを信仰し、元の、エデンの園に戻りたいと嘆願しているのではないかと思います。