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何故なお神を勘違いしたままでいるのか?
人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか? A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか? A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか? B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか? * ○ (神とは何か?) ~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~
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質問者が選んだベストアンサー
わたしの回答は明確です。回答の前に質問者さんの整理された視点に加え、「人間の歴史」に対する視点を考える必要があります。さらに、「言語の魔力」についての理解もまた重要だと思います。わたしたちは生まれてまもなく「神は存在している」と口にする前に、わたしたちはまず生まれた環境によって現在ある宗教並びに信仰の対象となっている神の存在について教えられるのであって、それらは私たち自身が直接体験したのではなくて、かつてそこに存在していたと知らされていること。そこにおいてわたしたちが始めて神に遭遇し、それが何ものであったかと考えることになること。これらは一般的な歴史にたする思考方法や議論と同じ様相なのであって、大半は神に対する議論でない可能性があること。その上で、ここでは「神」というシニフィエだけが与えられ、わたしたちはそれに対するシニフィアンの不在に困窮し、これを探すの欲望にかられてしまうこと。言語というものが、普段はわたしたちの経験や体験というものを前提に機能しているはずだと思い込んでいて、通常はシニフィエとシニフィアンがワンセットである故に、それが突然片方の不在にあうことによって、シニフィアンの存在を埋め合わせようとし始めるある種の病のような欲望が生まれること。そしてこの欲望を根拠としたアプローチが理性的なものであるか、感性的なものであるかによって、語り口が違うだけのことであること。それらはまるで芸術作品のようなのであって、わたしたちは「勘違いしたまま」でいれるのだ、とわたしはその様に思います。
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- JoyWorld
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なぜあなたはキリスト教とか神についての質問を延々とここで繰り返しているのですか。 神を信じたいのですか? あとあなたの「みづから」という誤った日本語を見るたびに不快になりますので、修正してください
お礼
たのしみの世界さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ簡単なほうからですが: ★ あとあなたの「みづから」という誤った日本語を見るたびに不快になりますので、修正してください ☆ たしかに現代では づ と ず あるいは ぢ と じ とをそれぞれ区別しませんし いづれも後者でつづるのが 多いのですが でも 前者のばあいが皆無なのではありません。 ○ (づ や ぢ をめぐる仮名遣い)~~~ (1) そのまま用いる例=同じ音韻の連続により濁音となるばあい: ・続く=つづく; 縮む=ちぢむ (2) 「じ/ず」を本則として、「ぢ/づ」を許容する語例: ・いなづま(稲妻)、かたづ(固唾)、きづな(絆)、さかづき(杯)、ときわづ、ほおづき、みみづく ・うなづく、おとづれる(訪れる)、かしづく、つまづく、ぬかづく、ひざまづく、あせみづく、くんづほぐれつ、さしづめ、でづっぱり、なかんづく、うでづく、くろづくめ、ひとりづつ ・次のヰキぺより引用:《現代仮名遣い》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3%E3%81%84#.E5.9B.9B.E3.81.A4.E4.BB.AE.E5.90.8D.E3.81.AE.E8.A1.A8.E8.A8.98.EF.BC.9A.E3.80.8C.E3.81.98.E3.80.8D.E3.80.8C.E3.81.A2.E3.80.8D.E3.80.8C.E3.81.9A.E3.80.8D.E3.80.8C.E3.81.A5.E3.80.8D (3) みづから←―み(身)‐つ(の)‐から(柄)=《身の関係においてそのまま》の意。 おの(己)‐つ‐から―→おのづから ・から は 東京から大阪へ のカラと同じです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 《不快になる》そうですが 《誤り》とまでは言えないでしょう。 ★ ~~~ なぜあなたはキリスト教とか神についての質問を延々とここで繰り返しているのですか。 神を信じたいのですか? ~~~~~ ☆ 神は わたし自身の神を信じていますが 質問は 神学にも足を踏み込んでいつつも 哲学としての問い求めです。 ★ キリスト教とか神についての質問を延々とここで繰り返しているのですか。 ☆ と言わねばならない質問・つまり すでに哲学としてなら明らかになっていると思われる主題や事柄にかんする質問が この質疑応答の場で 見かけられます。これは どうして絶えないのか? という問い求めです。
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お礼
あーこーぶさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。鍵語は ○ 主観 ないし 《わたし》 ではないでしょうか? つまり わたし・ぶらじゅろんぬは どう思うか。あるいは あーこーぶさんご自身は どのように考えるのか。 ★ それらはまるで芸術作品のようなのであって、わたしたちは「勘違いしたまま」でいれるのだ、とわたしはその様に思います。 ☆ というようにすでに本筋としての回答を明らかにしていただいたのですが そのとき――しかもそのとき なおです なおそのとき―― ご自身は 《勘違いしたままでいてよいのか?》 そこのところを どう思いどう処理されているのか? ではないでしょうか。 というよりも――話は ここから先にあると思われるのであって それは―― すでに《勘違い》だと見ているのなら あいまいなかたちとしてでも じつは《正解》をわたしたちは知っているということです。神という普遍性の主題であるなら 実際にはそういうことになっているのでしょう。 このことが しかも《主観》において どう扱われているのか? もしそれでも勘違いしたままでよいとするなら それは たとえばそれぞれの宗教や宗派がその《芸術作品》のごときおのおのの神学をもって勘違いを再生産して行くことになるけれども それをどう処理するのか? 放っておくのか? ではないでしょうか。 ★ 通常はシニフィエとシニフィアンがワンセットである故に、それが突然片方の不在にあうことによって、シニフィアンの存在を埋め合わせようとし始めるある種の病のような欲望が生まれること。 ☆ わたしたちそれぞれが主観において もし必要とあれば《神》に代わるあたらしい言葉を見つけ出せばよいのではないでしょうか? 病いと言う前にです。 ★ そしてこの欲望を根拠としたアプローチが理性的なものであるか、感性的なものであるかによって、語り口が違うだけのことであること。 ☆ といった全体の情況の中にあってその情況を見て では《わたし》は どう考えどう処理しどのような《わが神》を持つに到るか? つまり言いかえるなら 理性によるにしろ感性によるにしろ それらを総合してさらに《わたし》は どう哲学として捉えるか? ではないでしょうか。(むろん その前に《わが神》を明らかにしておのが信仰を持つに到ることが先行しますが この質疑応答の場では 哲学として世界全体をどう見るか これがおもな主題ですから)。 ★ ~~~ わたしたちは生まれてまもなく「神は存在している」と口にする前に、わたしたちはまず生まれた環境によって現在ある宗教並びに信仰の対象となっている神の存在について教えられるのであって、それらは私たち自身が直接体験したのではなくて、かつてそこに存在していたと知らされていること。 ~~~~~ ☆ さらにつづけて引用しますが: ★ ~~~~ そこにおいてわたしたちが始めて神に遭遇し、それが何ものであったかと考えることになること。これらは一般的な歴史にたいする思考方法や議論と同じ様相なのであって、大半は神に対する議論でない可能性があること。 ~~~~~~ ☆ おそらく それでもじつはわれわれ人間でも《神は何でないか?》については 明らかにすることが出来る。と思われますし そう言わねばなりません。そのことは 趣旨説明の前半に質問者としても つづりました。少なくとも 哲学としては 明らかにしうることは しかるべく明らかにしていることは 大事だと思います。 そして 質問者つまりわたしの場合 さいわいにも《神は何であるか?》の問いについてもそれとしての答えを得ました。その内容には普遍性があるとまで自負しています。 つまり そういう哲学のいとなみが ただ単なる《芸術作品》をかたちづくるような神学が重ねられるそのかたわらで 一たん明らかにされたなら これをたたき台にして大いに――密林を切り拓くかのようにしてでも――知の作業は起こして行かねばならない。のではないでしょうか? ★ さらに、「言語の魔力」についての理解もまた重要だと思います。 ☆ これは ひとつに《神は何々ではない》という定義においては 魔力が減じられ得ます。 もうひとつに 《神は何々である》という規定においては その定義を《想定である》という前提におけば やはりその《魔力》を突き抜けて広く晴れ晴れとした生活世界がじつはその密林のただ中に開けていたと知ることになる。のではないでしょうか? 《生まれる前からすでに〈かみ〉という言葉があって 〈わたし〉の心つもりとは別のところでとさえ言いたくなるようなかたちで遣われていた》という問題も おそらく解き放ち得たのではないでしょうか? ★ わたしの回答は明確です。 ☆ とおっしゃる視点 ここからあと一歩――あと ほんの半歩―― 以上のように伸ばしてみられては いかがでしょうか? と質問者ながら お応えいたします。どうでしょう。