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疑わしきは
http://www.asahi.com/national/update/0224/TKY201202240403.html?ref=gooに、疑わしきは罰せずの法諺に沿っているような判決が出ました。 多分刑事訴訟法は人権を大事にしなければ生けないという思想が一貫していて、その原則での判決なんでしょう。 しかしこの事件でのこの原則の尊重は、あまりに形式的尊重に傾いているかのような感もあります。 警察と検察の立証の枠はめは人権のためには必要ですが、今回の判決で一件落着になるのでしょうか? 実際の事実審理記録もしらず、報道だけの情報ですが、みなさんは疑問ではありませんか?
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質問者が選んだベストアンサー
質問者さんが納得できないのは、被害が大きいのに 犯人が特定できない、ということにあるのでは ないですか。 一審から最高裁まで一環して、無罪、てのは よほどヒドイ、という推定が働きます。 ヒドイ、てのは検察が、てことです。 しかし事件の大きさから考えて、犯人を逃す 訳にはいかない。 そして、犯人は、被告以外に考えられない。 しかし、証拠は・・。 最近、検察の質の低下が言われていますが、 その一環でしょうか。 尚、無罪の推定、てのは 「百人の犯罪者を逃がしても、一人の冤罪をつくる よりマシ」 て、思想が前提になっています。
お礼
hekiyuさん、よくご訪問くださいました。仰せの事一々もっともです。 つまりはっきりと立証が不十分不適切だ。ということに尽きているかのように新聞報道を読みました。 正に疑わしきを罰せずというのではなさそうですね。 確かに検察警察の捜査と立証は国民にとってはもっとも重要ですね。 そして適切で充分なる立証ができない。しかし最高裁までいく。 ここにのっぴきならない意図を感じます。 立証の適切性と充分性の重要さを指摘してもらう事。 そして被告人は罪に問われることはなく、無罪。 そして今後の人生をこの娑婆で生きていく、たいへんな事ですね。 弁護側は法の原理を貫徹させて勝利させた。 或いは苦い勝利の盃になっていないのであろうか。 私も、被告人の30代なんてまだまだ判断も決意も未熟だと存じますので、気の毒といえばまことに気の毒です。 有り難う御座いました。
補足
検察の質の低下は多分、どこの組織機構でも起こっている、その職分の歴史的流れの認識や見識のない人事政策もあり、また社会や政治の変化に伴って、長く守ってきた方式を受け継ぐ機会が少なくなっているせいもあるでしょうね。 昔は絶対そんなことは許されなかったことが、するりとぬけていく。 検察、警察、司法のプロパー職の人民を見下した権力意識だけは継続しているのでしょう。人民はそういう意識の人の被害に遭わないように用心していくことが大事ですね。相手にされないようにしていかなくてはなりません。 有り難う御座いました。