高校野球バッシングが多くなっている昨今を思いますと、確かに時流に逆らった課題ですから、あるいは、悩まれる人も多いのではないかと推察します。
ですが、まあ、ここは課題として与えられた作文ということですから、高校野球を褒めなければならないのでしょうね。
仕方ありませんから、中継プレーやベースカバーなどの守備におけるチームプレーの効用、送りバンドに代表される他者を生かす為に自らを殺すという行為の高尚さ、などを書き連ねる他ありません。
また、他のスポーツ競技ではなく何故、野球かということでしたら、例えば、絶滅したネアンデルタール人は身体能力が優れていたが故に長い槍を振り回すだけで、物を投げるということをしませんでした。屈強な彼らには、そういう発想がありませんでした。が、体が小さく非力であった私たちホモ・サピエンスは、投げることを覚え、そして投擲具を発明して生き残り競争に勝利しました。投擲具によって、多くの集団を管理することも可能になりました。投擲具が無ければ、150人が人間の統治管理の限界人数と言われますが、これが、投擲具の出現により数千人の管理が可能になったとされています。非力ですが、多人数がルールに従って、集団生活が出来るようになったわけです。つまり、投擲具さえあれば、身体の大きな者に対しても、公平に罰を与えられるようになったわけですから、ルールは集団内の他者の眼によって守られるようになるのですね。狩りの道具のみならず、刑罰の道具として投擲具は機能して、集団ルールが守られたのです。投げることが集団の平和と各人の安全に寄与したことになります。非力でもルールに従って、正しい事を行えるようになったのです。
野球に必要な正確に投げるというのは、あるいは、遠い祖先が器用であった事への懐かしい記憶、または、ホモ・サピエンスとしての確認作業なのかもしれません。だからこそ、今日でも、様々なものを投げる競技スポーツが存在するのだとも考えられましょうか。