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死にたいのに死ねない社会
- 人は生きる権利はあるのに、なぜ死ぬ権利はないのでしょうか?
- 死にたい人を死なせてあげることはできないのでしょうか?また、そういった制度などは既にありますか?
- 死ぬという選択肢がありながらも、自分の意思で生きることを選ぶという事実が私はほしいです。
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こんばんは。 人に死ぬ権利があるかないかというお話ですが、個人的な見解を述べさせてもらうなら、死ぬ権利はあると思います。 しかし、例えばそれは、病気などが進行してもう助からない。意識も無いのに機械の力で辛うじて生きていられるような場合に限ると思います。 いわゆる尊厳死ってやつですね。 ただ、今回の質問の話は、そうではなくて「自殺する権利」という解釈でいいんですよね? 個人的には、それは『ない』と思います。 なぜかといえば、『人の死』というのは例外なく、その人に関り、残された人間を攻め立てるからです。 例えそれが病気であれ、老衰であれ、自分に関わりのある人が亡くなった時に人は「あの時もっとこうすれば」とか「あの時もっとこう出来たのではないか」と思ってしまうものです。 あなたの言わんとしている事は理解できるのですが、あなたの理屈には、そうした残された人間の視点が欠けているのではないでしょうか。 自分の命なのだから、使うも捨てるも自由だと思うかもしれませんが、それはあなたが『生まれてから今まで誰とも関わらずに生きてきたなら』という前提ありきで、しかしながら、そんな人間は世界中に一人もいませんし、人として生まれたからには必ず、誰かと関りを持たざるを得ません。 そして上記の通り、命を捨てる事はそうした自分に関りのある人を攻め立て、傷つける行為であると私は思いますし、そんなのは『自由』ではなく、ただの『勝手』だと思っています。 ドラマやマンガで言う「生かされている」というのが、どのようなシチュエーションなのか分かりませんが、大抵の場合、「死にたいのに無理矢理生かされている」というネガティブな意味合いではなく、「沢山の人が自分の人生を支えてくれているから生きていられる=生かされている」という意味合いで使われるのではないでしょうか? 更に言えば、自殺の場合は自分に関りのある人だけでなく、自分に関りの無い人も巻き込んで迷惑をかけてしまいます。 それが、電車に飛び込むだろうと薬で死ぬだろうと、一人山の奥で餓死するだろうと同じ事です。 自殺は必ず、自分に関りのある人も関りのなかった人も巻き込んで多大な迷惑をかけ、その上でその人たちを攻め立て、傷つけるのです。 少なくとも、今の日本で人が死ぬというのはそういう事です。 もしかしたら、世界中のどこかには「死ぬ自由」を認める国や、制度があるかもしれませんが、少なくとも私の知る限りでは、見たことも聞いた事もありません。 くどいようですが、あなたの言う「死ぬ選択肢を持つ事で生を選ぶ」という主張は理解してるつもりだし、それ自体は否定する気はありません。 ただし、実際に死という選択肢を選ぶのは、あなたの生と死に関る人全員に、決して仕返しされない高みから石を投げつけるのと同じ行為なのだという事も頭の片隅に置いておいていただければと思います。
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- 鎌田 宏(@kinkitiku)
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私もあなたと同感です、世の中にはあなたのご意見に賛同する人は多い筈です、ではなぜあなたのように声を挙げないのか、それは我がままな事だからです、単に我がままを言っているに過ぎず、それ以上何も起こらない空論だからです。 今後も私達の考えが多数を占める事はないでしょう。 では、なぜ人びとは生のみを肯定するのか、信仰の有無にかかわらず心の奥に根差した道徳観でしょう、あるいは寂しさかも知れません、80歳半ばの人が死去すれば当然の成り行きではあっても人は悲しみ涙します、やはり生きていてほしかったのです。 ある病院の事ですが屋上から飛び降り自殺をする人が多いそうですが防御柵を設けるなどの対策はとられていません、希望のない患者への暗黙の配慮かと思っています。 楽に死ねる薬が欲しいですね、自分でちゃんと整理して綺麗にこの世にピリオドを打てたいですね。 ちなみに私75歳で元気でしゃんしゃんしていますが、もうそんなには生きられませんし病気してまで生きたくもありません。 ただ、地獄へは行かされる筈はありませんが天国とはどんな所かハッキリしないのが不安です、行き先がハッキリしていればいいなと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 人間は生きることに関して、言葉は汚いですが他人の臓器を使ってでも生き延びようとします。薬や機械で余命を伸ばしたりします。 ですが死ぬことに関してサポートしているところはありません。それはこの質問に回答していただいた皆様のご意見とおりです。 人は一人では生きてはいないという言葉にはもっと深い意味があるように感じました。
死にたいのに死ねない社会 はぁ?一体どこの国の話ですか? この国では年間に3万人を越える自殺者が出てますけどぉ。 死にたいのに死なせてくれないって、つまり、誰かに見つかって、止めに入られるってこと? 見つからないようにやればいいじゃん。 何事もそれなりの準備をしないとうまく行かないって、常識じゃない? まぁ、運がいい人もいるにはいるけど。 宗教や社会的束縛が強くて、自殺すると残された家族が村八分とか、そういう社会もありますよ。 北朝鮮なんかはそういう点では、自殺もうかうかできないから、死にたいのに死ねない社会だと思います。あの国は、将軍様のご指導で、地上の楽園を実現した、世界一幸せな国民ということになってます。自殺はそれに対する抗議とみなされて、つまり反体制派、反逆者というレッテルを貼られて、一家が危険人物として監視対象に入れられます。下手をしたら、一家まとめて収容所送りです。収容所でなくても都市部には住めなくて、北のほうの田舎に移住させられます。残る家族のことを思って、死にたくても死ねないらしいです。 イスラム過激派の国もそうでしょうね。そんな死に方をするなんて、爆弾かついで自爆テロでもするべきでしょう。 日本もきっと昔は今よりそういうことはあったんじゃないかと思います。自殺の身内がいると縁談を断られるとか。無駄死にするくらいなら、人柱にでも志願してほしいですからね。死なせたくない娘を人柱に差し出した親から見れば、絶対にそうでしょう。 で、どういう制約があってできないといわれるんですか? >死ぬという選択肢がありながらも、自分の意思で生きることを選ぶという事実が私はほしいです。 言いたいことは結局これ? 自分が、今、生きていることを肯定できないってこと? ふーん。 はっきり言うけど、そういうのを、他人や社会に求めてもないんじゃないかな?あるとしたら、上に書いているような(北朝鮮以下の)世界になっちゃいます。 自分で自分を肯定するしかない、というか、それを許された社会に私たちは生きているということです。 で、ほとんどの人は、「死ぬという選択肢がありながらも」なんて大げさなことを考えなくても、普通に生きていることを肯定してます。そこまでしないと自分に価値付けをできない人って、一種、傲慢よね。
お礼
回答ありがとうございます。 だからこそ死にたくても死ねないんです。 そういう社会はあり得ない、おかしいと思うのが今の世界であり、それが正しいと思います。 もし死ぬという選択肢がある社会を想像した時、命の重さは今よりずっと軽くなってしまいそうですよね。 またそういう制度があったとしても、死ぬ直前に人間は色々と考えて、死ぬのをやめると思うんです。
暗い話で、済みません、、、。 去年、親戚のオジイさんが亡くなって、 つくづく、「死ねない医療」を感じました。 もともと太っている人じゃ無かったですが、 まるでミイラでした。 年齢もかなりイッテました。 痴呆も有りましたし、既に2年寝たきりでした。 何度か、病院に見舞いに行きましたが、 似たような状態の老人が大勢いました。 こんな状態になって、、、たとえ死にたい(終わりにしたい)と 思っても、死ぬ事も出来ない姿は、自分の将来を思うと、 その前にドウにかして、終りたいものだと思わずには居られませんでした。 もう死にたい、、、という考えすら、考える事が出来ない状態まで、 自分を失ってしまうのは、、、本当・・・恐怖です。 その前に何とかしたい、、、と思う、今日この頃です。 そして、生きてる内は、恥ずかしい最期を迎えない自分の為に、 精進したいと思います。 人間、いつでも死ぬ覚悟と準備、、、そして生きる努力は 必要だなぁ、、、、と思います。
ご質問を拝読し、昔見た『この命だれのもの』という劇団四季?の舞台を思い出し、確か母親だったと思うのですが、問われて、「私がそんなに生に執着していたと思うか?」と言う意味の科白を言った時に受けた衝撃を思い出しました。まだ私も20代だったでしょう。まだ母も健在でした。是非機会があったらお奨めします。私も『後期高齢者』の仲間入りも間近で、もう一度見たいと思っています。
- shizumo
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続きです。ほとんどの宗教は自殺を禁じています。それは本能的にヒトは自殺は良くないものだと知っているからです。ところがヒトの知識と賢明さは自殺をしてもいいはずと理性で説得しようとさせます。 死ぬ「権利」ということばがまさにそれです。権利があれば生きる「義務」もあるのです。気がつきましたか?あなたは生きるためにどれだけの義務を果たして権利を主張しますか? だから宗教と言う神を持ち出し、あるいは自殺後の世界を表して禁止します。 悪いことに日本は宗教観がありません。良い意味での宗教的束縛が消え、自殺は安易に容易に行なわれます。 当たり前のことですが病気の末期での尊厳死は認める国があっても、人生疲れたとか、嫌だとかで自殺を認める国は現在ありません。
- shizumo
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いろいろ意見があるようですが、「自殺しようが」事故死だろうが病死だろうが周囲の人は同様に悲しみますし、つらい物です。前向きで満足のいく自殺であれば理解を得られるでしょう。突発性のものはいけません。わたしは10年計画自殺をブログで発表し、あと8年です。皆知っています。 なぜ、そう考えるか、自殺した後どう処理をして欲しいか、全て書いてますし誕生日ごとに遺書も更新しています。 死は死であって、それが偶然よりは自分の意思で行う方が望ましい。私はそう思います。 しかし、家族や子供がいると責任があります。責任あるものは自殺してはいけません。わたしは独身で家族を持たない選択をしました。その理由の一つに自殺ができると言うのがあります。 運命と言うのを最後の死まで考えるなら、私は今までの生活は中学~高校あたりから漠然と思っていたしたいこと、将来は予想以上にうまくいきました(その分、経済的なゆとりはないだろう、結婚はしないだろう、中年以後は没落するだろう、最終は自殺するだろうという負の予想もあり、こちらもほぼそのとおりです。 自殺と言うのは類人猿~ヒトが人間になったラインともいえます。書きませんが自殺とは非常に高度な行動なのです。
お礼
高校時代に友人が、卒業式が終わったら自殺すると言っていました。 結局卒業後に会っていないので実際に死んだのか分かりませんが、葬式の誘いはありませんでした。 友人曰く、学生生活は楽しいが社会に出たら40年間働き続けるんだぞ、そんなのまっぴらごめんだ。と言ってあっけらかんとしていました。 死について考えることが生きている証なのかもしれませんね。
- 令和のだぶるいー(@wsg48)
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人が生きる意味 についての相談箱 http://questionbox.jp.msn.com/qa7266141.html これを読むとなんかわかってくるかもしれません。 自殺することが、人の生きる意味の中に入っていないことが、なんとなく人間の中で感じているからかなと思います。
お礼
死にたくないから衣食住を充実させるのではなく、生きたいから衣食住を充実させる。 似たような意味で実際同じ意味ですが、内に含んだ意味は全く違いますね。 余談ですが、サーカスや大道芸がすごいと思うのは一歩間違えば死ぬかもしれないからだと思います。そう考えるとサーカスは言い得て妙ですよね。
- tabasuko_otoko
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>死にたい人を死なせてあげることはできないのでしょうか? わざわざ目立つところで死のうとするからでしょう。 それこそ本気で死ぬつもりがない、悲劇の主人公を気取ったド阿呆の証拠です。 人に知られず死ぬ方法なんて、ちょっと考えればいくらでも出てきますが? それが思い浮かばないということは、あなたは自分が世間から可哀想と思ってもらいたいというだけの話です。 死ぬが切り札というのも嘘ですね。
お礼
人が死ぬということは深刻な出来事です。 知られずに死んだとしても、いつかは気づかれてしまいます。遅くなればなるほど腐食や白骨化して余計に話題になるかもしれませんから、最初から「私は死にたくてしにました」という遺書を書いて印鑑など押して死ねる施設や企業?があれば余計な問題が解決できると思ったからです。 それに、人間死のうと思えば気が楽になって考え直す瞬間があると思います。
- Hachicoo0
- ベストアンサー率66% (4/6)
私も沢山考えました。 正解がない何が正しいかわからない 死と生は隣り合わせ。 自分しだいで人生変わる。 なにがおきるかわからない 不思議 不安 命があるから生きてる 結局は綺麗事にしか ならない気がします。 自分のために死ぬのは 他人に迷惑がかかる 今の世の中死ぬ権利 ないですよね。 でも生きる権利があるとも 言えませんよね。 権利があるならなぜ飢え死に しそうな人を助けないのか ホームレスや多国の方 生きてることが当たり前 なんぢゃないから 自ら死ぬのはその人達 に失礼だ っとか? 難しいですよね 私は自分のために生きる とゆうより誰かのために 生きるほうが生きてる 心地がします。 死にたくないとも思います。 沢山の意見聞いて納得 いくものがあるといい ですね(´・ω・`
お礼
もし死ぬ選択肢のある社会があったとしたら、と想像した時ある日突然友達が死んでも悲しまなくなりそうで、少し怖くなりました。 他人に迷惑をかけるから死なないというのは少し疑問があります。 死んでしまえばすべてが無くなるわけですから、周りを気にする必要はないと思います。と、思ったのですがしと直前までは生きているわけですからそう考えるのも間違ってはいないですよね。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
他人が羨むような美人でしかも気立てがいい妻を持ち、将来美男美女確定でしかも素直な性格の子供がいて、安定してかつやりがいがある仕事をして充実し、しかもそこから豊かな収入を得てリッチな暮らしをしている。そんな人が死にたいと思うでしょうか? まあ上記の例は極端にしても、幸せな状態で死にたいって思う奴がいるかってことです。死にたいって人たちはみんな不幸だから死にたいわけです。そして死んじゃえばそれでもう終わりです。もしかしたら明日にいいことがあるかもしれないのに。 私は20代の若かりし頃、死にたくて死にたくて、もし当時にこういうのがあれば間違いなくもう死にたいですという質問をしたであろうくらい死にたかった時期がありました。死なないと、俺がこんなに苦しんでいたことを周りは分からないだろうと思っていました。 その後まあそれはなくなったのですが、今度は30代のときに「人生、終わった」と思った時期がありました。もう自分の人生は終わりで、あとはただダラダラと生きて死んでいく(その頃は自殺する元気さえないという感じでした)のだろうな、と思いました。アテのない週末はただ漠然と競馬をしてひとときの虚しい興奮に身をやつしていましたね。もし、死ぬ権利なるものがあれば間違いなくそのときに行使していたでしょう。 その後、私はとても充実した仕事を得ることができました。恋人も出来、ついでに二股までかけました。しかも、二人とも世間一般じゃ美人と呼ばれるようなイイ女でした。もし、20代か30代の頃に死んでしまっていたら私はその後のパラダイスを知ることは永遠になかったわけです。そういう経験をすると、死ぬのは実にもったいない話だと痛感しますね。だって、なにも慌てなくたって最後には死ぬわけですから。そんならわざわざ今日死ぬこともないわけです。 もちろん、世の中きれいごとばかりじゃありません。先だっての震災で、ご両親が亡くなり、妻と娘が行方不明という方がいました。私と同世代の方です。その人を思うと、私は涙を流すしかできなくなります。これから先の彼の人生には、もうお正月もクリスマスもないのです。しかも残された人生はあまりに長い。そう思うと、本当に悲しくて、もし仮に彼が自殺したとしても誰も責められないですしむしろ切実に彼は家族の元へ行きたいと思っているでしょう。 でもそれでも、そうだとしても、やっぱり人は生きる権利があると思います。その生きる権利というのは、誰にも剥奪することはできないこと、例え自分であったとしても、そう思います。なぜ自分でさえそれを奪う権利がないのかというと、明日、あるいは一年後、あるはもっと先だったとしてもいいことがある可能性は否定できないからです。では震災で両親と妻と娘を亡くした人のどこにいいことがあるんだといわれると答えに窮してしまいますが、しかし誰にでも人生立ち直る権利があります。 河合隼雄さんは、「死にたいという人は、死にたいという言葉じゃないと生きたいといえない人たちだ」とおっしゃっています。
お礼
回答ありがとうございます。 未将来的にどうなるか分からない、否定できないことが生きる権利を剥奪できない理由ということですね。 死にたいと思って死ななかった人は、人生最悪を経験したわけですから、今後何があっても動じない強い人間になりつつ、苦しみを知る優しい人間になると思えば、死ぬ権利はない方がいいですね。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、この命は自分だけにもにではありません。親が望んで産み、育ててきました。 私が勝手に自分の命を弄ぶのは驕りですね。色々と考えさせられました。