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誰にも必要とされず生きること
人は誰にも必要とされずにでも、精神的に健やかに生きることが出来るのでしょうか? 長く片思いをしている人が居ます。 とても可愛がってもらっていますが、 自分からお付き合いを切り出すことは、相手に取って社会的負担になるであろう為、 その選択肢は排除しなければと思っています。 例えば、自分が切実に必要としている人からは、自分は恐らく必要とされていないであろう事実、その事実を謙虚に受け止めつつ、誰との温かい繋がりがない世界を、人がそれでも明るく健やかに生きていくことはできるのでしょうか。 クリスマス、お正月を共に過ごせる人はいません。 人との距離の取り方があまり上手ではない為、 何かがあって電話をかけられる人、助けを求められる人が1人もいません。 逆に取れば、自分が誰も必要としていないということが一つの大きな要因とは思いますが、 今現在、切実に求めている相手の幸せを願うのならば、私は相手に決断を求めるという選択は出来ない様に思います。 この状況を受け入れつつ、逆説的にでも、ポジティブに、能動的に自分の人生を歩んでいく力が欲しいです。 年齢、性別、もちろん問いません、どなたか考える方法、ご助言をいただけますか。
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- kanakyu-
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#6です。お礼ありがとうございました。 >>NOを言う事が、自分だけではなく、相手にも思いやりになると理解できれば、楽になるのでしょうが。 の件ですが、 他人も、あなたが嫌がる事を無理にしてもらおうとは、ふつうによい人は思わないものです。 しぶしぶやってくれるって、正直こちらも気分が悪いものです。それぐらいなら、断ってくれればよいのです。 それに、水臭いし、本当は信用されていないんだとも思います。 これは意外に気づきにくいのかも知れませんが、 他人も、ふつうによい人は、あなたの幸せを願っています。 そして、あなたを大切にできる善人の自分がうれしいんです。 人は、「私っていい人だ~」と思いたいのです。 逆に言えば、NOがいえないでいると、あなたの幸せを願う人は離れて行きます。 だって、そんな人といると、自分が悪人になったような気がして、あまり気分よくないですし、 心を開いてくれないと、気を使うばかりでこちらも疲れますからね。 また、NOを聞くことでとても傷つきやすいとも思います。 ただのこちらの都合なのに、自分への絶対評価としてとらえすぎだと。 NOをいえないでいると、あなたを一方的に搾取しようという人が残ります。そうなると悪循環です。 人生をよーく目を凝らしてみるとわかるのですが、 人間関係で幸せになるには、相手と自分といっしょでないと、ほんとうに幸せにはなれないのです。 だから、まず自分を大切に。そして、相手も大切に。それでいいんです。逆でもいけません。 それに、 自分を大切にしている人のことは、他の人も大切に扱うようになります。 自分を大切にしない人の事は、他の人も大切に扱いません。 それが基本的な人間心理です。 おまけですが、私はNOをちゃんと言いますが、自分なりのコツ的ないい方を身につけています。 サラっと言って通じる相手なら、 「気が進まないのに無理にお受けしても、あなたも気分よくないと思いますので・・」 とかです。 もっと詳しく言うなら、 「気が進まないのに無理をしてゆずっていると、いずれ私たちの関係にヒビが入りそうな気がします。 あなたとの関係は長い目でみたいと思っています。 良い関係を第一にしたいので、あえてここはお断りしておきます。」など。 NOを言うときは、「やりたくない」「できない」など、 自分の都合や気持ちだけを言って「わかってくれよ」的な言い方でもいいのですが、 それだとショックを受ける人や、反発する人がいますから、もっと良い言い方を用意したのです。 それが、「関係を大事にするため」です。これはお互いの、共通の利益です。 もっと心理的な用語を使うと、健全なバウンダリー(境界線)を維持するため、です。 無理矢理でもYESを言わせたいという人はあまりいません。 そういう人がいればもうお付き合い自体やめた方がよいでしょう。 しぶしぶYESを言ったらあとで恨みになる、長い目で関係に悪影響になるというのは、 大人ならばある程度は理解できます。 (理解できない人もいますが、そういうときは自分の都合でバシッと断るしかありません。)
- elf2814
- ベストアンサー率40% (283/693)
私こんな投稿したっけかな。…と思うほど、自分と状況が似ていたのでビックリしながらご質問を拝読させて頂きました。 自分の話で恐縮ですが、男性不信になってしまった私が唯一好きになった彼には、所帯もあるし私は当然必要とされていません。 その現実を受け容れるのに半年、最後の砦を失ったような気分でした。そしてそれを受け容れたら今度は周りが真っ暗になって進む道がさっぱり分からなくなり、灯りを自分で点けるまでさらに半年以上かかりました。 私も、その男性不信がモトで相談できる人や一緒にストレス解消する友人も殆ど居ないからです。 質問者様は2年も彼への想いを温め続けているのですから、それは本物だし素晴らしいことだと思います。それは否定しようとか忘れようとか思うことはなく大事にして欲しいと思います(^^) なぜなら、その気持ちを生かして自分を磨けるからです。 私は、彼に関してはこう自分の中で決めました… 彼が、歳をとってお爺さんになって、周りの人が皆他界して、孤独になった時に振り向いてもらえるよう素敵な女性で居よう…と。 だってそれしか無いんだもの。 彼の代わりは居ないんだもの。 いつか彼に必要とされる自分になろうとすることでしか生きていけないよ…そう思ったから。 要するに順番待ちするしかないな、と腹をくくったわけです。 順番待ちしてる間に、彼が何を差し置いても求めに来るようなスーパーウーマンになれたらラッキーだし、やっと順番回って来た時に自分がやつれ果ててショボショボで彼に与えるものが何もないのはどうかと思うので。 最初はもう年齢的に後がないと絶望しましたが、頑張って大儲けすれば整形手術だって受けられるしと思うことにしました。 私はそのこともあり自分の人生についてまで悩んだ挙句、15年くらいやってきた職種から全く関係のない技術職に自営で転身しましたが、彼を好きにならなかったらこういうドラマも無かったでしょう。 彼を必要とした、それが叶わなかった、でもそのおかげで人生充実した。自立できた。そう思ったら何も与えてくれなくても彼の存在に感謝できます。愛する人に必要とされることより、自分がその人を必要とする気持ちが大事だったんだ。と、今は思っています。 ポジティブになるきっかけは「カラ元気」です。 順番待ちしようと思った当初は悲壮な決意とカラ元気だったのが、「カラ元気」という形から入っていってエイヤッと人生ひっくり返してみたら、恋愛だけに囚われていた時より仕事に燃えたり自分を見つめ直したりするようになったので、今では人生面白くなってきています(^^) そして、捉え方を変える。 孤独を感じる闇に堕ちたら、地底人としての生き方をすればいい。 いまわの際に「愛されて幸せでした」と言えるような人生が送れたら羨ましいけど「愛することが出来て幸せでした」って言って死ぬのもカッコいいなっていう価値観とか、「そーなんだよ、私は寂しい女なんだよ~」と自虐ネタで笑い飛ばす開き直りとか、地底人の生活の知恵かも知れません(笑) その考えで行けば、暗くてもポジティブにはなれるわけです。 自分を受け容れる。 相変わらず彼以外の男性への不信というか嫌悪がひどく外を出歩くのが億劫になるぐらいなのでそのことで精神病院にかかった方がいいと思うくらい不健全ではありますが、そういう自分に悩まないで開き直って、例えばそんな自分がマンガのキャラみたいでカッコイイと思うようにしています(笑)。 つまり…。 独りでも楽しくは生きられるし、今どうこうできなくても希望を持つ持たないは自分次第ということを言いたかったのでした(その希望とは彼のことだけじゃなく自分の人生この先どうかということも含めて)。 そしてその「気の持ちよう」をコントロールするために、時間やキッカケを自分で作ることが必要だったってこと…。そのためには、大いに悩んで暗くなって、不健全を悪いと思わないことです。「こんなに悩んでるんだから、しょーがないじゃん!」 人は人、自分は自分と頭では分かっていても、比べると惨めになってしまうものですね。 年末年始は周囲が浮かれムードなので私も孤独感を強く感じ、くじけそうになる嫌な季節です。 人の中に居ると自分が与えられない寂しさを強く感じるので自営になって正解でした。 ポジティブであるために、自分の居場所を変えてみるのも悪い手段ではありません。それを「逃げ」だとは思いません。 まとまりのない文章ですみません。 この質問の他のご回答は素晴らしいものばかり寄せられていますね。私も参考になります。 ご質問者様が、ご自分だけの道をご自分で照らすことが出来ますように私も願っています。
No1kaitara1ですが、お礼欄を拝見して少し補足させていただきます。私は人間特有の孤独に対しては解消できる方法はないと思っていますが、だれでも孤独なのだという納得をすることによって結果的には解消されたようなことになるとは思っています。案外愛というのはこのような皆同じように孤独なのだという一種の平等性の感覚なのかもしれません。そういう孤独性を納得した後にほかの人に対して起こす行動には、あまり本質的な意味がないようにも思います。
- kanakyu-
- ベストアンサー率30% (1916/6194)
社交的=良い、ってことはないですよ。 要は自分の心の安らぎが大事です。 むだな劣等感?とか心配にふりまわされると辛いですよね。 クリスマス・年末年始は特に、いろんな人がパーティーとか友達とさわいだりしているので、 余計にはっきり見えるんですよね~。わかります。 マイペースで開き直り。もう、それにつきます。 私の尊敬する方も、 とても人徳の高いすばらしい方で、人に好かれる方なのですが、基本は家にひきこもっています。 それが性に合うそうで、ご本人もそんな自分が好きだそうです。奥さんと猫さんはいらっしゃいますが。 他に友達などはおられず、生徒さんや仕事関係の方と仕事上のおつきあいをされるそうです。 私的な付き合いをしようとすると、人に好かれすぎてわずらわしく、ご自分のことに集中できないので、 これでいいとご本人はわりきっておられます。 >自分が切実に必要としている人からは、自分は恐らく必要とされていないであろう事実 むしろ、そのことの方が多くないですか? たとえば、心の暖かい人には、心の凍えた人がつながりを求めます。 けれど、心の温かい人には、心の凍えた人は、必要ではないんですよね。 たぶん、助ける、助けられる、的な、一方的な関係なんだと思います。 お互いに一緒にいたいと思う相手は、やっぱり双方に利益がありますから。 でも、そのことをヘンに劣等感として持つ必要はないですよ。 必要とされること=自分に自信をもっていい、と思っていると、人に認められないと生きられなくなります。 >人との距離の取り方があまり上手ではない為、 >何かがあって電話をかけられる人、助けを求められる人が1人もいません。 バウンダリー(境界線)の問題ですね。 YES/NOをうまく言えると、これは楽になるんですが。 私の周りでも、NOが言えなくて、そのために人に迷惑かけて自分もしんどい思いしている人がいます。 NOを言う事が、自分だけではなく、相手にも思いやりになると理解できれば、楽になるのでしょうが。 あなたの場合は、一人で痛い訳ではなく、おそらく人と一緒に過ごしたいのだと思います。 人との健全なバウンダリーを引く練習をすれば、また人生かわると思いますよ。 いろいろ悩みはつきないと思いますが、私は、あなたはよい学びをしておられる時期なのだと思いますよ。 あがき、もがいて、苦しいかもしれませんが、抜けた先には光があります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変学ばせていただける言葉が多く、 自分だけの観点で凝り固まっていたのを、良い意味で払拭して頂けた様な気がします。 >NOを言う事が、自分だけではなく、相手にも思いやりになると理解できれば、楽になるのでしょうが。 私は、人に必要とされて、認められて生きることが、 自分の人生のほぼ全ての様な気がしていました。 全てを他との比で考え、自分自身の価値を認めようとすることに抵抗がありました。 他人の評価に自分の幸せを委ね、 拒否をすることよりも、あきらめに似た受動をしていた方が、楽だと感じる、 ある意味とてもリスキーで、能動的な生命力を失っていくような鈍い感覚の中に身を置くことに慣れていた気がします。 それこそ自分の人生に責任を持っていないことなのだと思いました。 マイペースで開き直り、それに尽きるのでしょうね。 社交的でないことに、むだに劣等感を感じて振り回される必要はない、 あなたにしっかり言って頂いたことで、私は少し楽になれる気がしました。 私は20代後半ですが、世間的に言えば若くもあり、若くもないかもしれません。 ただ、人はいくつであれ、自分を受け入れる所から本当の意味での人との接点を見つけるのかもしれませんね。 目下、来年の目標として「できるかぎりYES/NOを上手く言うこと」 自分から発信するくせをつけていける様、心がけようと思います。 年の瀬、あたたかくされて、よいお年をお迎え下さい。 ご回答ありがとうございました。
彼はあなたのことは想っているでしょうね でもいけない恋 いけないし 出来ない恋 と思ってると思います 私も無理だと思います 自分の想いだけでは片付けられない 片付けたとしたら それの責任、義務、自分の地位そして未来 代償が大きすぎる それでも彼はあなたを選べますか 逆にあなたが彼だとしたらあなたはあなたを選べますか 愛だけでは済まないことはいっぱいありますよ
お礼
私は、自分の欲求のために、彼を求めることはできないと思います。 自分が相手にとって力になれない無力さを、今までずっと自問自答してきました。 私には失うものはありませんが、彼はそうではない。 それは私には動かしようの無い、クリアな事実です。 答えは解っていたものの、本当の意味で受け入れるまでに時間が掛かりました。 今はそれを悲観すべきものではないととらえています。 そのことで自分も、彼も責める気もありません。 私は、その人がとても好きだった。それでいいのかなと思っています。 お返事ありがとうございました。
孤独は孤独力という一つの力を与えてくれます。 何かを解決する時に独りで悩み、独りで考え、独りで解決する。 おいくつの方かわかりませんがそうして生きて来たんじゃないですか? 充分強いじゃないですか? 衆に頼らなければ何も出来ない人もいます。 ものは考えようですよ。私は子供の頃、学校で話せない場面かん黙症という社会不安障害の一種の病気でした。 もちろん友達なんか出来ませんでした。 独り本ばかり読んでました。お陰で知識は増え、役に立ってます。 独りコツコツと体を鍛えました。お陰で体力も付きました。 何が幸いするか判りませんよ。 場面かん黙症にならなかったら本も読まず、体も鍛えず、どんな人間になっていたんだろう?今考えるとゾッとします。 今は場面かん黙症であった事に感謝してます。 無理にポジティブなんて考える事ありません。 あるがまま、それでいいんです。背伸びする事なんかないんです。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 孤独というのも、ひとつの力なのですね。 ご回答者様がご病気でいらした際に、 外的な力ではなく、ご自身の内的な生命力を鍛えられたのだと思いました。 私は自慢にもならないほど友人もいませんが、 それでもこうして自分が前向きに居られることを誇りに思って、 今感じている人とつながりたい、という欲求も、 いつかだれかの為に、静かで強い力に変えることができれば良いなと思っています。 お返事感謝します。 温かくされてよいお年をお過ごし下さい。
- d194456
- ベストアンサー率27% (423/1524)
分析交流では『人は温かな触れ合いを求めて悩むのですね。』と人の悩みに就いて教えていました。 又、選択理論では人には基本的な欲求があり、その欲求を満たす為に悩み、苦しむと教えています。 『愛・所属』『力』『自由』『楽しみ』そして『生存』の5つの欲求です。 あなたが質問に書いたのは、この『愛・所属』の欲求だと思います。同じ、必要とされることでも、愛情であったり、人間としての認め合う行為全般に成ると思います。 狭い範囲での『必要とされること』だけでなく、違うことにも目を向けることで、『必要とされる』ことはあります。 以上は心理学での考え方ですが、日本人は昔から『真善美』の世界を善しとし、積極的な生き方をするならば、孤独に生きようと、人の中に活き様と、すべきことに変わりは無いものです。 心もまた、必要とされることに拘らなくなると思いますよ。積極的である限り、何時でもポジティブです。 90の半ば過ぎに成った人には知り合いが殆どいない状況になるでしょうが、それでも人は活き活きと生きることが出来ます。その年まで、お互いにまだ何十年もあるのです。今から足腰の弱った心は要りませんよ。 真善美と積極で何時までも元気に生きるだけです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 ご回答者様のご意見を読んでいて、ハッとさせられたことがあります。 私は、その特定の人にに自分を受け入れてもらうことばかりを考えていて、 自分人生自体はどう営んでいくのか?ことに、責任を持てないでいるのだと思いました。 お恥ずかしい話ですが、だからこそ、それが無くては生きていけぬと、執着し、苦しんでいました。 そうですね、まだまだ先のある人生、足腰の弱った心を、今こそしゃっきりと立て直す、 私はそんな時期に居る気がします。 「積極的である限り、何時でもポジティブ」、心に刻んでいこうと思います。 心意あるご助言、ありがとうございました。
- mirr
- ベストアンサー率50% (46/92)
プライドを持って、誇り高く生きればいい。 誰にも頼らず、誰にも阿らず、誰にも媚びずに一人で生きていけるなんて、 素晴らしいじゃないですか。 誰にも迷惑かけずに自由に生きている、ってそういうことだと思います。 自由が手に入らずにもがいている不幸な人はたくさんいます。 可愛がってくれる人もいる、あなたは幸せだと思います。 あと、 「切実」という言葉は良くないです。 今後使わない言葉として、あなたの辞書から抹消して、 代わりに「なんとなく」という言葉を使うと良いですよ。
お礼
プライドを持って、誇り高く生きればいい。 言葉は不思議な力がありますね。 私はもともと周囲からはどちらかといえば孤立しているほうなのですが、 周りの人に取って「孤島の人」という形ではなく、 誰に対しても自分でいられる、凛とした人間になりたいと思っています。 可愛がってくれる人も居る、私は幸せなのでしょうか。 「切実」という言葉ひとつにしても、自分が求めることが先行していることに気づかされました。 正直、今の自分が求めている人に関して「何となく」という観点は、よい意味で拍子抜け(sすみません)というか、新しいです。(苦笑) そうですね、力抜いていきますね。 ご回答、本当にありがとうございました。
ひとという生物はどんなことがあっても孤独です。多くの人が孤独をごまかそうと必死になっています。これがうまくいってもせいぜい錯覚です。言い換えるといかなる時でも一人相撲にすぎないわけです。このように孤独を解消することは絶対できないということで納得できないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。感謝します。 どんなことがあっても孤独というおっしゃるその意味は、 ひとは1人で生まれ、1人で死んでいくというという、絶対的なことなのかと私はとらえたのですが、 それを独り相撲としてとらえるのではなく、人は一つの個体として自立してあるべきと同時に、他人の文脈に関わることで、相乗効果的にお互いを豊かにする生き方を望んでいます。 1人で居てもいい、けど、2人で共有できるともっとすばらしい。 そういったことも人生には多いと思うのですが、 それをほしがらない様に、見ない様に目を背けてしまう自分の人生は何なのだろう、 全くの独り相撲で足りてしまう人生を能動的に変えたいと思っています。 孤独を解消することはできないかもしれません、ただそれでもつながりを求めている自分、 それも人生なのでしょうか。 ご回答、考えさせられました。ありがとうございました。
お礼
補足いただきまして感謝します。 誰しも孤独なのだということを認識して、 結果的にみんなが解消された感覚を持つというのは解る気がします。 もっとも、矛盾していることを承知で、 人は1人で生きていくものだけど、ひとりで生きていくものではない、私はそう考えています。それがどの程度に絡み合うのか、心の平安を保てるバランス感覚は、人それぞれ学んでいくものなのかもしれませんね。