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信教の自由は正しいか
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No.8&9です。 ★(No.9お礼欄) ~~~ どのよーな集団であれ、およそ人が目的をもって集まれば自然とその中に役割が生まれ、自然と任務の配分や取り決めが生まれ、その他の計画的活動の取り決めごとが生まれ、意思の伝達手段や集会、会合といったものが生まれるものです。そしてこれらが組織を固め、結社へと発展します。 この動きは全く自然現象なのですから、信者の交流の一部であると考えることができるのではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《全くの自然現象》ではありませんが そのことよりも 問題は 宗教組織であるという一点にあります。 信仰の深い浅いがその人間の価値全体を決めてしまうという傾向があります。これが 最大の欠陥です。 あるいは時として 組織の発展に寄与したかどうかなどなども その組織における人間の地位を決めることがありますが(そしてそれも 信仰が篤いかどうかにかかわらせて見られるようですが) そういう場合にせよ何にせよ 地位や役職に付与された権限が――宗教組織以外の組織と根本的に違って―― 人間の信仰の度合いを決め その度合いによってその行動が決められて来る。この欠陥です。 もっと低俗に話をするなら 教祖ないしそのときの組織の長の意向が――むろんその信仰の度合いが いちばん深く篤いということなのですからそれに従って―― およそすべての行動を決めてしまうというところです。 その階層秩序は 人間の自由に反すると考えられます。地位や権限の関係を 信仰の度合いあるいはそれとしての人格の度合いによって決めるということは 人間を言わば人間が裁いているということです。 そんなことはしても 無効ですが これが組織の中における出来ごとであると その無効が取り敢えずにでもその場における秩序を守るためであるかのようにして力を持ってしまいます。 この力関係によって 人間が人間を裁くという無効の行為が 有力となります。一時的にでも 実効支配の状態が起こります。 これが ヒエラルキアの持つ問題です。 聖職者のあいだに〔こそ〕非人間的あるいは反人間的な交通(まじわり)が起きてしまうという事態です。 個人の信仰が 集団ないし組織の宗教となった時点で この悲劇が生まれます。よって 組織宗教は 個人の信仰の自殺行為である。こう考えられます。
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- TAKOYAKIoiyan
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信教の自由って言うけど、オウム真理教ってテロリストだよ。 いまだにテロの首謀者の麻原彰晃を崇拝している訳で、そんな危険な宗教?を肯定なんて出来る訳ないだろう。 その事柄と信教の自由を一緒にすること自体、あり得ない。 私は創価学会もあまり好きではないが、オウム真理教と同レベルで論じられるものではないと思う。
お礼
>その事柄と信教の自由を一緒にすること自体、あり得ない。 一つゆーておきます。 イスラムのテロ攻撃に苦しむアメリカも、イスラムを否定はしない。 イスラムの信教の自由を認めるからである。
- kurinal
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私のところにも、時折、宗教の関係の方が来られて、勧誘をされたりされますが、「無理矢理連れて行かれる」というようなことは、ありません。
お礼
>「無理矢理連れて行かれる」というようなことは、ありません。 初めから無理矢理連れて行かれることは有り得ません。 最初は勧誘、次に祈伏、次に勤行、次に無理矢理連行とこのよーに事態は進展します。
- gadovoa
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宗教の自由は善意に基づいた意志です。 ここからは天秤にかけた問題です。 自由を善と考えた場合、 「信教の自由」(善)と国家転覆を図る自由(善) はどちらが重いか。 この場合国家転覆を図る自由が重いので、 カルトを排除したということです。 創価と信教の自由はつりあっているので、 否定されません。
お礼
>宗教の自由は善意に基づいた意志です。 戦後日本に憲法20条、信教の自由が誕生する遙か以前から、この世に邪教が蔓延ることは既に認識されていたが・・・
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お礼
>聖職者のあいだに〔こそ〕非人間的あるいは反人間的な交通(まじわり)が起きてしまうという事態です。 >個人の信仰が 集団ないし組織の宗教となった時点で この悲劇が生まれます。よって 組織宗教は 個>人の信仰の自殺行為である。こう考えられます。 なるほど、良く分かりました。 bragelonne さんの宗教に対する考え方がこの回答の中に良く表れていると思います。 bragelonne さんは信仰は個人的なものであるべきで、組織宗教は必ず腐敗するもの、弊害を生むものと捉えているわけです。 私も似たよーな事を考えたりします。 つまり、一人の人間が深い思索によって生み出す考えと、集団がシステムによって生み出すものを比べた場合、どちらがより価値の高いものとなりうるかと。 すると科学的成果にしても、思想や哲学にしても、あるいは芸術作品にしても、真に価値有るものは殆ど全てにおいて個人の深い思索や努力が生み出したものであることが判るのです。 一方において集団が寄ってたかって生み出すものは法律にしろ、行政にしろ、何にしろ全くロクでもない代物であることが常に証明されています。 やはり宗教は個人的なものであるべきとゆーbragelonne さんの考えに賛成です。