• 締切済み

生命の尊さについて(長文です)

私は職業上、動物を殺めて動物を救うという世界に身を置いています。 この仕事についてから、自分がしていることが正しいのか、ずっと疑問に思っていました。 例えば、化粧品などは、その安全性や毒性を動物実験で試しますよね。また、新薬の研究などにも同様に動物が使われています。前者はまったく人間のためだけに動物が犠牲になっているように思えますが、はたまた後者では、それで画期的な新薬が開発されて、いずれ世界の多くの人間を救うことができるかもしれません。 また、畜産関係では、牛や豚、鶏などにワクチンを打ったりして、食肉としていずれ人間の口に入り、人間の血や肉となっていくわけですが、このワクチンの製造でも牛や豚、鶏の犠牲のうえに成り立っているのです。そして、これも最終的には人間のためだと思えてなりません。 というか、人間のためなんだと思いますが…。 かといって、私は牛肉や豚肉を食べないかというとそういうわけではないんです。 矛盾しているけど、この自分のおかれている状況を、人に説明してわかってもらうのはすごく難しいと感じています。 人間が生きているのはどれだけの動物が犠牲になっているのかの認識や、それについてどう思っているのか、皆さんの意見をお聞かせいただきたいと思って質問しました。 どんな意見でも結構です。 うまく意見がまとまらず大変わかりにくい文章になっています。補足にもお答えいたします。 昼間は仕事をしていますので、お礼が遅れるかもしれませんが、ご了承ください。

みんなの回答

  • ranx
  • ベストアンサー率24% (357/1463)
回答No.7

どうも。No.6です。 > 何度も何度も読み返しました。 わけの分からない文章を、恐縮です。独善的に書いてしまったと反省しています。 > 何も考えていらっしゃらないのでしょうか。 私の回答に憤慨なさっているようですね。chi-catさんにとって、最も心に懸かっていることは、 恐らく、生命を奪われるものの傷みを感じてしまっていることなのだと思います。私が前の回答で それに言及しなかったのがご不満なのでしょう。実のところ、chi-catさんのこの感性は気高いもの だと思います。殺すことに対する罪悪感を感じなければいけないとか、自らの生命の糧とする ならばそれは善だとかいうつもりはありません。やはりそれは善でも悪でもないと思うのです。 ただ、殺されるものの傷みを知る感性は有っていい。それは善なる世界を築いていくために 必要なものだという気がします。同様に、犠牲となってくれたものへの感謝、有限な存在としての 自分と世界との調和を感じ取る感性・・・未熟な私では十分に言葉を尽くせませんが、そうした ものが善なる世界を作るために必要なのだと思います。 > 一体どんな世界のことを言うのでしょうか? こういう世界、というものを描き出すことはできませんが、一言で言えば美しい世界です。 世界はあるがままで美しいのです。美しい世界をより美しくしていくことが、人間に許された 営みなのだと思います。「美しい」というのもなかなか含みのある語なので、これでは何の 説明にもなっていないと思われるかもしれません。が、あえて説明する必要もないと思います。 人間は、美しい世界を築くために、自由に活動することができます。それが人間の本性であると 思うのです。 化粧品の実験について、私は判断すべき立場にはありません。chi-catさんの澄んだ感性に 照らして、それでも必要なことだと思えるならば、それはやはり必要なことなのだと思います。 逆に、生物を無意味に殺している、美しくない行為だと感じるならば、その仕事は離れるべき かもしれません。 相変わらず独善的な文章で、すみません。

chi-cat
質問者

お礼

何が善い世界で、何が悪い世界なのか、やはり私には判断できませんが、なんとなくranxさんのおっしゃっている意味が解ったような気がします。 再度の回答ありがとうございました。

chi-cat
質問者

補足

自分でもよくまとまっていない質問に、貴重なお時間を割いて回答をいただきましたみなさんに深く感謝しております。 仕事に疑問や戸惑いを感じながらも、動物を救いたいと思い、少しでも貢献できる仕事をと望んで、自分で選んだことですので、悩みながらも、自分のしていることをしっかりと見据えて、今後も仕事は続けていくつもりでおります。 皆さんのご意見は、どれも私の考え方を広げる貴重な意見であり、甲乙つけがたく、特定の方にポイントを差し上げるなどできそうにありません。 申し訳ありませんがご了承ください。 本当にありがとうございました。

  • ranx
  • ベストアンサー率24% (357/1463)
回答No.6

自然界に善悪はありません。ただ、摂理があるだけです。 草食動物は植物の生命を奪って食べます。 肉食動物は草食動物の生命を奪って食べます。 それは善でも悪でもありません。摂理なのです。 人間だけが善悪を行動の基準にします。自然界にそんな ものが無いという意味では、それは、ある意味で反自然的行動 と言えるかもしれません。が、必ずしも自然に即した行動を とらないのも人間の本性の一部であり、その意味で、それもまた 自然なのだと考えられるかもしれません。 人間社会において、一般的には他の人間を殺すのは悪だと 考えられています。この倫理観は、社会を維持する上での 必要から発生したものと考えてよいと思います。現代においても、 日常的な倫理観はこのレベルのものであると思います。 この限りにおいて、善悪とはそもそも人間社会の維持を 目的としたものであり、本来的に人間中心のものだと 言いうると思います。 「地球に優しい」ことが価値とみなされる文脈があります。 一見人間以外のものに価値の基準をおいているように 見えますが、私はこれも人間中心の思考であると思います。 現在の生態系を壊滅させれば、必然的に人類は滅亡します。 しかし、恐らく数億年もすれば次の生態系が形成されるでしょう。 地球にとってはどうということはありません。しかし、それでは 人間にとって困る。だから現在の生態系を維持することが 問題になるのです。 とはいえ、人間の思考力は、そうした日常的・社会的レベルを 超えて、より普遍的な倫理を求める場合があります。他の生物を 殺すのが善か悪かと考えるのも、そうした思考の一環と 考えられます。ただ、社会の維持という元々の文脈を超えた 話ですから、判断の基準も新しくしなければなりません。 「共感」を判断の基準にする場合があります。 「己の欲せざる所は他人に施すことなかれ」というのもそれに 近いと思います。自分は殺されたくない。だから他人も殺しては いけない。他の生物も殺してはいけない。しかし、この考え方では、 肉食動物が草食動物を食べるのも悪と考えられかねません。 それはおかしい。 他の生物を殺すことが自然の摂理の一環であるならば、それは やはり善でも悪でもないといえるかもしれません。しかし、人間の 行動は、自然の摂理に則ったものと言えるのかどうか、判定しがたい 場合も少なくありません。 そもそも人間は何のためにこの世に存在するのか。様々な宗教や 哲学において様々に考えられていると思いますが、私は ベルグソンの考え方が示唆に富むように思われます。生命は より大きな可能性を求めて進化してきた。その所産が人間だという 考え方です。人間もまた新しい可能性を求め、他の生物が なしえないようなやり方で活動をひろげていきます。それは 生命の本性の一環なのです。 では、すべてが許されるのか。それを判断する上で参考になるのは 創世記です。神は6日間で世界を創造された。そして、各日の 終わりに創られた世界を見て「よしとされた」と記されています。 これこそ善悪の基準になりうるものだという気がするのです。 「よしとする」ことができるような世界を築いていくのが善なのです。 そのための感性を磨くことが重要であると思います。 あいまいな文章に、あいまいな結論ですみません。

chi-cat
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 何度も何度も読み返しました。 しかしいくつかお聞きしたいことがあります。 もしほかの生物を殺すことが自然の摂理であるとして、善も悪もないとしたら、ranxさんは化粧品の安全性の実験で動物が犠牲になること、自分の命がたくさんの生物の犠牲に成り立っていることについて、何も考えていらっしゃらないのでしょうか。 >「よしとする」ことができるような世界を築いていくのが善なのです。 とは、一体どんな世界のことを言うのでしょうか? 理解力不足ですみません。

  • tanigawa9
  • ベストアンサー率35% (61/171)
回答No.5

命の輪廻の中で生き物たちは生きているのだと思います。 奪われたり奪ったり、そのことは一件惨たらしいようですが、決してそうではありません。 根元的に、命は生きていこうとする本質的なものを持っているので、それを奪われまいと努力するのですが、その現象的なものだけで、割り切らなければならない現実を見失ってはならないと思います。 殺されるものが生きていきたいのと、殺すものが生きていきたいことの優劣は無いと思うのです。 動植物すべての中で、人間が罪深い存在であるとするならば、それは互いに殺しあったり、意味もなく殺したり、殺すための兵器をつくりだしたりすることです。 私は己の喜びのために、釣りをして沢山の魚を殺していますし、それを獲るためにそれ以上の餌の命を奪っています。そのことに罪悪感は感じません。ただ、肝に銘じていることは、奪った命を大切に扱い、感謝して食べることで供養を行っていると思っています。 回答にはなっていないかもしれませんが、ご参考いただければと思っております。

chi-cat
質問者

お礼

>殺されるものが生きていきたいのと、殺すものが生きていきたいことの優劣は無いと思うのです。 その通りだと思います。 どちらも尊い命ですものね。 >動植物すべての中で、人間が罪深い存在であるとするならば、それは互いに殺しあったり、意味もなく殺したり、殺すための兵器をつくりだしたりすることです。 私たちが食して血となり肉となる食肉に関しては、意味がある死というのもなんだか納得できるような気がします。 しかし、新薬の開発や化粧品の毒性試験のために犠牲になる動物は、意味のある死として、許されるのでしょうか? あなたのご意見は、私にはなかったものだったので、正直戸惑いもありますが、こんな考え方もあるんだと、考えを広げるいいチャンスをいただきました。

  • sano-ba
  • ベストアンサー率28% (51/179)
回答No.4

こんにちは 幼児教育と育児の経験からちょっと。 小さい子に「いきもの」のことを教えていて必ずぶつかるのが「食べる・食べられる」です。 「くものすにちょうがかかっていたから、かわいそうだからにがしてあげた」 でも、くももたくさんの子供を育てるために栄養が必要だったかもしれません。 かわいい動物の赤ちゃんの映像を見たら、「もうお肉は食べない」と思うかもしれません。 動物園にいっても生肉をあげるところを見るかもしれません。 私なりにだした答えは 「その生き物の命をもらって自分が生きる。その生き物の命は食べられた生き物の中で生きている」 でした。 「だから、お肉や魚を(やさいも)食べたら、そのいのちが自分の血や肉になるんだから残さないでちゃんと食べようね」といってきました。 食べるためでなくても研究のためなどで扱っているのですから、りっぱな仕事だと思います。 いつかきっと誰かの役にたつ、と思っていればいいのではないでしょうか。 関係ないかもしれませんが 益虫・害虫と区別するのは人間側の都合ですね。 幼虫と成虫では逆転するものもありますし。 作物に被害を与えるものや、人に危害を与えるのなら仕方がない気もしますが 「不快害虫」と呼ばれて殺虫剤をかけられる虫はなんだか気の毒です。 なんだかよくわからない文になってすみません。 小さい命でも大切に思って接すればいいのではないかなと思います。

chi-cat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >私なりにだした答えは 「その生き物の命をもらって自分が生きる。その生き物の命は食べられた生き物の中で生きている」 でした。 はっとさせられました。 食肉として口にした動植物には、そのように考えれば自分も救われた気がします。 >小さい命でも大切に思って接すればいいのではないかなと思います。 その通りだと思います。 自分の仕事が、獣医さんなどのように、動物を救っていると目の前で実感できるものであったら、もっと前向きになれるのかなぁと思います。 結果はどうであれ、私が動物を犠牲にしているという事実を受け止め、日々感謝し、生きていきたいと思います。

回答No.3

私も同様に悩んだときがありました。 ただし、私の場合は単純に「他の生き物の生命を奪ってまで自分が生きていくこと」に嫌悪感を感じていました。 誰もが一度は殺生について考えたことがあると思います。 私も含めた普通の人は人間の為に他の生命を犠牲にするという状態に 慣れきっているに過ぎないと思います。 よく肉食を止めてベジタリアンになった云々という話がありますが、 植物だって結局生命を宿している生き物には変わりませんから、 そう考えると人間は他の生命を犠牲にして生きている事に間違いないと思います。 そう考えると人間は本当に酷い生き物です。 しかし、かといって人間として生まれてきたからには、 何かしら宿命があって生まれてきたと思いますし、 生きて行かなけれればならないものだと思います。 動物を殺めて動物を救う職業に疑問を感じているようですが、 仮に動物を殺める(実験する?)ことを止めてしまった場合、 将来的にもっと多くの生命が失われる危険があるのではないか、 貴方もそれを防ぐために頑張っているのではないかと思います。 映画のターミネーター3?のラストシーンで 味方のターミネーターが自分から溶鉱炉に入っていく場面があります。 私の解釈が間違っていなければ、 ある時空間においてロボットとしての自分自身が存在すること自体が、 将来に対して危険を及ぼすことになるので (将来のことを思えば)残念だがここで消滅しなければならない、 という感じだったと思います。 例えが適切か微妙ですが、 勿論、殺められる動物達は殺められるよりは生きていたいと思っているはずです。 しかし、意味のある死には納得して死んでいく面もある様に思うのです。 それがたとえ人間に食べられることを前提にしたとしてもです。 ですから、少なくとも人が行う殺生においては、 内容がどのようなものであるにせよ、 その死に必ず意味がある事が最低条件だと思います。 感謝しながらも、腹を括って残酷に生きていくことが 人間に出来うる最善策だと私は身勝手に思っています。

chi-cat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >しかし、意味のある死には納得して死んでいく面もある様に思うのです。 それがたとえ人間に食べられることを前提にしたとしてもです。 ですから、少なくとも人が行う殺生においては、内容がどのようなものであるにせよ、その死に必ず意味がある事が最低条件だと思います。 例えばそれが人間だったらどうなのでしょう? 今後、画期的な新薬の開発のために自分の命が必要だとして、あなたは納得できるのでしょうか…。 この話は人間に例えては成立しないのかもしれません。 でも、そんな解釈の仕方もあるんだと、考え方が広がった気がします。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.2

ご存知かもしれませんが、ご飯を食べるときの 「いただきます」は仏教の思想からきたもので 「お命いただきます」という意味だそうです。  人間は所詮神でもなければ仏でも ない。だから他の生命を犠牲にして 生きていくしかないんですね。  他の動物を殺さなくても生きていける 方法が将来的には見つかるかもしれません。 しかし、それを見つけるには並大抵なこと ではないでしょう。  仏教をはじめ動物の肉を食べないという 考えは世界じゅうにありますが、植物まで 食べない人はいません。精進料理とて 植物というほかの生命を犠牲にしたものです。  少なくとも仏教を作った人たちは、この 人間の限界を超えることを諦めたので、 最低限、殺めた命に敬意をはらおうと 「お命いただきます」というような思想を 残したのでしょう。  今のわれわれには科学技術があります。 これが何か救いをもたらしてくれるかも しれませんが、それも今すぐという訳には いかないでしょう。  人間が他の動物を殺さなくても生きて いけるその日まで、人間は「お命いただきます」 を続けるしかないと思います。 >この仕事についてから、自分がしていることが正しいのか、ずっと疑問に思っていました。  辛いのなら逃げてしまうことも、ときに 有効な解決方法です。  私は最近ここGOOで獣医と人間を 扱う医師の違いなど聞いているのですが、 動物の解剖学について聞いた際に 獣医さんらしき方からどうゆうわけか 動物を殺そうとしていると誤解を受けた らしく、いろいろお説教を書かれて きたのですが、動物には命があり生きる 権利があるなどとあまりにきれい事を 並べられたので、あなたはブタを食べ ないんですか? 釣ってきた魚を焼いて 食べないんですか?と聞いてしまいました。  そしたら屠殺場で家畜を殺すのは許されて いると回答がきてビックリしてしまいました。  この方の本当の職業はわかりませんが、 一見動物の命を救っているように見える 獣医さんさえ、人間としてのエゴから 適当に生命倫理に折り合いをつけて 動物、植物を食べているのです。    世界にはブタのように特定の動物を食べない という宗教がありますが、宗教観まで行かなくとも この動物だけは絶対に食べないと決めることで、 その特定の動物を少しは救えるのではないでしょうか?  そんな一人だけの思想活動というのも 1つの手だと思います。  

chi-cat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >少なくとも仏教を作った人たちは、この人間の限界を超えることを諦めたので、 最低限、殺めた命に敬意をはらおうと 「お命いただきます」というような思想を 残したのでしょう。 宗教からの考え方は私は知らなかったので、すごく考えらせられました。 もしそうだとしたら、人間も捨てたもんじゃないのかな、と少し救われた気がします。 今後も、私と血となり肉となるすべての動植物に感謝して、生きていきたいと思います。

chi-cat
質問者

補足

>そしたら屠殺場で家畜を殺すのは許されて いると回答がきてビックリしてしまいました。  この方の本当の職業はわかりませんが、 一見動物の命を救っているように見える 獣医さんさえ、人間としてのエゴから 適当に生命倫理に折り合いをつけて 動物、植物を食べているのです。 私も獣医を目指している時期がありました。 TVドラマでもありましたが、獣医になるためには、生きた動物を殺めて、解剖したりしていますね。けど、決して人間のエゴではないと思うんです。適当に折り合いをつけている、ということもないと思います。今後たくさんの動物を救うためには、その犠牲は最小限必要なものなんだと私は考えていますし、きっと「動物を救いたくて獣医を目指したのに、何で動物を犠牲にしなくてはいけないのか」、この矛盾に、獣医さんは相当悩まれた方が大半だと私は思っているからです。 自分のしていることが正しいのか判断できないのに、「この犠牲は必要だと思っている」なんて自分でも矛盾していると承知しています。 私のしている仕事が、獣医さんのように、動物を救えたと目の前ですぐに見える成果であれば、私も救われるのかもしれません。

noname#5645
noname#5645
回答No.1

私も東京の品川で働いていた時期にそういう思いを毎日しました。 品川の港南口(新幹線の出来たほう)には、日本で最大の食肉加工場?があるんですよ。 そこでは土日を除くほぼ毎日、相当な数の生きた牛や豚がやってきては肉にされてます。 そういう光景を目にしてからは、食事をするときにいただきます、ごちそうさま、を彼らにも言ってあげているつもりです。それぐらいのことしか出来ないじゃないですか・・・。

chi-cat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >そういう光景を目にしてからは、食事をするときにいただきます、ごちそうさま、を彼らにも言ってあげているつもりです。それぐらいのことしか出来ないじゃないですか・・・。 その通りだと思います。 人間は、ほかの多くの動物に生かされているという事実を受けとめ、日々感謝することで、少しは彼らの命の供養になっていればと思う毎日です。

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