• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ダヰ゛デに何が起こったか?)

ダヰ゛デに何が起こったか?

このQ&Aのポイント
  • ダヰ゛デが人妻に恋慕し、彼女の夫を戦争に送り込んで死なせた。
  • 質問者はダヰ゛デの行動の背後にある動機を知りたいと思っている。
  • ダヰ゛デに起こった出来事の真相について質問者が詳細を求めている。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#143207
noname#143207
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ もしこのように視野を開くかたちに賛同いただけたのでしたら 話は――初っ端に述べましたように また わたくしにとっては―― 分かりやすくなって来ました。  この度は、どうも失礼致しました。  概ねまとめますと、以下のようになりましょうか。 ・「旧約の時代」と「新約以降の世界(キリスト・イエス以降の世界)」では、律法に対する考え方・捉え方が異なる。 ・バテシバ事件におけるダビデの行動とその処罰に関しては、その罪を神が取り除いてやるというかたちにおいて、「キリスト・イエスの愛」と共通するところがある。その意味での自然史過程にある。 ・もしくは、アブラハムに起きた信仰の原点への《立ち帰り》が、ダビデの身と心において成った。ゆえに、ゆるされた。 ・なぜゆるされたのかについては、ひとに対して説得不可能な要素を持つ。つまり「キリスト・イエスの時代としての愛」の世界であり、そういう自然史過程である。 ・であるならば、ひとこと神は「すでに旧約の時代においてあたらしい契約の世界にも入っているのだよ」と言って欲しかった。言っているようなんですが 果たしてどうなんでしょう?(エゼキエル書33:11)  4. では ただし なんぢ姦淫するなかれというモーセの戒律を犯したその罪を 神はどういうわけでゆるしたのか?  5. アブラハムの信仰が その文章が規範とされ律法として持たれるようになった。もしこの信仰のための養育係としての律法が正式に与えられているのであれば その条文の違反を どのように取り扱うのか。どう扱えば 明らかな違法行為をいともかんたんにゆるすことが出来るのか?  6. これは ゆるしてはいけないと言うためではなく 人びと一般がどう納得するかたちを取ったのか? これを知るために問い求めるものです。通俗に言えば ダヰ゛デひとりをそうたやすく赦すのであれば 社会生活として見れば しめしがつかないではないか? という問いです。  なお、“4”、“5”および“6”についてなのですが、以下の福音書を見る限りにおきましては、モーゼの律法の罰則は意外と曖昧であったように見受けられます(もし、厳密ですと、即座に連行されて処刑されていたかと推察されます)。 ヨハネ伝 08:03-08:05 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」  ですが、“6”にもございますように、“ダビデをそうたやすく赦すのではしめしがつかない”のではないか?、との疑問も持ってしまいます。 > ☆ 律法という養育係あるいは 規範とされたからには何らかの目隠しのような覆いを 社会としては正式に掲げつつ 人びとそれぞれの主観としての内実において後世のキリスト・イエスの愛をじわじわとにじませつつ しめそうとしていたでしょうか?  これは、あくまで愚見ではございますが、自然法がどのようにして生まれた・形成されたのかを考えてみましたときに、突き詰めますと、神のご意志等にまで行き着くものと思われます。 「自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教の自然法論は、神からの啓示を重視する。それは、専ら新約聖書および旧約聖書から得られる指図である。典型的な啓示は、モーセの十戒である。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95   例えば、今回出てきております“姦淫”でございますが、我が国でも、“売春禁止法”により、ある程度の制限がなされています。そこで、当法律の律法主旨は、以下の条文から“人としての尊厳を害し”、“性道徳に反し”、“社会の善良の風俗をみだす”が問題であるからとされています。  ですが、例えば援助交際のように、自らの意志で行った場合では“尊厳を害する”ことに繋がるのか?という疑問もございます(金銭の授受の契約がなされていますと、被害者はいないと思われます)。さらにスイス、ドイツやオランダでは、売春は合法化されておりますが、登録制、年齢制限等が設けられる等、国・自治体の管理下におかれておりますが。  では、なぜ“売春”が一般的に”道徳に反し”となるかを突き詰めましても、明確な答は得られないものと思われます。おそらく、これは”自然法”に帰するものかと考えております。やはり、“性行為の乱れの行き過ぎ(十戒の姦淫)”は、社会秩序の混乱を招く恐れがあることを、それとなくほのめかしていたのかもしれません。 売春防止法 第一条 この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、<略> > バテシバあるいはその子ソロモンに対する〔ようになる〕ダヰ゛デの態度が 自分の思わくはなくまったくにおいて神の声に従うものであるということでは 一致した見方だと受け取りました。  ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 次の点について ダヰ゛デが終始 夢遊状態であったという見方は 修正したほうがよいようですね。  了解致しました。 > ★ ~~~~~  なぜ、そこまで[キリスト・イエスの降臨が]遅れたのかにつきましては、残念ながら愚生にはわかりません(全国に広まる、という条件、つまり、最大帝国であったローマ帝国の頃を待っていたのかもしれませんが、それ以上のことは残念ながら・・・)。  ~~~~~~~ 里程標のひとつとして 掲げました。  どうもありがとうございます。 ただ、以下の福音書にもございますように、神だけがご存知なのかもしれませんが・・・ マルコ伝13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。 > まとめに向かうことができましょうか。  そう願ってございます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 自然法  ☆ という法もしくは法源 あるいはさらにその法源としての神の法(永久法)といった視野のもとに 旧約≒律法の時代とそこから抜け出て来るあたらしい契約(むしろ無契約というほどに 無根拠のもとに なにかがはたらく)の時代との照らし合わせをおこなっていただきました。  律法からは いまの主題になっている姦淫の問題を取り上げ そして現代においては売春防止法におけるその問題の扱い方を 説明いただきました。  昔むかし 法源といえば 法律条文に明文がなければ 慣習法にもとづくのであり 慣習法も明確でなければ 条理によるのだとおそわりました。その教授がいかにも法律家(法学者)のように見えたものですから よくおぼえています。  木の板にも その縦・横の筋目がある。この筋目に沿って板は切るのであって その筋をたがえるならば 困ったことになる。この筋目が 人間と社会との道筋としての条理であると。  だとすると 自然法ないし自然本性とは 理性ではないでしょうね。ただ単に理性というのではないでしょうね。心というふうに広げておいたほうがよいでしょうし 境地と言って その現存在といった存在のあり方や動態を捉えてその平安や健全なる筋道のことを言ったほうがよいのかも知れません。  その奥に むしろ無根拠としての神の場があるということでしょうか。  無根拠としてこそ いわゆる国際法も 自然法にもとづくというかたちになるのかも知れません。  ところで  ▼ (レビ記20:10) ~~~~  人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は  姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とあります。そして 他方では――時代を隔てているでしょうが――  ▼ ( イザヤ書 55:7) ~~~   神に逆らう者はその道を離れ  悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。  主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。  わたしたちの神に立ち帰るならば  豊かに赦してくださる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とも しるされています。  ○ ダヰデもバテシバも 《立ち帰り》が成った。  ☆ と受けとめることとします。その説明は むしろ無根拠のもとにあって 他人には分かりがたい。と。  ちょっとあっさりし過ぎましたでしょうか。  あとは――あたらしい回答者のあたらしい見解がまだあるかも知れませんが それをも含めて―― しばらくのあいだ みなさんからも補遺やまとめを書きこんでいただくために 開けております。    まことにありがとうございました。みなさんにも 感謝申し上げます。これからもよろしくお願い致します。  

その他の回答 (38)

noname#143207
noname#143207
回答No.8

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ○ ダヰ゛デはその長い生涯において 王に就いてからの或る日の午後 昼寝から覚めたと思ったら あとは 水浴びする女を見た覚えはあるが それからというもの 或る日 預言者ナタンによる叱責を耳にしてようやくほんとうに目を覚ますまで その一定の期間は 夢の中にあった。何が起きたか 分からないほど 偶発的なことであった。
☆ このひどっちさんのご見解は ひじょうに魅力的です。まづは そう考えます。
  誠に、光栄に存じます。 
> まづやはり いちばんひっかかることは たとえ夢の中においてであったとしても ダヰ゛デはきちんと情況を受けとめ事を進めていると思われることです。確認しますが
(1) バテシバが子を宿したと分かったとき 夫のウリヤを戦線から呼び戻し 夫婦で床をともにさせようとしています。生まれて来る子は 自分たち夫婦の子であると思わせるよう その偽装のために。
  仰られますように、用意周到な策略を用いております。ダビデは自己の失態を隠そうとすべく、ウリヤに対して、妻バテシバと関係を持たせ、子供がウリヤ自身のものだと考えることを期待し、ウリヤを家に返そうともしています。
 ですが、夢の中とは、バテシバに夢中であったこと、さらに申しますと、自分はイスラエルの王である。(我を裁くものなどいない)絶対的存在である、とも思っていたのではないでしょうか?  しかしその後、ナタンに諭され、反省し我に返るのですが・・・ 
> 片や すべて偶発的な事件に始まってあとはその――長い日にちを費やしたとしても―― まったくのこととして一睡の夢であったと見たとします。ところが片や その夢の中で 自分の子が生まれるという事実と人ひとりを死なせるという事実とが起きている。
 つまりは このように夢の中で振る舞ったことの中身について どう受けとめるのか? という課題が残っているのではないか?
  おそらく、絶対的存在に近い存在であるとの傲慢心があったものかと想像しております。 

> メシア=キリストあるいはつまり神の独り子であり神である そういう存在では自分はないのだぞとダヰ゛デが 明らかにするためにという意図が〔夢の中における行動として〕はたらいたとしたなら そのために《一人の女を孕ませ その夫を戦死させなければならなかった》という・自分の心つもりにはまったくない事態が 伴なわれています。
  傲慢にも破廉恥にも そういう副作用がともなわれなければならなかった。 
 その傲慢と破廉恥は もしダヰ゛デの罪が取り除かれたとしたら けっきょく神が負うことになり  とどのつまりは 神が・神こそが バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた。ということになりましょうか? どうでしょうか?

   つまり、神が予めそれを知りながら、いや、むしろそれを望んで、” バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた”、としますならば、神が負うことになろうかと考えられます。  また、その可能性は完全には否定できないのも事実でございます(後述しております)。  ですが、この事件はダビデに魔が差したものかと思われるのですが・・・ > ちなみに りとるきすさんのご見解は――質問者が勝手に推し測るのですが―― ひとつに《一目ぼれ》という見方を ひどっち説と共有し もうひとつにこれを むしろ女の側から見ている。
  「いまの《一目ぼれ》を 女が・つまり ダヰ゛デがどうかはいま別として 人妻であるバテシバのほうが体験してしまったのだという見方です。」
  「そうして 長明の見解によれば 愛にしても決して仏道のさまたげになるのではなく ひとえに心をそそぎその愛という《ひとすぢにたのむ》ならば 往生すると言うのだそうです。」
  バテシバは 夫ウリヤを裏切ることになるが その裏切りよりもさらにとうとい・言わば務めとしてのように 王ダヰ゛デに一目ぼれをして あとはその愛ひとすぢにたのみ ひとすぢに生きようとしたのだと。
 夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?
    まず、鴨長明のご説明を賜りまして、厚くお礼申し上げます。  今度はバテシバが、ダビデに対してどのような情を抱いていたかと考えますと、愚生にはわかりません。ただ、ダビデは美青年であったといわれていますので、まんざらでもなかったのかもしれません。残念ながら愚生にはわかりませんが、女性には”上書保存”が可能のようでございます(前の男は、自然と”delete"されてしまいます)。このため、その後の”愛ひとすじ”に生きられるのかもしれません。  また、”夫ウリヤの戦死よりもとうとい務め”というものがあるとしますと、以下のことが考えられます。 1. 神はひとに対しては主[あるじ]であり、無条件なる絶対者である。
 2. ダビデ家が不安定になっていたこと。(当時の)王家の動乱は国民にも不足の事態をもたらすため、神はこれを回避したかった。 3. サウルとの娘との子供には王位を継がせたくはないという神のご意志。  1につきましては、省略させていただきます。2につきましては、以下に記載しておりますように、ダビデ家の内情は不安定そのものでございました。その動乱の中、罪のない人も殺害されたものと推察されます。神にとりましても、これを防ぐのが目的であったのかもしれません(ダビデがもっとしっかりしていれば問題はなかったのかもしれませんが)。  また、3につきましては、以下の”6. 神はサウルを許していない”をご参照くださいませ。 1. ダビデの子供達による強姦(近親相姦) 13:11-13:14 彼に食べさせようと近づくと、アムノン[ダビデの息子]はタマル[アムノンとは異母兄弟]を捕らえて言った。「妹よ、おいで。わたしと寝てくれ。」タマルは言った。「いけません、兄上。わたしを辱めないでください。イスラエルでは許されないことです。愚かなことをなさらないでください。わたしは、このような恥をどこへもって行けましょう。あなたも、イスラエルでは愚か者の一人になってしまいます。どうぞまず王にお話しください。王はあなたにわたしを与えるのを拒まれないでしょう。」アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで辱め、彼女と床を共にした。 2. 強姦された妹[タマル]の兄[アブサロム]による復讐 13:28 アブサロム[タマルの実兄]は自分の従者たちに命じて言った。「いいか。アムノンが酒に酔って上機嫌になったとき、わたしがアムノンを討てと命じたら、アムノンを殺せ。恐れるな。これはわたしが命令するのだ。勇気を持て。勇敢な者となれ。」 3. 復讐をした息子[アブサロム]をダビデが許す 14:33 ヨアブは王のもとに行って報告した。王はアブサロムを呼び寄せ、アブサロムは王の前に出て、ひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。 4. しかし、その許された息子[アブサロム]が勝手に王位に就こうとする 15:06-15:14 アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるまい、イスラエルの人々の心を盗み取った。<中略>イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」 謀反を企てた息子[アブサロム]がダビデの部下に殺害される 18:14「それなら、お前に期待はしない」とヨアブは言った。アブサロムは樫の木にひっかかったまま、まだ生きていた。ヨアブは棒を三本手に取り、アブサロムの心臓に突き刺した。 18:15ヨアブの武器を持つ従卒十人が取り囲んでアブサロムを打ち、とどめを刺した。 6. 神はサウルを許していない 21:01ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」 7. 息子[アドニヤ]が勝手に王位に就こうとする 列王記 01:05-01:07 ハギトの子アドニヤ[ダビデの最年長の息子]は思い上がって、「わたしが王になる」と言い、戦車と馬と五十人の護衛兵をそろえた。彼は父から、「なぜこのようなことをしたのか」ととがめられたことが、一度もなかった。彼の体格もまた堂々としており、アブサロムの次に生まれた子であった。アドニヤはツェルヤの子ヨアブと祭司アビアタルに話をもちかけ、この二人の支持を得た。 8. 神に愛されたソロモンが、バテシバの願いもあり、王位継承者となる 列王記 01:28-01:31 
> けれども 王ダヰ゛デの罪を”神が取り除いたとするのなら” いったいことの全体をわたしたちは どう見ればよいでしょう? 
  上述しておりますが、全体を見渡すことが可能な神におかれましては、最悪の事態は避けたかった、と考えられます。

 > 一日経って 質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません。まだ分かりませんが 赤裸々に―― frisk に blue にて――途中経過の考えを明らかにいたします。  愚生にはとても難しい問題に察せられます。つきましては、新たな解釈等のご教示の程、よろしくお願い致します。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 愚生にはとても難しい問題に察せられます。つきましては、新たな解釈等のご教示の程、よろしくお願い致します。  ☆ いえいえ そういう意味ではありませんでした。《質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません》と言ったのは ちょっとした――ただし中身の破廉恥な――ヒラメキがまるっきり反故になるのでもないかなと思ったというそのこと〔のみ〕です。  あとは バテシバについて  ☆☆  夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?
    ☆ と書いているそのことが――批判しなければならないことであるゆえに 批判する口調で述べているにもかかわらず―― いわば自然史過程としては 現実となった。わけでした。  つまりはそのように人間とその社会にとっての現実というものは 推移することがあるのかなぁという思いです。  この思いまでです。《いくらか光が差してくれたかも知れない》という表現をした事由はです。  このバテシバのほうが ダヰ゛デに一目ぼれしたという場合の想定は ひどっち説におけるダヰ゛デによる一目ぼれの場合とを重ねたかたちにおいても成り立つと思われますので 話として捉えておく余地があると思います。  ★ 女性には”上書保存”が可能のようでございます(前の男は、自然と”delete"されてしまいます)。このため、その後の”愛ひとすじ”に生きられるのかもしれません。  ☆ うっすらと そのように感じていましたが そうでしたか。ならば 双方における同時なる一目ぼれの仮説が とおるかも分かりません。  そしていまは 正直に申して 次の事態の捉え方においてわたし自身は足踏みしています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  つまり、神が予めそれを知りながら、いや、むしろそれを望んで、” バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた”、としますならば、神が負うことになろうかと考えられます。  また、その可能性は完全には否定できないのも事実でございます(後述しております *)。  ですが、この事件はダビデに魔が差したものかと思われるのですが・・・    * 6. 神はサウルを許していない     21:01ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に      託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を      流したサウルとその家に責任がある。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ダヰ゛デの側から見れば 《魔が差した》で済むかとも思いますが ウリヤから見れば では《魔が差した》ことの犠牲になっただけという解釈でしょうか?  ウリヤは ちょうど高等法院の祭司長たちに魔が差したことの犠牲になったイエスを・・・想わせる・・・でしょうか?  いま思い浮かんだ考えです。イエスは ダヰ゛デやソロモンの血筋からのヨセフの子ですし。  あぁ いえ もう分かりません。  この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。  どうなんでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の次の発言は またもや思わせぶりなかたちになってしまい申し訳ありません。  ☆☆ ~~~  あぁ いえ もう分かりません。  この辺で 保留しておいたほうがよいかも知れません。  ~~~~~~  ☆ 何か具体的に先が見えて その中身によってここらへんで中断しようといったのではありません。 いちど ともかく中断し時間をおいてみたほうがよいと 自分自身のこととして勝手に思い そう言ってしまいました。その点 すみません。  それにまた わたくしが飛躍をしてしまいそうな予感がしたそのゆえに 中断したほうがよいのではと思ったのでした。  衝動的に行動してしまい この点も すみません。  要するに 時間をください。考えてみます。という意味でした。よろしくどうぞ。

noname#143207
noname#143207
回答No.7

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ ということは 次のように罪に気づき そのあとナタンの言葉をとおして罪に問われなくなることが分かって このアヤマチとそれに気づかなかったマチガイの一件は 基本的に落着したということでしょうか?  はい。そのように考えております。その後のダビデの辞世の言葉を鑑みましても、そう思われます。 IIサムエル23:1-23:5 以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌。主の霊はわたしのうちに語り主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語りイスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者 神を畏れて治める者は太陽の輝き出る朝の光雲もない朝の光雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜るすべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びをすべて神は芽生えさせてくださる。 > ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・  ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。  はい、仰るとおりでございます。“メシアではない”、さらには“メシアにはなら(れ)ない”と推察しております。 > 1.ダヰ゛デが人妻バテシバと出会ったのは ただの偶然である。と言うには そのバテシバとのあいだの次子ソロモンが 王位を継ぐことになるといった事後的な見方をつけ加えるならば まだ早いかも知れない。  ダビデには、自分の後継者がソロモンになろうことは、バテシバと出会ったときにはまだ、分からなかったものと思われます。  もしかしますと、サウルの娘との子どもには後を継がせたくはなかったという神の意志があったかもしれませんが・・・ > 2.バテシバの夫ウリヤが 犠牲になるそのことの意味が分からない。――それとも (1)をも含めてすべては 基本的に偶然のなせるわざだったのでしょうか?  はい、おそらく、ウリヤの死は偶発的なものであったと考えております。神には別のご意志があったのかもしれませんが・・・ > すなわち――これも にゅうとらるさんによる指摘ですが―― 次のようにまとめられるように このバテシバの一件は 一定の期間つづき人を巻き込み犠牲にまでならせたが すべては偶然であり気まぐれのなせるわざであったという見方に傾いたほうが よいでしょうか。  ▼ (列王記上15:5) ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからである。  神のご意志はわからない、という前提で話をすすめさせていただきますと、これらの一件は、偶然の産物であったと考えるのが妥当かと思われます。  最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ ダヰ゛デはその長い生涯において 王に就いてからの或る日の午後 昼寝から覚めたと思ったら あとは 水浴びする女を見た覚えはあるが それからというもの 或る日 預言者ナタンによる叱責を耳にしてようやくほんとうに目を覚ますまで その一定の期間は 夢の中にあった。何が起きたか 分からないほど 偶発的なことであった。  ☆ このひどっちさんのご見解は ひじょうに魅力的です。まづは そう考えます。  ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  冒頭のような言い方で話しを始めるということは あとでどんでん返しを用意しているという含みがあるのがつねですが この場合も違いありません。  どういうことか?  まづやはり いちばんひっかかることは たとえ夢の中においてであったとしても ダヰ゛デはきちんと情況を受けとめ事を進めていると思われることです。確認しますが  (1) バテシバが子を宿したと分かったとき 夫のウリヤを戦線から呼び戻し 夫婦で床をともにさせようとしています。生まれて来る子は 自分たち夫婦の子であると思わせるよう その偽装のために。  ▼ (サムエル記下11:4-8) ~~~~  4: ・・・女(バテシバ)は家に帰ったが、  5: 子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。  6: ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。  ・・・  8: それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」  ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。  ~~~~~~~  ☆ あとは  (2) ウリヤが王宮の入口で家臣とともに眠りに就いたため バテシバに会う機会がなかったのを知って ダヰ゛デは ウリヤをいちばん困難な戦線に就かせるよう指揮官のヨアブに命令している。案の定 ウリヤは戦死した。  すなわち こうです。つまり これらすべてが 美女を見て一目ぼれしたという偶発的な事件から始まって あとはすべて夢遊病者のごとくに振る舞ったのであって ナタンの叱責を聞いたところでやっと我れに還ったのであると見たとしても そう見たとしても (あ)女が子を宿したことと (い)その夫を自分の命令によって戦死させてしまったこととは 事実として残ります。とうぜんのごとく ダヰ゛デは 引き受けます。我れに還ったかれなら 引き受けます。  ということは どういうことになるのか?  片や すべて偶発的な事件に始まってあとはその――長い日にちを費やしたとしても―― まったくのこととして一睡の夢であったと見たとします。ところが片や その夢の中で 自分の子が生まれるという事実と人ひとりを死なせるという事実とが起きている。  つまりは このように夢の中で振る舞ったことの中身について どう受けとめるのか? という課題が残っているのではないか?  ナタンの口にした言葉によれば その罪は取り除かれるとのこと。つまりそうだとしても 罪に問われないことと その罪にかかわる事態が その後も事実としてなお現在していることとは 別のことだと思われるからです。夢から覚めたダヰ゛デは どうこれを引き受けるか?  じつは ダヰ゛デがどう考えどうするかとは微妙に違って 現代のわれわれがどう捉えるかという主題から行くと たとえば次のような見方が出されると思われます。   ★ ~~~~~   ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。  はい、仰るとおりでございます。“メシアではない”、さらには“メシアにはなら(れ)ない”と推察しております。  ~~~~~~~  ☆ 《メシア》は もともと王であれば油をそそがれるわけですから メシアの一人になるのですが ここでは キリストと翻訳されて復活を得たイエス――つまり《第二のアダム》――ではないということ。  だとしたら――だとしたら です―― つまりこの《はじめにことばがあった》というときの《ことば》とも呼ばれたメシア=キリストあるいはつまり神の独り子であり神である そういう存在では自分はないのだぞとダヰ゛デが 明らかにするためにという意図が〔夢の中における行動として〕はたらいたとしたなら そのために《一人の女を孕ませ その夫を戦死させなければならなかった》という・自分の心つもりにはまったくない事態が 伴なわれています。  傲慢にも破廉恥にも そういう副作用がともなわれなければならなかった。  その傲慢と破廉恥は もしダヰ゛デの罪が取り除かれたとしたら けっきょく神が負うことになり とどのつまりは 神が・神こそが バテシバを孕ませウリヤを戦場に死なせた。ということになりましょうか? どうでしょうか?  ちなみに りとるきすさんのご見解は――質問者が勝手に推し測るのですが―― ひとつに《一目ぼれ》という見方を ひどっち説と共有し もうひとつにこれを むしろ女の側から見ている。  『発心集』というのは鴨長明の手になるものだそうですが その当時の通念として《女は成仏するか》という問いがあって これに然り 女も往生するのだと答えていると言われます。この女人成仏いかんについては もう現代では問わなくてよいと考えますが そうすると問題は いまの《一目ぼれ》を 女が・つまり ダヰ゛デがどうかはいま別として 人妻であるバテシバのほうが体験してしまったのだという見方です。(質問者の勝手な推測です。りとるきすさん自身は どうであるか 分かりません)。  そうして 長明の見解によれば 愛――この場合 男女両性のあいだの愛――にしても決して仏道のさまたげになるのではなく ひとえに心をそそぎその愛という《ひとすぢにたのむ》ならば 往生すると言うのだそうです。それは 衆生一般の思いを ブディズムの教義が実際にはどうであれ ブディズムのおしえとして織り込んでいるのであろうと。  という見方に立つとするなら どういうことが言えるか?  バテシバは 夫ウリヤを裏切ることになるが その裏切りよりもさらにとうとい・言わば務めとしてのように 王ダヰ゛デに一目ぼれをして あとはその愛ひとすぢにたのみ ひとすぢに生きようとしたのだと。  夫ウリヤの戦死よりもとうとい務めがあるなどと どの面の皮を下げて 堂々と言えるのでしょうか?  ここでも 傲慢そして破廉恥が横行しています。    けれども 王ダヰ゛デの罪を神が取り除いたとするのなら いったいことの全体をわたしたちは どう見ればよいでしょう?   一日経って 質問者にも いくらか光が差してくれたかも知れません。まだ分かりませんが 赤裸々に―― frisk に blue にて――途中経過の考えを明らかにいたします。

noname#143207
noname#143207
回答No.6

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち、でございます。 > ○ ウリヤの妻バテシバに一目ぼれ――クー・ドゥ・フードル〔 coup de foudre :語義は 神鳴りの一撃・稲妻の閃き → 不意打ち・青天の霹靂・一目ぼれ // ちなみに クーデタ( coup d'Etat :国家の一撃)〕―― そのとき我れを忘れた。  ☆ こういうご回答でしょうか?  はい、そうでございます。 > 難を言えば その一撃に打たれたあと ウリヤを戦争の最前線に送りやるといった謀りごとをしていますね。つまり 時間をかけているのですよね。  はい、そのように考えられます。ですが、自分の過ちには気付いていなかったように見受けられます。  サムエル記II 12:01-12:06 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」 “ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」” > では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。  仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。  これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・ > ○ 人びとは わたしダヰ゛デが これほど神のおぼえがめでたくてあって 人びとはわたしをうやまい あがめたてまつるほどである。そうではないということを 知らせねばならない。おお そうだ。ちょうど いい。ウリヤの妻バテシバに懸想しよう。マチガイを犯す人間であることを実地に示そう。・・・  ☆ という筋書きです。  ○ もし それでも 人びとによるうやまい過ぎがおさまらないとすれば なおその懸想の筋書きは 夫ウリヤの排除にまで及んだ。  その後、ダビデが深く反省しているのを鑑みますと、ダビデ自身には別段思惑のようなものはなかったと思われます。 サムエル記II 12:15-12:17 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。 > ☆☆ 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。 これすらすんなりと解けたらといった蜀を望むすけべごころがあります。  この頃のダビデは、戦争の最中にも関わらず、午睡から起きて王宮の屋上を散歩している有様でした。 11:02 ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。  一方、ウリヤは信仰心を保ち、また主人想いでもありました。 11:10-11 ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」  おそらく、この対比(信仰心を忘れかけていた者と、常に持合わせていた者)を示したかったのも知れません。 > いづれにしても その後もダヰ゛デは 神によって使われるというつとめがあったようです。めぐまれていたと思います。  はい、非常に恵みを与えられていたかと思われます。モーゼが目的のカナン地に行くことが許されなかったのを考えますと(民数記20:12)、確かに、仰る通りかと存じます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ですが、〔* ダヰ゛デは〕自分の過ちには気付いていなかったように見受けられます。   ★ その後、ダビデが深く反省しているのを鑑みますと、ダビデ自身には別段思惑のようなものはなかったと思われます。  ☆ ということは 次のように罪に気づき そのあとナタンの言葉をとおして罪に問われなくなることが分かって このアヤマチとそれに気づかなかったマチガイの一件は 基本的に落着したということでしょうか?  ▼(サムエル記下12:13-15) ~~~~  13: ダビデはナタンに言った。   「わたしは主に罪を犯した。」  ナタンはダビデに言った。   「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。  14:しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、    生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」  15:ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ あとは 次のようなことがらが添えられ得るというところでしょうか。  ★ おそらく、この〔* ダヰ゛デとウリヤというふたりの〕対比(信仰心を忘れかけていた者と、常に持合わせていた者)を示したかったのも知れません。  ☆ この場合は では どうしてそのウリヤなる人物が犠牲にならなければならなかったかという問いが 出て来るかと思われます。  ★ 〔* もし神の一撃であったなら〕これは、難しい問題かと思われます。周りからも英雄として認められ、国王になりました。ですが、”第二のアダムではない“、ということを示したかったのか・・・  ☆ ここでは にゅうとらるさんが賛同された《神のようにならないため》という意図が どこかでははたらいたかも知れないといったところでしょうか。  いやぁ 分からなくなりました。お考えのそれぞれの要素としては すでにそのまま――つまり《一目ぼれ》などとしてということですが―― 受け容れていると思うのですが それをさらに腑に落ちさせるというところまでは行きません。正直なところです。  というよりも この問いじたいが あまり何かの人間真実などの問い求めにふさわしいものではなかったかも知れません。No.1の方に言われたことが おそらくそのご見解とは別様にだと思うのですが 当たっていたかも分かりません。問い自体も 問いの立て方も その目指すことが全体の中にどう位置づけるものなのかが分かっていなかったというようにです。  もし未練のような ただし考えるべき要素があると思われるかたちでの懸案があるとすれば それは 次のふたつあたりでしょうか。  1. ダヰ゛デが人妻バテシバと出会ったのは ただの偶然である。と言うには そのバテシバとのあいだの次子ソロモンが 王位を継ぐことになるといった事後的な見方をつけ加えるならば まだ早いかも知れない。  2. バテシバの夫ウリヤが 犠牲になるそのことの意味が分からない。――それとも (1)をも含めてすべては 基本的に偶然のなせるわざだったのでしょうか?  すなわち――これも にゅうとらるさんによる指摘ですが―― 次のようにまとめられるように このバテシバの一件は 一定の期間つづき人を巻き込み犠牲にまでならせたが すべては偶然であり気まぐれのなせるわざであったという見方に傾いたほうが よいでしょうか。  ▼ (列王記上15:5) ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからである。  

回答No.5

あ、宙ぶらりんです、追記です。 ひどっちさんへのお礼欄に書かれているように、 「神のようにならないため」かもしれません。 ウリヤは 「神は生きておられ・・・」ではなく、 「あなたは生きておられ、あなたの魂は生きています。」 と言っています。(サムエル第二 11:11)

bragelonne
質問者

お礼

 こちらから先にお応えしてまいります。  にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  わたしの得た答えには いまのところみづからが反応をしかねています。  ダヰ゛デが女に目をとめてから ほどなく子を宿したという事態がたしかにあるのですね。  そのあと ダヰ゛デは 夫のウリヤを戦線から一たん引き上げさせ 家に帰らせようとしています。(サムエル記下11:1-8)。  ウリヤは 妻のバテシバのいる家には帰らず王宮の入り口で眠りを取ったと言います。  ▼ (サムエル記下11:6-13) ~~~~  ダビデは〔指揮官の〕ヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。  ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。  それからダビデはウリヤに言った。  「家に帰って足を洗うがよい。」  ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。  しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。  ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。  「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」  11 ウリヤはダビデに答えた。  「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。  あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」  ダビデはウリヤに言った。  「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」  ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。  ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この11:11の《あなたは確かに生きておられます》というところですね。そしてこれも なぞですね。戦線にいる上官や仲間の兵士たちのことを思うと 家に帰ってゆっくりすることは出来ないというところで ダヰ゛デに対して   ▼ あなたは確かに生きておられます。  ☆ と言っているのですね。これも 分からないですね。  ★ ~~~~~~  「神は生きておられ・・・」ではなく、  「あなたは生きておられ、あなたの魂は生きています。」  と言っています。(サムエル第二 11:11)  ~~~~~~~~~  ☆ ですか。反論も賛同もなかなか踏み切れないでいます。  さらに考えてみます。

bragelonne
質問者

補足

 にゅうとらるさん こんにちは。  ひどっちさんの回答No.9への補足欄を書いたあと この欄にしたためます。  つまり例の《立ち帰り》なる主題をめぐってです。  ★★ ~~~~~  今日はダビデがどうのとあれこれ考えつつ、  何となく思い浮かんだのは結局この辺でした。  ◇ エゼキエル書 18:23  ◇ エゼキエル書 33:11  ◇ イザヤ書 55:7  ◇ 哀歌 3:33  ◇ ルカ書 15:7  立ち返り・悔い改め・悪は存在・・・・・の辺り。  ダビデはナタンの声を聞いてすぐに立ち返り、  バテシバを慰め、死にそうな子どものために断食をし、  悔い改めた様子が伝わりますから。  ~~~~~  どうもおっしゃるように この主題――つまりふつうは《反省する》とかブディズム風には《懺悔する》とか言いますが ここでは《我れに還る》という意味を含む《立ち帰り》です――に帰着するかと思われて来ました。  ◇ エゼキエル書 18:23 ~~~~~  21:悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。  22:彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。  23:わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。  ◇ エゼキエル書 33:11 ~~~~~  8:わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。  9:しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。  10:人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。  11:彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。  ◇ イザヤ書 55:7 ~~~~~  6:主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。  7:神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。  ◇ 哀歌 3:33 ~~~~~  30:打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。  31:主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。  32:主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。  33:人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。  ◇ ルカ書 15:7 ~~~~~  3:そこで、イエスは次のたとえを話された。  4:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。  5:そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、  6:家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。  7:言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」  ~~~~~~~~~~~  ☆ No.9の補足欄では ひどっちさんの説に噛みついていますが どうも中身の問題は この《立ち帰り》にあったかと そのあと ふと思ったのでした。  《神はなんで律法などをモーセに与えたのか? / 早くに律法はその規範性への依存というかたちに落ち入れば無効であると宣言して欲しかった。 / あるいは要するにもっと早くイエスに来て欲しかった》と噛みついていますが どうも問題は《立ち帰り》のほうにあるのかも知れないと。  エゼキエル18:21-22では まだ規範の履行としての律法が引き合いに出されていますが 18:23では その規範性を超えているかにも採れます。そんな感じで ダヰ゛デについても見てみるとよいかも知れないのかぁと。  どうもいろいろとお騒がせしました。とお蔭で言えるようになったと思うのですが どうでしょう。

回答No.4

ぶらじゅろーぬさん。こんにちわ。 言われてみれば不思議だなあいろいろ、 と思い、回答ではないのですが、少ししゃべります。 ◇なぜ最初の間違いだけで終わらなかったのか。 マちがい1.人妻と性交し妊娠させた。 マちがい2.それを隠すためにウリヤとバテ・シバと性交させようとし、       バテ・シバの子はウリヤの子、ということにしようとした。 マちがい3.うまく行かなかったので他人の手によってウリヤを殺した。 マちがい1.から、マちがい3.までの間に、 「マ」がなさすぎるような気がするんですが、なぜ? ◇ダビデのこの悪行が、なぜわざわざ聖書に書かれているのか。 ◇「ヒッタイト人ウリヤの事の他は、一生の間、  神が彼に命じられたどんなことからもそれなかったからである。」  (列王記第一15章)と、わざわざ書かれているのも気になる。 ◇それから、なぜ次の王は、バト・シバの子ソロモン? ひとことも回答を書かずにすみません(←削除対象?)。 他の方のさらなる回答を楽しみにして書きっぱなしで消えます。

bragelonne
質問者

お礼

 にゅうとらるさん No.7のひどっちさんのご回答へのわたくしの応答をごらんください。  現段階でのわたくしの考えをしるしました。  横着な返答になりますが よろしくお願いいたします。

回答No.3

こんばんは、bragelonneさん。 【自発 (文法)】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%99%BA_(%E6%96%87%E6%B3%95) http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/jodousi04.html 【《古文》発心集の現代語訳】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113975336 【愛することと往生をとげること : 発心集第四九話成立の論理と背景】 http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/10548/1/2009203530.pdf 二律背反 【概念としての文学─ 起源における東西詩学の伝統の相違をめぐって─】テレングト・アイトル http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/469/1/NENPOU-6-3.pdf http://ci.nii.ac.jp/naid/110007554269

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。りとるきすねえさん。ご回答をありがとうございます。  このたびは いつになくまじめなりけり。  ▼ (《古文》発心集) ~~~~  ・・・   「いとあはれなる者どもかな。   さほどに楽にめでて、   何事も忘るばかり思ふばかり思ふこそ、   いとやむごとなけれ。   王位は口惜しきものなりけり。   行きてもえ聞かぬ事」  とて涙ぐみ給へりければ、思ひの外になむありける。  これらを思へば、この世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし。  ~~~~~~~~~  ☆ ということは 王位にあるダヰ゛デの場合は   ▼ 王位は口惜しきものなりけり。行きてもえ聞かぬ事」  ☆ などともはや言っていないで そのわが置かれた情況を省みず 美女バテシバにのめり込んだ。――こういうご見解でしょうか?    ★ 〔* 王の地位とその仕事に対するに おのれの一目ぼれなる恋心の湧き出る思いとの〕二律背反  ☆ を一たんは自覚したが それもものかは 王位を打っ棄って突き進んだ。――とのご見解でしょうか?  ▼ 数寄は〔* むしろ頼りになってはいけない場合にも つまり頼りにしてはならない場合にも 思わず または思いのほか〕ことにたよりとなりぬべし  ☆ 《自発・自己生成・自己組織化・自己内面における内的展開》にさからえる人間は そうざらにはいない。――こうお考えでしょうか?  と取り敢えずここまでをお応えして あとは――出された資料が地球を何周もまわるほどなので―― たんま。  ★ テレングト・アイトル  ☆ モンゴルの人ですか。  ★ 【愛することと往生をとげること : 発心集第四九話成立の論理と背景】  ☆ おとこまさりのねえさんにも 忘れられぬ世紀の初恋がお有りだ〔った〕ということでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 さすが われらがりとうきすねえさん。  義を見てせざるは勇無きなり。  男が いや 女が 泣くもんね。  ゆっきんさんは デリケートさではあなたに負けていないほどと思いますので やり取りをたのしみにしています。

noname#143207
noname#143207
回答No.2

 こんばんは、ひどっち、でございます。  申し訳ございません。こちらの方が気になりまして、投稿させていただきました。  数々の勝利および名誉を得たためか(下記”参考”ご参照くださいませ)、もしくは、 その妻を見たときの、そのひと時、“我を忘れていた”、“自分自身を見失っていた”と考えております。  以下のサムエル記にもございますように、完全に見失っていたなら、おそらく預言者ナタンをも裁いていたかと思われます。ですが、ナタンの声を素直に聞き入れました。おそらく、この一時、“自分自身を見失っていた”と推察されます。 サムエル記下12:5-12:13 新共同訳 ダビデはその男に激怒し、[預言者]ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」[預言者]ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』 <中略> ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。 参考 サムエル記下8:15-8:18 新共同訳 ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。ツェルヤの子ヨアブは軍の司令官(エドム人撃退に貢献)<中略>ダビデの息子たちは祭司となった。  何かご参考になるところがございましたならば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ ウリヤの妻バテシバに一目ぼれ――クー・ドゥ・フードル〔 coup de foudre :語義は 神鳴りの一撃・稲妻の閃き → 不意打ち・青天の霹靂・一目ぼれ // ちなみに クーデタ( coup d'Etat :国家の一撃)〕―― そのとき我れを忘れた。  ☆ こういうご回答でしょうか?  ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  難を言えば その一撃に打たれたあと ウリヤを戦争の最前線に送りやるといった謀りごとをしていますね。つまり 時間をかけているのですよね。    目的を遂げるまでは 盲目であった。・・・かも知れません。  つまり 一定の期間において  ★ 以下のサムエル記にもございますように、完全に見失っていたなら、おそらく預言者ナタンをも裁いていたかと思われます。ですが、ナタンの声を素直に聞き入れました。おそらく、この一時、“自分自身を見失っていた”と推察されます。  ☆ 《神のことば》とも言うべき――というのは 旧約の時代であるという条件においてだと考えますが――預言者ナータンの叱りの声を聞くゆとりは持ち続けていた。    じつは 質問者には この質問を挙げたその明くる日に ちょっとした答えを得ました。解決としての答えではなく いくつかありうるというその可能性のひとつとしてですが それによると では なぜこの《我れを忘れる》というマ(間)の違いが 人ひとりを死なせる結果をも伴なって起こったのか? こういう問いをともなっているかと思えます。  仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。    わたくしの得たひとつの答えは きわめて破廉恥な内容をおびたものです。  ○ 人びとは わたしダヰ゛デが これほど神のおぼえがめでたくてあって 人びとはわたしをうやまい あがめたてまつるほどである。そうではないということを 知らせねばならない。おお そうだ。ちょうど いい。ウリヤの妻バテシバに懸想しよう。マチガイを犯す人間であることを実地に示そう。・・・  ☆ という筋書きです。  ○ もし それでも 人びとによるうやまい過ぎがおさまらないとすれば なおその懸想の筋書きは 夫ウリヤの排除にまで及んだ。    ☆ 傲慢きわまる しかも きわめて――書いているそばから 顔の火がおさまらず どうしてよいか分からなくなるほど――ハレンチ極まりない発想の答えが 思い浮かびました。  だから どうなんでしょう? とも言えません。思い浮かんだものは いちどオモテに出しておくこととします。うっちゃってくださいませ。  ☆☆ 仮りに神の一撃が このようにふとダヰ゛デに落とされたとするなら なぜこういう中身の出来事であったか? こういう副次的な問いです。  ☆ これすらすんなりと解けたらといった蜀を望むすけべごころがあります。  ありがとうございました。  いづれにしても その後もダヰ゛デは 神によって使われるというつとめがあったようです。めぐまれていたと思います。

回答No.1

注)質問文にある「ダヰ゛デ」とは誰を指すか分りませんが、古代イスラエルの英雄ダビデの事と推測して、以下書いております。 まずは、口語訳または文語訳の聖書で同じ箇所をお読みになることをお勧めいたします。 (ネットで検索可能です) 口語訳「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」 文語訳「ヱホバよわれを糺しまた試みたまへ わが腎とこころとを錬きよめたまへ」 アナタが引用している「火のなかに ためしてください」というのが、何訳かは存じませんが、いずれにせよ「火の中に試す」とは「精錬する」の意です。精錬するのですから、不純物を取り除きます。 故に口語訳では「練りきよめ」、文語訳では「錬きよめ」と訳しているのです。 こちらの訳であれば、不純物である罪を取り除いてください、と祈っていることが分ります。 神に対して後ろ暗いところが無い人に、何かが起きて悪事をした、という流れではなく、罪を自覚した人が神に罪を取り除いて欲しい、と祈っているのであれば違和感は無いと思われます。 ちなみに、英訳の聖書の幾つかは「火のなかに~」の箇所を「test me」と訳しております。 この場合のtestは、学生が四苦八苦するアレではなく、「精製する」の意味で用いています。 こちらも不純物を取り除く行為です。 イスラエルの王に即位して、得意になって権力を行使した。 その結果、悪事をしでかしてしまった。 それを預言者に指摘されて、ダビデは反省しています。(サムエル記下12章) ※くどいようですが、「ダヰ゛デ」がダビデであると推測して回答しておりますので、違う人物についてのご質問であれば、ご容赦ください。 故に、詩篇のこの箇所は聖人君子の歌としてではなく、罪を自覚した者の歌として読めば、疑問も生じないと思われます。 私はイエスを神の子であると信じているので、「この質疑応答が誰かの役に立つように」と 祈りつつ、回答を終えさせていただきます、イエス=キリストの御名によって、アーメン。 以下余談 とは言え、この答えを知ることで、アナタは幸せになるのですか? 異国の王が人妻を奪ったことで、困っているのですか、本当に? ここでの質疑応答は、アナタの魂に悪影響を与えている気がしてなりません。 かつて洗礼について質問をしていたアナタとよく似た名を持った方は、救いを見出したのだろうか。 かの人は「文字は殺し、霊は生かす」という聖書の箇所を引用していたが、ネットには救いも 真の命への道も無いことを、早く悟って欲しいと祈るばかりです。

bragelonne
質問者

お礼

 なまなましいあをい愛さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▼ 「文字は殺し、霊は生かす」  ☆ をご存じであれば 多少の勇み足をおかしてでも心配せずに こちらもなまなましくあざやかに表現してまいります。  ★ ネットには救いも / 真の命への道も無いことを、早く悟って欲しいと祈るばかりです。  ☆ ほんとうにこんなことを思っておいでなのですか?  それなら (あ) ひとつにこんなふうに投稿や参加などせずに 放っておけばよろしいのでは?  (い) もしわたしのように参加している人たちのことを思って参加するということでしたら OKWave の運営じたいについてきちんと批判してみては どうですか? しかも直接その担当部署に言うのがよいでしょう。  (う) それにしても あなたはどのようにして《ネットには救いも / 真の命への道も無いことを》お知りになったのですか?  (え) 事情も事由も説明せずに何かを助言するものではありません。そんな場合の《文字は殺します》。  (お) 道ならぬ道にある者にも 雨を降らせ日の光を浴びせるナゾのちからを もっともっと明らかにしてください。  (か) すでにあたらしい時代と世界にあるときに 《救い》などと軽々しく言ってはなりません。すでにおしえる必要がなくなったところから わたしたちは出発しています。  ★ アナタが引用している「火のなかに ためしてください」というのが、何訳かは存じませんが、いずれにせよ「火の中に試す」とは「精錬する」の意です。精錬するのですから、不純物を取り除きます。  ☆ 《精錬する》のであれば 《火のなかに》です。  たしかめておきます。  《火のなかに ためす》と訳したその語です。  ● צָרַף tsaraph  ~~~~~~   http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/Lexicon.cfm?strongs=H6884   to smelt, refine, test  ● πυρόω pyroō ~~~~~~   http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/Lexicon.cfm?strongs=G4448  to burn with fire, to set on fire, kindle  b) make to glow(melted by fire and purged of dross)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 英訳の聖書の・・・場合の test は、学生が四苦八苦するアレではなく、「精製する」の意味で用いています。 / こちらも不純物を取り除く行為です。  ☆ つまり《火》がつきものです。  ★ 神に対して後ろ暗いところが無い人に、何かが起きて悪事をした、という流れではなく、罪を自覚した人が神に罪を取り除いて欲しい、と祈っているのであれば違和感は無いと思われます。  ☆ こういう意味でしょうか?  ○ この詩編のうたをうたったときのダヰ゛デが《完璧な人間ではなかった》のだから あとでよろしくない事をしでかしても 特別におどろくことはない。  ☆ でも それはあまりにも《文字》にとらわれた見方ではないでしょうか。なぜなら 仮りにヨブのように  ▼ (ヨブ記1:1) 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。  ☆ と言っても《完全な人間》だとは言えないからです。  ★ 神に対して後ろ暗いところが無い人  ☆ と言っても 同じことでしょう。  つまり ダヰ゛デもヨブもみな この地上で初めから終わりまで《完全でない状態》にあると言わなければなりません。  その上での問いになると考えます。  ★ 故に、詩篇のこの箇所は聖人君子の歌としてではなく、罪を自覚した者の歌として読めば、疑問も生じないと思われます。  ☆ 《聖人君子》などという規定は どこから来たのでしょう。意味がありません。  ★ 罪を自覚した者  ☆ であれば 王になったら悪事をはたらいても仕方がないという見方でしょうか? このうたをうたったときは 悪事をはたらくことは少なかった。王になってからは 大きな悪事をはたらいた。ただそれだけのことだ。こういう見方でありご回答でしょうか?  ★ ~~~~~~~  イスラエルの王に即位して、得意になって権力を行使した。  その結果、悪事をしでかしてしまった。  それを預言者に指摘されて、ダビデは反省しています。(サムエル記下12章)  ~~~~~~~~~  ☆ つまりあとで《反省してい》れば 問題なくことは済むのであり 疑問に思うことは何もない。こういうご回答でしょうか?  このような見方をなさっているのであれば そのご見解は  ★ アナタの魂に悪影響を与えている気がしてなりません。  ☆ 老婆心ながら。つまり いわゆる世間の論理で お茶を濁しているのみだからです。  このひとりのクリスチャンによるご回答内容によって キリスト・イエスのことで勘違いを起こす人のすくなからんことを祈りつつ。ぶらじゅろんぬ本人のこころにおいて。  ふりすく_ぶるー_らう゛さんは なぜそんなにダヰ゛デをかばおうとされるのでしょう。神とてもわざわざわれわれ人間がかばったりする必要もないでしょう。あなたは 神の代理だとでもおっしゃるのでしょうか。  この質問がダヰ゛デを持ち上げも貶めもしているとは思えませんが。  われわれのそれぞれのたましいにたずねているだけですよ。

関連するQ&A