• 締切済み

プラシーボ効果判別の線引き

現代医学以外の方法で、何らかの治療を行い治癒したとき、それがプラシーボ効果であるか否か、何によって判別しますか?肯定・否定いずれでもよいのですが、その根拠をどのように科学的に論証するのでしょうか。もしも、うまく論証できなかったとき、場合によっては、現代医学の科学的根拠にも波及することになるのでは、と思います。

みんなの回答

  • masudaya
  • ベストアンサー率47% (250/524)
回答No.8

>例えば、うつ病になった、関節に炎症が起きた、喘息や肝炎。 >これらは、遺伝子の異状によっておきたものではありません。 >人ゲノムの知識を必要とはしませんよ。 >物理的に生命秩序を正常化すれば、一日で治癒可能です。 うちの子供が喘息です.一日で直せるのならお教えいただきたいです. 喘息の原因の一つアレルギーは遺伝するのでゲノムが関係すると思いますが... >十数年にわたって、多くの病気を自己実験などによって治癒可能であることは確認済みです。 >それは、物理法則に合致している。 なるほど,n=1の実験結果ですね. 物理実験としても,n=1では信頼性が低いと思いますよ. 特に,人間などのシステムを扱う場合n=30などの数を取って 見ないといけないと思います. >統計学は、秩序や法則性が無いことを前提とするものです。 そうではないと思いますよ.統計は雑音などが入っている情報を取り出すのにも用いますし, 法則性を浮かび上がらせる為にも用います.素粒子物理の分野でも反応の回数を増やし 信頼性が99%だか99.9%だかで法則を証明していたように思います.これも統計ですよね. >生命に秩序や法則性が無いというのですか? 生命に秩序や法則性はあるでしょう. ただ,秩序や法則性を根拠に統計は使えないとは言えないと思います.

noname#137190
質問者

補足

nが1でも、100でも同じことです。再現性が不安定であり、法則化・理論化できず疑似科学扱いされてきたが、その方法が有効であることは知られていることです。ですから、nは1ではありません。思考実験や自己実験によって確定させただけです。物理法則は普遍的なのですから、統計による検証はもはや不要でしょう。しかし、統計学の適用については、理論が公表されない限り、これ以上論じても時間の無駄でしょう。

  • masudaya
  • ベストアンサー率47% (250/524)
回答No.7

>疫学調査などを除けば、統計学は、生命現象に適合しない方法論であるということですよ。 それは何を根拠に仰っていますか? >今となっては、統計学が科学的方法論であるという思い込みによって、生命における法則性の探究をしようとする意思を喪失し、医学の発展を阻害しているのです。 これは上の前提が成立していると言う上に成り立っていると 言うこととから真偽が決めかねます. と思いましたが,病気の特性遺伝子の探索など現在活発に 行なわれているゲノム治療の進展を考えると 生命の法則探求は精力的に行なわれていると考えられます. 結論が誤っていますので,この文は間違っているのではないでしょうか. >統計学なんてものを使わずに、プラシーボ効果であるか、否かを、判別するためには、どのような論証ができるかを拝聴したいのですが。 最初の根拠をお伺いして,私が納得できるようであれば 考えてみたいと思います. 感覚的ですが,風邪などは薬が無くてもたいていの人が直ります. しかし,風邪をこじらせて肺炎などになり亡くなってしまう人もいます. この結果を個々の事例に応じて,個別に考えると言うことも必要ですし 医学書などには注意すべき個々の事例を記載してあります. しかしそれをするためには,各個人について精密な検査を行ない その結果を用いて判断すべきと言う一見もっともな話になると思います. その場合,ただでさえ病院には時間が掛かっているにもかかわらず 今まで以上の時間が必要になり,それは医療費の増大を招きます. では実際にどうするか,まずは出ている症状のあり得る病気を疑い (この場合,めったにない病気の典型的症状より, よくある病気のめったにない症状の方が一般的に多いことに注意:まさに統計: まためったにない病気でも危険があると判断する場合は,念のため検査する.) それに対処する訳です.それが間違っていればまた通院してくるので その時の症状と前の症状から別の病気を疑う必要があります. このようにして治療しているものと思います. このような治療を考える場合,統計的に考えることがどうしても必要と思います. また,“生物と無生物のあいだ”と言う本で, 人間に必要なタンパク質を体の中で合成していることが分かっていて そのタンパク質を合成するのに必須の物質を発見した等という話が たまにでることがあるが,適当に何人かの人を調べるとその必須物質 を持っていない場合があることがあるそうです.ではそのタンパク質がないかというと ちゃんとある.そのタンパク質が必要なので,紆余曲折しながら合成し なんとかそのタンパク質を合成しているとのことだそうです. このことから,各人内の科学反応は一様な物では無いだろうことが予想できます. これに対処するには,統計が大事であると思います. >物理出身ならば、科学がどのような体系であるか、ご存知だと思いますが。 そんなに真剣に考えたこともないですが,自然を観察すること(現実)で体系づけるものが科学かと思います. 大事なのはコミュニケーションで多くの人が納得できるような体系を作ることかと思います. ただ,博物学や動物学,植物学のような分類する学問も現実を基に議論によって分類してるので 科学になると思います.

noname#137190
質問者

補足

例えば、うつ病になった、関節に炎症が起きた、喘息や肝炎。これらは、遺伝子の異状によっておきたものではありません。人ゲノムの知識を必要とはしませんよ。物理的に生命秩序を正常化すれば、一日で治癒可能です。十数年にわたって、多くの病気を自己実験などによって治癒可能であることは確認済みです。それは、物理法則に合致している。 統計学は、秩序や法則性が無いことを前提とするものです。生命に秩序や法則性が無いというのですか?だから、適用してはならないといっているのです。

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.6

#4 にちょろっと追加: 「もし人体の仕組みが完全に体系的に理解されて、あらゆる薬品・処置に対しての体の全ての具体的反応を示すことができたら、効果や副作用を確かめたり実験したりする必要は恐らくなくなります。」 というのは, おそらく「オーダーメイド医療」の究極の形だと思う.

noname#137190
質問者

お礼

少し追加補足しますね。 オーダーメイド医療が医学の目指すもの、理想の形であると、お考えなのですか?それでは複雑すぎて困難であり、お金がかかりすぎます。一つの法則と方法で、即効的に多くの病気を治癒させることが出来るほうが良いと思いませんか。残念ながら、化学的生命観からは、法則性を抽象することは出来ないのです。

noname#137190
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。。 「オーダーメイド医療」究極の形ですか、それは、生命現象を化学反応の集積とする生命観ですね。しかし、生体内の化学反応は、物理法則の下に進行しているのですよ。そのようなことでは、大部分の病気は物理的に、即効的に治癒させることが可能なことを理解できないでしょうね。代替医療の中に、現代医学をはるかに上回る治療法があるのですよ。

  • masudaya
  • ベストアンサー率47% (250/524)
回答No.5

質問者さんはそもそもどんな答えを希望されているのでしょうか? “何らかの治療を行い治癒したとき、それがプラシーボ効果であるか否か、何によって判別しますか?” と言う質問と思います.それであれば#1さんが言うように統計的に判断します. 薬の場合だと,同じ病気の人に100人ずつにそれぞれ薬と何の効果もない粉 を薬と行って渡した場合,薬は,70人が直り,粉は50人が直った場合 単純に直るならないの二項分布だとすると粉の場合は直る確率が0.5 これから,分散は25つまり標準偏差は5人となる.薬の場合,実際に直った人が 70人なので,粉に対して20人余計に直ったことになり,20/5=4σとなる. 4σ離れる確率は31ppmほどであるのでこれはほとんどあり得ない. つまり,薬が効果あったと言うことになります. 実際は,もっと細かい検討をしていると思いますが,大筋はこんな感じと思います. 何となく話の流れ的には,生命に統計を使っていけない 様な話ですが,統計は英語でstaticsですが, そもそも政治や経済で人口など用いた物が最初であり 統計力学として用いる19世紀末よりもずっと古い物です. また,現在の農業も統計の恩恵を受けいるため,生物に使っていけない どころか,積極的に利用して私たちはその恩恵にあずかっていると思います. 特に,統計を積極的に発展させた実験計画法等はフィッシャーが 農業のために開発した手法であり,現在では農業だけにとどまらずに 色々な分野で利用されています. 人間については,複雑系であることもあり,ある側面では非常に詳しく 理解されていると思いますが,全体としての理解はまだまだだと思います. そのような事情がある為,統計的な判断をしていると思います. ただ,途上国に対して先進国は平均寿命が延びていることや 新生児の死亡率が下がっていることを考えると,私たちは現代医学の 恩恵にあずかっていると考えざるを得ないと思います.

noname#137190
質問者

補足

疫学調査などを除けば、統計学は、生命現象に適合しない方法論であるということですよ。今となっては、統計学が科学的方法論であるという思い込みによって、生命における法則性の探究をしようとする意思を喪失し、医学の発展を阻害しているのです。統計学なんてものを使わずに、プラシーボ効果であるか、否かを、判別するためには、どのような論証ができるかを拝聴したいのですが。 物理出身ならば、科学がどのような体系であるか、ご存知だと思いますが。

回答No.4

これ以上やるとどんどんとりとめ無くなってしまうので、私からはこの辺にしておきますね。 >何らかの法則に従って形成されているのならば、それに対して統計という検証法を適用することの是非が問われることになる。統計処理を行うと、法則性が消えてしまうことになりかねない これは逆です。法則があるからこそ、それが統計に現れるのです。 統計はある確率以下で存在する集団について言及することは不可能ですが、逆に言えばある確率以上の集団の対象への法則性をはっきりと示します。 ある薬が(少なくとも大勢にとって)効くべき理由があったとしたら、よっぽど偏った集め方や分け方をしなければ統計的にもそう現れるはずで、逆に効く理由が無いとしたら有意な差は現れないはずです。 もっとも、「ある大きな集団にとってこの薬は効果がある/ない」という法則は示しますが、当然「この薬は○○のために効果がある」といった法則は示しません。 まあしかし医学的には効きさえすればいいので、そこら辺はどうでも良かったり。 論文等でも関節鏡手術を好ましくなく思う理由が「プラシーボで十分なのにわざわざ高価な手術を施しているのが良くない」ということだったりするくらいで。 >もしも、何らかの法則性があり、それに整合的な治療を行うことが可能ならば、統計学なんてものによって検証を受けるまでもなく、きわめて有効な治療が出来るのでは。 その通りだと思います。もし人体の仕組みが完全に体系的に理解されて、あらゆる薬品・処置に対しての体の全ての具体的反応を示すことができたら、効果や副作用を確かめたり実験したりする必要は恐らくなくなります。 現実はそう思うようにいかないので、今のところは効きそうな薬を見つけたら実際に効果があるか副作用はどうか実験してみる、という方法しか確実と言えるものはなさそうです。

noname#137190
質問者

補足

嫌われてしまいましたか。 例えば、ケプラーが惑星の軌道を計算するとき、平均値を用いたでしょうか。生データにこだわったからこそ、法則を発見できたのです。統計学は、ある範囲内における傾向を記述するにすぎません。そもそも、階層や領域によって、統計学を適用することの適否を検討しておかなければなりません。それを無視すると、法則を発見することが不可能になります。それが分からないと、統計学を適用していたのだから、科学的であるはずだ、という間違った科学教に陥る。 法則と理論を追究するのが科学者でしょう。傾向を記述するだけで命を救うことが出来るでしょうか。

回答No.3

>しかし、我々人間は気体ではありません。無秩序ではないのです、それなのに無秩序であるという仮定の下に適用するなんておかしいと思わないのですか。 無秩序である仮定など置いていません。 置いている仮定があるとすればただ一つ、「ランダムのくじびきの結果に無視できない偏りを起こさなければならない個性(秩序と言ってもいいですが)は存在しない」ということだけです。 この仮定が正しければ、母数が十分に大きいときにはあらゆる秩序的また無秩序的個性はほぼ均等に分けられます。 >個人差があるならば、そこには何らかの理由があるはずです。それを解明した上で評価すべきであろうし、それを無視して治療をすることは、患者にとって多大な迷惑となるでしょう。 誤解して欲しくないところは、「統計的に有意な差がある」からといってあらゆる人に必ず効果があると言ってるわけでもないし、「統計的に有意な差が無い」からといって誰にとってもプラシーボ以上でないと言っているわけではありません。 統計にできるのは「少なくとも95%の人間には効果がある」や「少なくとも99%の人間には効果が無い」といった言い方だけです。これはたとえ一億人調査で全員に効果があったとしても、あるいは無かったとしてもそうなります。大気の運動予測だろうがエンドウマメの実験だろうがそれは同じです。 そして薬効が無いかもしれない5%の人間や薬効がある可能性のある1%の人間に何らかの共通した個性がある可能性は否定しません。もちろん空気分子やエンドウマメの種子に関してもそれは同じです。 そういう人に対して薬を与えたり投薬をやめたりすることは有害無益だということには同意します。 しかしいずれにせよ、99%の人間に効果が見られない薬は「効果が無い」と言わざるを得ません。1%に対して特定の個性があるかどうかを調べ、それに応じた投薬をすることは重要ですが、偽薬判定とはまた別の話です。

noname#137190
質問者

補足

またまたご回答ありがとうございます。 多くの人は、直感的に生命には何らかの秩序があると思うのではないでしょうか。秩序があるからこそ、生物と無生物は区別される。そして、その秩序は何に由来するかを考える必要があるでしょう。何らかの法則に従って形成されているのならば、それに対して統計という検証法を適用することの是非が問われることになる。統計処理を行うと、法則性が消えてしまうことになりかねない。統計という手法は、所詮、傍証にしかすぎない。科学は数学を多用して発展してきたが、数学は経験的事実そのものではありません。 回答者様のような論理ならば、現代医学において統計学が用いられている意味が私には理解できません。 もしも、何らかの法則性があり、それに整合的な治療を行うことが可能ならば、統計学なんてものによって検証を受けるまでもなく、きわめて有効な治療が出来るのでは。その時には、医学において多くの場合統計学の適用は不要になると思われますが。

回答No.2

>対照実験、二重盲検法というのは、多分に現代医学が科学的であるという言い分ですね。現代医学は、そのような検証法をパスしていると。 そのような検証法をパスして「いない」技術が数多くある(故に現代医学が科学的であるとは言えない)と言いたかったわけです。 >有意な差って何でしょうか?~ 母数を十分に大きくとり群をランダムに分ければ個人差は誤差レベルまで無視できます。 誤差で片づけられないくらいの差が現れば、プラシーボ効果以上の効果が期待できたと考えられます。 「有意な差」「十分に大きく」「誤差」等は純粋に統計学的な意味です。 もっとも、「プラシーボ効果を感じやすい人たち(「免疫力の強い人たち」でも何でもいいですが)は、何故かコインで表を出す人が多数だった」 というようなことがあればこの実験は無意味ですが、コインに細工が無ければ免疫力の強い人も弱い人もある特徴を持つ人も持たない人も全て同じくほぼ均等に分けられるということが大数の法則によって示せるので、個性が偏ることを心配する必要はありません。(母数が十分にあれば、の話ですが)

noname#137190
質問者

補足

再びのご回答ありがとうございます。 対照実験や二重盲検法、あるいは確率・統計は、そもそも生命現象とその異常である病気、そして治療に関ることに適用すべきものではありませんよ。 気体である分子の運動に対して確率・統計を適用することは可でしょう。しかし、我々人間は気体ではありません。無秩序ではないのです、それなのに無秩序であるという仮定の下に適用するなんておかしいと思わないのですか。 個人差があるならば、そこには何らかの理由があるはずです。それを解明した上で評価すべきであろうし、それを無視して治療をすることは、患者にとって多大な迷惑となるでしょう。時には、命に関ることであるし、人生を左右します。

回答No.1

ある措置が正しいかプラシーボ効果かを検証するには対照実験を行います。 正しい措置を行う群と正しい措置を行ったふりをする群(偽薬群)に分け比較して、効果に有意な差があるかどうか検証します。 有意な差が認められなかった場合、その措置はプラシーボ効果だったということになります。 医学というのは科学的実験による検証を受けていないことも多く、対照実験によって科学的根拠が認められない(プラシーボ効果である)と証明された技術は現代医学にも多々あります。 近年まで多くの医者が単なるプラシーボ効果だとは知らず風邪には抗生物質が効くと考えていましたし、変形性膝関節症への関節鏡手術がプラシーボ効果でしかなかったことが証明されたのはほんの10年前のことです。

noname#137190
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 対照実験、二重盲検法というのは、多分に現代医学が科学的であるという言い分ですね。現代医学は、そのような検証法をパスしていると。有意な差って何でしょうか?患者それぞれによって状態が異なると思います。個人差を無視して、客観的に有意であるか、を判別できるのでしょうか。また、なぜ、あるいはどのように、各個人によって状態が異なるのか、についても論じる必要もあると思いますが。それを無視して、一つの検証法で正否の判別が出来るでしょうか?

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