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今まで一番印象に残ることについて

私がまだ三年生の冬、母は私を小学校へ送り届ける途中交通事故にあってしまったのです。自転車に乗っていた母は、突然飛び出してきたバスとぶつかって、倒れてしまいました。母の目じりが自転車にはねられてけがをして、多くの血が出てきました。幼い私はその怖い姿を見て、涙が止まりませんでした。頭がとてもはっきりしていた母は、自分がもうかんおけに片足を突っ込んだと思っていたので、私に「お母さんがそばにいない時、自分を大切にしてください。」と言い聞かせました。 出勤のラッシュアワーのために、すぐたくさんの人が集まりました。私は泣きながら、周りの人々に母を病院へ送り届けることを頼みました。そして、あるおじさんがどうしたらいいか分からなかった私に家の電話番号を聞いて、父に連絡してくれました。すぐ父がかけつけました。父は私に自分で学校を行かれて、それから三輪車を呼んで母を病院へ送り届けました。教室に着た後、私は母の手作りの手袋を外して、手に点々とついていた母の血の跡を見て、たまっていた涙がまたしても堰を切ったように流れました。学校が引けてから、母がもう家に帰りました。きずは3針ほど縫いました。 母の傷口がとっくに窄みましたが、その傷跡を見るたびに、あの冬のことが思い出されます。 このことが今まで一番印象に残るのは、家族の大切さを悟るからです。家族みんなはこれまで、いくら疲れてもずっと私たちを見守ってきてくれたのだと思います。家族というものは他の誰にも取って代われません。私は早く大きくなって私の家族を守ってあげられるようになりたいです。

みんなの回答

  • mama4615
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回答No.2

家族って大事ですね。 皆さん書かれて無いけど 1番は難しいですよ。 年数生きていたら 生き別れた等は多々あるでしょうし。 私は 実母を闘病で亡くしました。 ガンよりも最悪、と言われる難病でした。 病気自体が稀であり、大学病院では年間数人居るか居ないか。 余命宣告は 家族のみ。 本人には宣告してません。 そうです、、、私たち家族は母に嘘を突き通す事を決断したのです。 薬も無く、治療方法も無く、余命半年って言える訳が無い。 治療方法があり、だけど余命半年なら まだ頑張れる、、、でも方法が無いですから。 多分静養中 自分の体だから母は分かっていたと思います。 母も騙されたフリをしていたのでしょう。 お互いが フリ。。。 それも愛情であり、私が一生背負う覚悟でついた嘘です。 事故と書かれていたので、一つではなくすいません。 中学を卒業し、私は高校進学し、友人は高校を中退。 いつもはすれ違う様な場所では無い人通りの少ない道を 友人は歩き、私とすれ違いました。 <よ!久しぶり、元気? また皆でカラオケ行こうよ> <オイオイ、久しぶりって 先月会ったじゃんよ~> って至って普通の会話をした翌日、友人は原付バイクの2人のりをして(後部)怪我をし、亡くなりました。 血液が不足し 輸血が必要、輸血が足りない そんな連絡網みたいな物も飛び交い、今の時代みたいに携帯は無い(平成元年ですから)。 それからです、、、私が献血マニアみたいに毎回献血をするのは。。。 多分 その事が無かったら 献血をしてないと思います。 義務とは思わないけど 私が出来る事って それ位だし。。。 もし生きていたら 私と同じ 今年38歳。 結婚もしてたでしょうし、子供も居たでしょう。 そして私の娘は 私がその経験をした年齢を過ぎました。 絶対にバイクは乗らせません、それは生き残る方も辛いし(運転席の友人)、逝かれた家族も辛いし。16歳になった時 それは娘に話しました。。。効果があると良いけど。今の所大丈夫(笑

回答No.1

免許を取って間もない母が、当時まだ小学校低学年だった私を原チャリの後ろに乗せて買い物に行こうと出発した瞬間、勢いよく発進してしまったがために原チャリはラリー状態に(笑) そのまま後ろに私が落ち、私の上に母が落ち、私は下敷きに 怪我は無かったものの、一瞬の事すぎて2人とも重なったまま一時停止(笑) 無言で立ち上がった母は、無言のまま私を起こしあげ、無言のままバイクを駐輪場に停めに行き、手をつないでお互い無言のまま帰宅… それ以来母は徒歩で買い物に行っていました(笑) 25年以上経った今でも原チャリを見ると思い出すし、怖くて原チャリには乗れません